2011-04-30

上馬の思い出25 ラジオの話1

中野義高さんはメイド・イン・タモツのことを覚えていたが、ただ、タモツという子がいたとしか記憶になく、メイド・インの名は知らないという。メイド・イン・ジャパンの言葉をタモツが英語にあこがれて勝手につけたのだろう。そして、子分にメイド・インと呼べと命じたのかもしれない。こ改正道路は広くて快適だったらしく、待田 京介(日活俳優)がオープンカーで上馬から若林に向かって走り、中野さんの家の反対側が毎回テレビのオープニングシーンに使われたことがあった。待田は空手の大山倍達の一番弟子、触ると切れそうな顔をした役者、それが探偵だかの役で改正道路を疾駆する。当時としては珍しいほどの良い道路だったのだろう。
テレビのプロレスにしびれたのは大人ばかりでなく、我々悪ガキも同じで、生駒さんや勝比古さんは詳しく、ルーテーズ、コワルスキー、シュナーベル、プリモカルネラなどの外人レスラーも頭に入っていた。何と言っても力道山の空手チョップが凄かった。黒のタイツで格好もよかった。レフリーの真似をして友達同士でプロレスごっこが大流行だった。
プロレスに人々が集まる街頭テレビも、その他の時間はまるで閑古鳥だった。そんな時間に流れていたのが第二次世界大戦の記録映画、ナチスが負けて日本が降参する話で、見ていて面白いわけもない。このころアニメの広告が開始になった。パール歯磨きは昭和28年に資生堂が売り出した。歯ブラシに半分つけてが売り文句、泡が出るのが人気となり結構売れた。野沢の商店街に八百屋があり、大場金物店の側だったと思うが、ここに小さなテレビがあり、皇太子(今上天皇)が外国に船ででかけるシーンを放送していた。ここのテレビは時代の先取りで、ヘーエーとびっくりした。それから石橋酒屋の街頭テレビとなる。読売新聞の社主、正力松太郎が民間放送のテレビの生みの親、電通に吉田という社長がいて、民間放送ラジオをやらないかと正力に話を持ちかけると、正力はラジオよりテレビだと、その話に乗らなかった。
平成の御世になり東日本大震災が発生、関東大震災がおきたときには日本にラジオ放送はなかった。ために、流言蜚語で朝鮮人が井戸に毒を入れたと、自警団が朝鮮人狩りを行い、多くの人々が裁判もなくリンチにあった。この流言蜚語の元は正力松太郎であった。当時、彼は警視庁に勤務し警視庁も灰燼に帰す中、一部朝鮮人に不逞な動きありと策動し朝鮮人虐殺のもといになる発言をした。これが、電話で伝わり軍、警察関係から情報が流され大虐殺事件となった。
今となっては陳腐化したようなラジオメディアではあるが、この登場期は文明の利器の最先端、高価なものであった。このラジオは第一次世界大戦が終了した大正九年、アメリカ、ペンシルベニア・ピッツバーグで世界初のラジオ局、KDKA局・民間放送が開始になった。当時、真空管メーカーのウエスティングハウス社が、戦争が終って軍に納入していた無線機用の真空管が大量に余ってしまった。戦争中は前線の兵士との連絡に、無線機が使われ、その便利さに着目した軍が無線機製造に力をいれたが、終戦でこれが不要、メーカーのウエスティングハウスは頭が痛い。すると、その会社にいたコンラッド技師が、第一次世界大戦で禁止されていた、アマチュア無線局を再開、世の中平和になったんだから、無線機で方々の人とおしゃべりを楽しもう、世の中、どこにでもこうしたヒョウキンな人がいるもんで、この男のお喋りが、軽妙で頓知にたけており、時宜にあった話が評判となり、次第に多くの人に聞かれるようになった。これがラジオメディアの始まりで、わが国には大正十四年三月二十六日、日曜日午前九時三十分、温度六度五分と少々肌寒い東京上空に電波が発射された。国民が同じ情報を同時に共有する幕開け、関東大震災の二年後だった。続