2011-06-08

駒中の話12

三年生の時、牧山君の担任は辻先生、数学の教師で指導熱心、いつも物事を正しく見ておられた。生徒の能力をいかに高めるかに苦心をされていたように見えた。三年生の時、私の担任は大国先生、このクラスに庄子君がいた。数学の得意な人で試験が終ると早速辻先生のところに行き、自分の採点結果を訊いていた。私は数学も得意でなう、気後れしながら庄子君に誘われるまま職員室に向かった。
得手不得手を見定め、それを伸ばす努力を庄子君はされ、横浜国立大の造船に進み、自衛隊に入られ大佐まで昇進したのを見た。それは同期会で知ったのだが、その後は知らない。オームのサリン事件の時だった。庄子君の父君も海軍に行かれた。戦争で亡くなり美人の母親と祖母に育てられた。立派な屋敷で長押に槍がかかっていた。
学問で身を立てる、この言葉を見るたび庄子君を思い出す。自身の得手を伸ばし、それを持って世に出て、駆逐艦を設計し、それを海に浮かべた。造船技師としては最高な栄誉。
若い頃から自分の才能を信じまっしぐらにそれに向かった庄子君は立派だった。
そして、数学好きな生徒を育てられた辻先生の教育熱心に脱帽する。この先生も戸田先生と同じく生徒に気配り目配り心配りをされた。
学校は楽しくはなかったが、こうした先生を見ることができたのは幸せであった。だから卒業しても、戸田先生にお目にかかったとき、先生は立派な先生でしたと礼の言葉が言えた。これもありがたいことだ。
人生は多くの人に支えられてある。自分一人で勝手にやってきたような気になるが、それは間違いだ。その世話になった一人ひとりに私たちはありがとうの感謝の言葉を伝えることができたのだろうか。
先生方もご高齢におなりで、同期会にお呼びすることを憚るようになった。しかし、ありがとうの言葉は伝えなくてはならない。それが直接口から出ずとも、文章につづればそれでもいい。嫌な教師も確かにいたが、それはサラリーマン教師で、心から生徒のことを考えていない。それを敏感に中学生が感じていたのだ。
高安軍治君は眼のクリクリとした利発そうな子で、いつも笑顔を絶やさなかった。この人はどういう不遇の風の下にいたのか、天理教の教会におられた。中学を卒業して四年目だかに、秋葉原に友人とでかけたことがあった。そのとき不二家だと思うが喫茶店に入った。背の伸びた高安君が銀のお盆を持っていらっしゃいませと客を迎えていた。すると、高安君がそこの勘定を代払いしてくれた。つまり高安君におごってもらった。それっきり、あれから五十年も経って、借りがそのまま残っている。去年、土屋さんに高安君の住所を教えてもらいはがきを書いた。借金が残っているので、おごってお返しをしたいので連絡下さいと。しかし、妙なことをされるのではなかろうかと警戒したのか、返事はなかった。これもまた借りになったままだ。
小さな親切が忘れられないのだ。高安君とて高給をとっていた訳もなく、たまたま顔見知りが入店し、気をつかって金まで使ったわけだが、それが今でも心に残る借金となった。