2011-03-28

昭和30年ごろの三茶商店街4


協和銀行側の一列です

三茶の思い出7



世の中は繰り返すもの、丁度春が来て夏が来るようにめぐる月日が重なりて、とうとう半世紀を越して我々も六十七にもなりました。秋分で昼と夜の長さが等しくなり、それから朝がくるのが五分遅れ、陽が沈むのが五分早くなって、とうとう冬至に至り夜が一番長くなっちまう訳、この歳まで来ると夜になりゃ寝るし朝も早くから起きる必要もなくなります。
 なんたってあんた、行く所がないんですから、会社や役所からはとうに定年でお払い箱、朝起きると今日は何をして遊ぼうかと、まるで小学生の夏休みのようなものです。
 三茶小の前に観音堂って文房具屋がありまして、片手のおかみさんが働いていました。何で片手なのかと不思議に思ったもんですけど、誰もその謎を知りません。その並びに米屋があって、丁度今時の寒の入りに豆の入ったなまこ餅を搗きました。臼で搗かずに機械で搗くから、丁度大きなニョロニョロした餅の棒のようなものが出てくるんです。それを曽根くんと飽きもせずに眺めていました。
 曽根くんと二十歳代に死んだ高田くんとは仲が悪く、高田くんは「キツネ」と罵っていました。曽根くんは痩せているけど相撲がなかなか強い。でも高田くんにはかなわない。それがケンカの原因です。平和パンの側に砂場、その横に鉄棒があり、逆上がりの得意な曽根くんが鼻の穴を拡げています。世田谷通りの竹屋の隣の森くんも運動神経は抜群で野球などさせると敏捷な動きで眼をみはるものがありました。
 曽根君は新潟からの転校生、妹尾さんの隣に引っ越してきました。妹尾さんの家には弟がいて、曽根くん兄弟と共に遊びに行ったことがありました。何でも父親は船乗りのように記憶していますけど間違いかも知れません。見たこともないような高級そうな品物があり、外国を感じたような気もしますけど、遠い昔で思い起こすことができません。丁度、ラジオで紅孔雀を放送していたころです。
 曽根くんの家では姉さんと母親が梅干を漬けていて、秋になったら食べさせると言ってくれました。梅干は漬けてしばらくしなければ食べられないのかと不思議に思ったのです。なにしろ洟垂れ小僧も都会の田舎の三茶ですから、その程度の知識しかありゃしません。それが出来たからとご馳走になったとき、紫蘇の香りが美味さを増して、曽根くんの母親が強烈な印象として残りました。後年、三茶小の前の同期会、あれから二十二年も経ちますか? その時に曽根くんの母親が元気でいることを聞き、つまらぬ物を贈りました。すると曽根くんの母親から手紙が来ました。こんな婆をよく思い出してくださいましたと懇切なる文面で、読みながら周囲がぼんやりとしてきたのは当時の頃を思い出したからなんです。突然、紅孔雀の歌が聞こえたんです。
 昭和二十九年、NHKラジオドラマです、那智の小四郎は、紅孔雀の秘宝のなぞを解く黄金の鍵をめぐって、元海賊の網の長者、幻術使い・信夫一角やしゃれこうべ党とたたかう活劇ドラマでした。語りは後年民放で活躍する近石真介、夕方六時五分からラジオに噛り付いて聞いたもんです。映画では小四郎を中村錦之助が演じました。上馬メトロって小便の臭いの充満する映画館で見たような記憶があります。そんな三茶のことが一気に溢れ出して、もう戻れないあの頃のことが、曽根くんの母親の手紙からまるで流れるように次々と泡立ち渦を巻きました。
 三茶に幸いなことに今でも住める人、そこから丁度コマが廻ると上にあるものが弾かれるように飛び出し弾き出された者たちにとっては、なにかにつけて三茶が恋しいものなんです。まるで座布団に座る祖母の首ッ玉に後ろから抱きついたあの時のような……、失ったものはそこに無いだけに、それだからこそ尊いものです。まるで亡くなってしまった父とそして優しかった母のように。