2011-04-12

中里の思い出1



中里には浜畑賢吉さんが駆け出しの頃住んでおられたそうで、私の家に下宿してたのよなんてオバサンがいた。玉電中里は丁度馬の背のような場所で、三茶に向かって左右にダラダラと下がるようになっていた。
その左側が三茶小の学区になり、多くの子供たちがここで蠢いていた。土屋さんに当時の地図を描いてもらった。
玉電中里の駅舎があった。ここは世田谷線と同様に専用軌道があり、車とは区別されていた。上馬寄りの天皇陛下の乗馬用ムチを製造したデカシさんの家の前あたりから専用軌道に入り、三茶の手前あたりから車と一緒になる。途中、蛇崩川を渡る小さな鉄橋があるが誰も知らないだろう。
この駅に土屋さんに思い入れがある。土屋さんの父君が玉電で渋谷に出て、品川から東神奈川の日本鋼管に勤務、早暁、冬だとまだ星の出ている道を中里駅に歩む、この人は山梨県の産、甲府で名産の水晶研磨工場を経営していた倅に生まれるが、跡継ぎ問題などで東京に働く、日本鋼管では南極探検船の宗谷の建造修理にあたられた。
その父君を小学生の土屋さんが中里駅で傘をさしてお迎えだ。精励を旨とした人で務めを休まないどころか仕事開始の一時間前には会社に居るほど、こうした職人が昔はいたものだ。会話は得手としないが、機械と対話の出来るのが職人、今日の機械は機嫌がいいとか悪いとか、音の出方でそれがわかったそうだ。
中里駅にはポンプがあって冷たい水で喉を潤すことができた。昔の世田谷は水が綺麗だった。蛇崩川には大きなエビガニがたくさんいて、腹がすいた悪ガキはそれを茹でて食べたほど爽やかな場所だった。
世田谷区立郷土資料館の写真にポンプと売店が写っている。中里名物は古本屋の時代や書店、この店は中里駅を挟んで両側にあった。左側が三茶小、右側は中里小の学区だった。
この古本屋は古い、菰池さんという方が三代だか四代に渡って経営、江戸物、明治物の文献を得手とされる。奇書骨董の類と思えば間違いがない。
ここで父君を待つ土屋さんは晴れている日は車止めの鉄柵につかまり逆上がりをした。子供はじっとしていないもんだ。騒いで遊ぶのが仕事、怪我をしなければ何をしていてもいい、昨今の親は実に神経過敏で、もう少し黙って見ていろといいたいほど、ああでもないこうでもないとやかましい。子供は親の道具じゃない、子供は遊ぶのを業とする、事業、学業と同じで遊業なのだ。だから好きなようにさせろ。
土屋さんは父君と手をつないでダラダラ坂を下り商店街を抜けた。その商店街の地図がこれ。