2011-05-03

上馬の思い出28 ラジオの話4

ラジオ歌謡が始まってそこから幾つものヒットが出た。「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎の灯」、「さくら貝の歌」、「森の水車」、「雪の降るまちを」などだ。1953年には、歳だった美空ひばりが登場し、「あまんじゃくの歌」を歌った。「朝はどこから」は昭和21年朝日新聞が詩を募集、それに橋本国彦が曲をつけた。この募集に童謡で応募した作品に「赤ちゃんのお耳」がある。これには兵庫県産の苦学生だったが音楽に情熱を捧げた佐々木すぐるが作曲、74歳で没するまで音楽振興に力を尽くした。この人の「月の砂漠」「お山の杉の子」はいまだに唄われる名曲。
戦争が終り新生にっぽんと誰もが心底思ったものだが、食糧事情は改善されることなく、給食には脱脂粉乳がでた。これはまずくて飲めなかった。それでも学校は楽しくて毎日通った。あの頃のように毎朝、毎夕歩いていれば糖尿病にはならないが、どうしても歩くことを忘れる。六十歳を過ぎたら再就学で、小中学校へどの学年でも入学できるようにして、生涯学習制度をつくれば病人は減り医療保険も減額できる。
さて、「あざみの歌」だが、これは横井弘の作詞に八州秀章が作曲、この横井は東京は四谷の産、空襲で家を焼かれ応召、茨城県で初年兵として沿岸防備、藤浦洸に師事するも、作詞家として藤浦自体も確立しておらず、藤浦が出入りしていたキングレコードでバイト、その時横井が書いた詩を大作曲家だった八州に渡す。この詩に打たれて作曲するが、横井はバイトを辞めていて連絡がとれない。やきもきする内に三年が経過、そして昭和26年に伊藤久男が吹き込み大当たり。伊藤は日本のフランキー・レイン、ほれぼれするような男臭さで歌い上げ、伊藤もこの曲が一番好きだと言う。伊藤は72歳、糖尿病で死んだ。彼も再就学していれば、もう少しあの美声を聞かせられた。
伊藤は福島県本宮の産、同郷には大作曲家の古関裕而、この人がピアノを志していた伊藤に歌手の道を示す。伊藤は裕福な家系、音楽をやりたいと言うと家族が反対するので東京農大へ進学し、中途で帝国音楽学校へ、これがばれて仕送りが途絶え苦労、ところがコロムビアが拾い花を咲かせる。人生は何があるか判らない、あきらめれば挫折だが、転んでも起き上がるかぎり敗北はない。長い人生歩いてきてやっとそれが判った。
伊藤の振り絞るような声の「暁に祈る」で多くの兵が送り出された。