渋谷行きの玉電の停留所前に西沢という本屋があった。石橋酒屋、ウガパーの家の隣だ。二子玉川を昨今の人はニコタマと呼ぶそうだ。玉が二個とはどっかで聞いたような話だとニヤリ、玉川は多摩川でもあり丸子多摩川の呼称もある。この呼び名を解明した者はなく、なんとなくそうだというだけ。二子塚というのがあったからなどの話もあるが不明。
その昔、玉電はジャリ電と呼ばれたと三茶小の三上先生がいわれた。私も玉電が貨車を曳き、砂利を運搬していたのを目撃した。二子玉川から砂利を採取したのだろう。小学生のころは二子玉川に行くなと言われた。業者が砂利を採取し、穴をそのままにして、子供がその穴にはまって死ぬ事故が絶えなかった。
西沢書店のおかみさんはズケズケ物を言う人で、立ち読みしていると、子供は汚い手で本を見るなと叫ぶ。イヤなばばあだと思っていた。追われてももどる五月蠅のように、それでも西沢書店には通った。なにしろ、手塚治虫のマンガが見たくてたまらなかった。マンガの上手な勝比古さんは巧いだけではなく、マンガ界についても詳しかった。イガグリ君というマンガが、これは大ヒットすると第一回が出た時に予言した。作家は福井英一、この人はすぐに亡くなった。イガグリくんは柔道漫画、そして、後年少年たちの血を熱くした、あの名作「赤胴鈴之助」の剣道漫画の第一作を描き急逝、わずか33歳だった。
その後を引き続いて描いたのが武内つなよし、この人は赤胴で売れっ子作家になった。福井は東京都の産、惜しい才能だった。スポコン漫画(スポーツ根性)の元祖。
勝比古さんは自分が漫画をかくだけでなく、漫画界にまでアンテナを広げていたのは、漫画家を目指していたのだろう。ところが、自分の好きなことで生涯を送れるものは少ない。この勝比古さんも漫画界に投じた話を聞かなかった。これも惜しいことだった。
さて、二子玉川で子供が砂利採取の穴に落ち込んで死ぬと書いたが、この西沢書店の子が友達と二子玉川にでかけ、その子が見えなくなったので一人で帰ってきた。その子は死体で見つかり、その母親が嘆いて、店番をしている嫌なおかみさんに電話をかけてきた。丁度、そこへ立ち読みにでかけた。長電話でおかみさんが叩きをかけにこないので、いい塩梅だと漫画を見ていたが、次第に電話の応対が急を告げてきたので、今度は漫画そっちのけで耳が次第に大きくなった。おかみさんは自分の子どもは悪くないと自己弁護、ところが命を失った方は治まらない。日頃、我々悪ガキを叩きを持って追い回すにっくきばばあがやりこめられているので、それは痛快至極、日頃の溜飲を大きく下げた。それでもにっくきばばあは自己正当を繰り返していたが、誰の目にも非があった。
その西沢書店も今は無くなってしまった。新刊本はインキの臭いが店内に充満し、これが文化の匂いだと思った。
2011-04-29
2011-04-28
上馬の思い出23
ドリアンの隣に貸し本屋ができた。ドリアンは二階建て長屋で、貸し本屋に貸した家にはノブ公という子供がいた。この貸本屋で怪人二十面相などの本を借りた。貸し本屋で食える時代があった。この貸本屋は兄弟で経営していて、弟は早稲田大に行っていたが、ほどなくして死んだ。その後、この本屋はカメラ屋に商売替えをした。カメラなど高価で高値の花だった。その並びにオグラ時計店があり、若くて元気な兄弟がいたように思う。そこでレンズを買って望遠鏡を作ったことがあった。
この家に嫁いだ美人がいて、島村イクコと言った。三人姉妹の二番目、関西から移転してきて、私の家で姉妹三人が働いていた。その二番目は卓球が上手く和泉屋の先、デカシさんの近くに卓球場が出来て、そこに遊びに来たオグラ時計店の若い経営者と知り合い結婚した。私が中学二年生の頃だった。
合縁奇縁の言葉があるが、人生はちょっとした出会いで人生が大きく変わる。良きにつけ悪しきにつけだ。このオグラ時計店は現在でも上馬に存在し、昔より大きく立派になったような気がする。一度も訪ねたこともないが、長い風雪をくぐりぬけて現存することは立派としか言いようがない。時代は激しく移り変わり、昔の子供も今は老人となった。色々なことを見聞してきたが、時代は少しも休むことなく変化を繰り返して見せる。これもまた不思議なものだ。
オグラ時計店の並びに松の木瀬戸物店があった。やる気のない姉妹が経営していたが、ある日店じまいをした。その並びに毛塚の今川焼き、赤井おもちゃ屋、その店のおばあさんは赤井花子と言った。そして進藤肉屋になり野沢商店街へと切り込んで行った。野沢商店街には大場金物屋があり、釘から鍋釜と種々雑多なものが並んでいて、見ているだけでもめまいがしそうだった。今のようにホームセンターで何でも自由に見たり触ったりができる時代ではなく、店員に○○が欲しいというとそこに案内してくれた。釘などは目方で売っていた。大塚という洋品店、旭デパートだかマーケットが出来て、その二階に大坪というボディービル道場があった。そこには相撲の鳴門海が来たことがあった。力道山のプロレスブームが世の中を大きく変化させた。
ともかくプロレスが見たかった。玉電通りの千田歯科医の近くにそろばん塾があり、そこにテレビがあり、通ってもいないのにプロレス見たさに押しかけた。シャープ兄弟と力道山の試合はラジオじゃわからない迫力があった。柔道の木村との戦いも凄かった。ともかく、聞く楽しさもさることながら、見たいという欲求のほうが強かった。石橋酒店の街頭テレビには多くの人が詰め掛けた。昔は今のように四六時中テレビは放映されていない。昼などはテレビは見れなかったもんだ。
その街頭テレビを置いている石橋酒屋に同い年の子供がいて、言葉が不自由だった。それでも運動神経は敏捷で走るとやたら早かった。改正道路で軍艦ごっこなどをやると、ルールも理解して巧みだった。何か喋ろうとすると、吐くようにウングと言ってからパーと続けるので、皆がウガパーと呼んだ。彼もまたそれに反応して振り返ったので、耳は機能していたのだろう。ある日、彼と遊ぼうということになり、あたりを探したが見当たらない。家にいるのじゃないかと、酒屋に入り込み、店番の母親にウガパーいる?と聞いたら、「まあひどい、うちの子は○○という名前があるんです」とひどく強く言われた。泣きそうな顔をして言ったところを見ると、本気で怒ったのだろう。しかし、ウガパーはウガパーだと気にもしなかった。駒沢中学に宇佐美という焼き過ぎた黒パンのようなでかい顔をした国語の教師がいて、聾学校の教師になりたかったが、頬がふくらんでいると、生徒が頬の動きで言葉を察するので、不向きだと採用されなかった話を聞かせた。その時に、聾学校に入ると最初に子供を椅子に座らせ、顔を上に向かせて口に水を注ぎ込む、すると苦しくなって、ウガという、そして、その水をパーっと吐き出す。言葉は口から空気を出す訓練の第一歩がウガパーだと言った。なるほど、それでウガパーだったんだと理解した。
そのウガパーの店の横に空になった味噌樽が並んでいて、冬の寒い日は、それに入り込んでヘリについた味噌を舐めた。するとウガパーが我々を酒屋の物置に連れて行った。袋の破けた塩や砂糖などがあり、塩は舐めなかったが砂糖は舐めて残りはポケットに入れた。横に缶詰があり魚の絵が描いてあった。それは缶詰が太っていてはちきれそうになっていた。よほど美味い物が入っているんだろうと、松ノ木精米店のヒロシさんに言うと、それは腐っていて中にガスが溜まっているから食うと死ぬぞとおどかされた。食べなくてよかったと思った。ウガパーは長じてワイシャツの店を経営したと聞いた。
この家に嫁いだ美人がいて、島村イクコと言った。三人姉妹の二番目、関西から移転してきて、私の家で姉妹三人が働いていた。その二番目は卓球が上手く和泉屋の先、デカシさんの近くに卓球場が出来て、そこに遊びに来たオグラ時計店の若い経営者と知り合い結婚した。私が中学二年生の頃だった。
合縁奇縁の言葉があるが、人生はちょっとした出会いで人生が大きく変わる。良きにつけ悪しきにつけだ。このオグラ時計店は現在でも上馬に存在し、昔より大きく立派になったような気がする。一度も訪ねたこともないが、長い風雪をくぐりぬけて現存することは立派としか言いようがない。時代は激しく移り変わり、昔の子供も今は老人となった。色々なことを見聞してきたが、時代は少しも休むことなく変化を繰り返して見せる。これもまた不思議なものだ。
オグラ時計店の並びに松の木瀬戸物店があった。やる気のない姉妹が経営していたが、ある日店じまいをした。その並びに毛塚の今川焼き、赤井おもちゃ屋、その店のおばあさんは赤井花子と言った。そして進藤肉屋になり野沢商店街へと切り込んで行った。野沢商店街には大場金物屋があり、釘から鍋釜と種々雑多なものが並んでいて、見ているだけでもめまいがしそうだった。今のようにホームセンターで何でも自由に見たり触ったりができる時代ではなく、店員に○○が欲しいというとそこに案内してくれた。釘などは目方で売っていた。大塚という洋品店、旭デパートだかマーケットが出来て、その二階に大坪というボディービル道場があった。そこには相撲の鳴門海が来たことがあった。力道山のプロレスブームが世の中を大きく変化させた。
ともかくプロレスが見たかった。玉電通りの千田歯科医の近くにそろばん塾があり、そこにテレビがあり、通ってもいないのにプロレス見たさに押しかけた。シャープ兄弟と力道山の試合はラジオじゃわからない迫力があった。柔道の木村との戦いも凄かった。ともかく、聞く楽しさもさることながら、見たいという欲求のほうが強かった。石橋酒店の街頭テレビには多くの人が詰め掛けた。昔は今のように四六時中テレビは放映されていない。昼などはテレビは見れなかったもんだ。
その街頭テレビを置いている石橋酒屋に同い年の子供がいて、言葉が不自由だった。それでも運動神経は敏捷で走るとやたら早かった。改正道路で軍艦ごっこなどをやると、ルールも理解して巧みだった。何か喋ろうとすると、吐くようにウングと言ってからパーと続けるので、皆がウガパーと呼んだ。彼もまたそれに反応して振り返ったので、耳は機能していたのだろう。ある日、彼と遊ぼうということになり、あたりを探したが見当たらない。家にいるのじゃないかと、酒屋に入り込み、店番の母親にウガパーいる?と聞いたら、「まあひどい、うちの子は○○という名前があるんです」とひどく強く言われた。泣きそうな顔をして言ったところを見ると、本気で怒ったのだろう。しかし、ウガパーはウガパーだと気にもしなかった。駒沢中学に宇佐美という焼き過ぎた黒パンのようなでかい顔をした国語の教師がいて、聾学校の教師になりたかったが、頬がふくらんでいると、生徒が頬の動きで言葉を察するので、不向きだと採用されなかった話を聞かせた。その時に、聾学校に入ると最初に子供を椅子に座らせ、顔を上に向かせて口に水を注ぎ込む、すると苦しくなって、ウガという、そして、その水をパーっと吐き出す。言葉は口から空気を出す訓練の第一歩がウガパーだと言った。なるほど、それでウガパーだったんだと理解した。
そのウガパーの店の横に空になった味噌樽が並んでいて、冬の寒い日は、それに入り込んでヘリについた味噌を舐めた。するとウガパーが我々を酒屋の物置に連れて行った。袋の破けた塩や砂糖などがあり、塩は舐めなかったが砂糖は舐めて残りはポケットに入れた。横に缶詰があり魚の絵が描いてあった。それは缶詰が太っていてはちきれそうになっていた。よほど美味い物が入っているんだろうと、松ノ木精米店のヒロシさんに言うと、それは腐っていて中にガスが溜まっているから食うと死ぬぞとおどかされた。食べなくてよかったと思った。ウガパーは長じてワイシャツの店を経営したと聞いた。
2011-04-27
上馬の思い出22
酒場ドリアンはどりあんと書いたのかも知れない。ともかく60年も前のことだけに、定かではない。玉電という路面電車がのんびりと走り、その両側に所々に商店が立ち並ぶ、ごく貧弱な町並みだった。渋谷から上通りにかけて玉電は専用軌道敷を爪先あがりに上る。大橋、池尻、三茶と続くわけだが、この廃線になった玉電の駅名を渋谷から二子玉川までいまだに言える。幼い頃に記憶は鮮明だが、年取ってくると昨日の晩飯がなんだったか忘れてしまうのも不思議。
あおの玉電の中心になる所から上馬の次が真ん中で真中(まなか)と言った。安全地帯などもなく、電信柱に赤い行灯看板に真中とかかれていた。雨が降るとジイジイと爺さんが恋しくて泣く孫のような音を立てた。また、良く雨が降ったもんだ。夏になると夕立が降って通る人を嘆かせたが、雨宿りをしたくとも改正道路にそんな洒落た店はなく、皆、ひたすら歩いたもんだ。夕立がやむと赤とんぼが湧くように青空を自由に飛び、悪ガキはそれを箒を持って追いかけた。とんぼなどどれほど採っても腹の足しにはならないが、それでも反射的に追いかけた。
玉電に乗って砧の池で釣りをしに行った。松の木精米店のヒロシさんは釣りが上手で、鮒などを釣り上げたが、私はいつも一匹も釣れなかった。真中に釣具屋があった。丸い東海林太郎のような眼鏡をかけた主人が客と釣り談義でもしているのか、客が絶えなかった。
そこで鮒をバケツに入れて売っていた。それを甕に入れて飼ったが、次第に大きくなり、甕が小さく見えるようになったが、その鮒をどう始末したのかは覚えていない。
釣りにはヒロシさんの外に勝比古さんも行った。砧の池で釣っていると、蛇がとぐろを巻いているのを見つけ、勝比古さんに教えた。青大将ではなくやまかがしだという、それを勝比古さんがつかもうとして噛まれた。毒はないかれ平気だと言っていたが、蛇を上手に扱えると思っていたのに噛み付かれてショックのようだった。
砧には二子玉川で乗り換えるのだが、そこから先は単線で歩いて行ったこともある。鉄橋を線路に従って歩くと途中に蛇の死骸があったりした。国太床屋のタケシさんが親戚が溝口にいるそうで、砧は隣村だけに良く知っていた。砧駅の前にワカモト製薬の社長のデカイ洋館があった。田圃が続くのんびりとしたところだった。
その田圃の横には狭い流れがあり、そこをボテという手に持つ網でガサガサとかき回すとどじょうや小魚が一杯とれた。それをタケシさんは得意にしていた。駒中のタンチ山に霞み網をしかけて小鳥をとっていた。霞み網はやってはいけないと言いながらとっていた。私はその後についていったが、一回も網にかかったのを見たことがなかった。タンチ山というのは昔、そこにタンチという乞食が住んでいたそうだ。今のホームレス、昔は山ごと自分のねぐらにしていたから、現今の駅の近くの通路に寝るのとは訳がちがう。乞食の名が山の名になるのだから大したもの。もっとも渋谷の道玄坂も道玄という夜盗・強盗の大和田太郎道玄の名からきたそうだ。昔の武士なんてのも押し借りゆすりは武士の習いというほどで、理屈ぬき理不尽なんてのは当たり前、土台、働かなくして飯を食うのだから、どこからか融通しなければ食えない。強盗などは朝飯前だ。
勝比古さんのドリアンは母親が経営、父親は裏で雀荘をやっていたが、小男で風采が上がらなかった。ところが世の中はどういうところか、この小男が若い女とできて駆け落ちしたと風の噂が伝えた。それは私が駒沢中学の二年生だか、三年の頃だった。勝比古さんは父親を見つけたら殺してやると、飛び出しナイフを持って歩いているそうだと友人が教えてくれた。色の道ばかりは道理や条理のつかないところで隠花のようにひっそりと妙な臭いと共に咲く。そんなことが判るようになるのは、それから十年もあとのことだった。勝比古さんの母親は急に老け込んだと、これも噂で知った。
あおの玉電の中心になる所から上馬の次が真ん中で真中(まなか)と言った。安全地帯などもなく、電信柱に赤い行灯看板に真中とかかれていた。雨が降るとジイジイと爺さんが恋しくて泣く孫のような音を立てた。また、良く雨が降ったもんだ。夏になると夕立が降って通る人を嘆かせたが、雨宿りをしたくとも改正道路にそんな洒落た店はなく、皆、ひたすら歩いたもんだ。夕立がやむと赤とんぼが湧くように青空を自由に飛び、悪ガキはそれを箒を持って追いかけた。とんぼなどどれほど採っても腹の足しにはならないが、それでも反射的に追いかけた。
玉電に乗って砧の池で釣りをしに行った。松の木精米店のヒロシさんは釣りが上手で、鮒などを釣り上げたが、私はいつも一匹も釣れなかった。真中に釣具屋があった。丸い東海林太郎のような眼鏡をかけた主人が客と釣り談義でもしているのか、客が絶えなかった。
そこで鮒をバケツに入れて売っていた。それを甕に入れて飼ったが、次第に大きくなり、甕が小さく見えるようになったが、その鮒をどう始末したのかは覚えていない。
釣りにはヒロシさんの外に勝比古さんも行った。砧の池で釣っていると、蛇がとぐろを巻いているのを見つけ、勝比古さんに教えた。青大将ではなくやまかがしだという、それを勝比古さんがつかもうとして噛まれた。毒はないかれ平気だと言っていたが、蛇を上手に扱えると思っていたのに噛み付かれてショックのようだった。
砧には二子玉川で乗り換えるのだが、そこから先は単線で歩いて行ったこともある。鉄橋を線路に従って歩くと途中に蛇の死骸があったりした。国太床屋のタケシさんが親戚が溝口にいるそうで、砧は隣村だけに良く知っていた。砧駅の前にワカモト製薬の社長のデカイ洋館があった。田圃が続くのんびりとしたところだった。
その田圃の横には狭い流れがあり、そこをボテという手に持つ網でガサガサとかき回すとどじょうや小魚が一杯とれた。それをタケシさんは得意にしていた。駒中のタンチ山に霞み網をしかけて小鳥をとっていた。霞み網はやってはいけないと言いながらとっていた。私はその後についていったが、一回も網にかかったのを見たことがなかった。タンチ山というのは昔、そこにタンチという乞食が住んでいたそうだ。今のホームレス、昔は山ごと自分のねぐらにしていたから、現今の駅の近くの通路に寝るのとは訳がちがう。乞食の名が山の名になるのだから大したもの。もっとも渋谷の道玄坂も道玄という夜盗・強盗の大和田太郎道玄の名からきたそうだ。昔の武士なんてのも押し借りゆすりは武士の習いというほどで、理屈ぬき理不尽なんてのは当たり前、土台、働かなくして飯を食うのだから、どこからか融通しなければ食えない。強盗などは朝飯前だ。
勝比古さんのドリアンは母親が経営、父親は裏で雀荘をやっていたが、小男で風采が上がらなかった。ところが世の中はどういうところか、この小男が若い女とできて駆け落ちしたと風の噂が伝えた。それは私が駒沢中学の二年生だか、三年の頃だった。勝比古さんは父親を見つけたら殺してやると、飛び出しナイフを持って歩いているそうだと友人が教えてくれた。色の道ばかりは道理や条理のつかないところで隠花のようにひっそりと妙な臭いと共に咲く。そんなことが判るようになるのは、それから十年もあとのことだった。勝比古さんの母親は急に老け込んだと、これも噂で知った。
2011-04-26
上馬の思い出21
メイド・イン・タモツ親分のおかげでセンミツと呼ばれた。千に三つしか本当のことを言わないという、つまり0.3%、子供の頃は紙芝居が来て、5円も持っていけば充分に何か買えた。紙芝居というとガマさん、明治大の夜間に行っている若い人、それとフライパンだった。紙芝居は下北沢の貸し出し元から借りて、自転車に駄菓子の入った引き出し、その上に紙芝居のセット、さらにその上に大太鼓を置いて、町の辻辻で、大太鼓を胸にかけて、叩いて近所を廻ると、どこからともなく子供が湧いて出る。
定番の黄金バットは人気がなかった。怖いのもあった。墓場から生き返って出て来るのなんかは夜中に小便に行くのが嫌だった。
紙芝居も読み癖があり、その口調に子供ながらも巧拙があると思った。明大生のは朗読調、ガマさんのは芝居風、フライパンのは軽演劇のような軽さとアドリブにあった。フライパンの持ってくる紙芝居は滑稽ものが多く、それが子供に受けた。フライパンは太鼓が買えないので代用品としてフライパンを叩いていた。それが故にフライパンという。フライパンの守備範囲は広く三茶のあたりまで廻っていたようで、アーチャンも紙芝居を見たという。このフライパンは酒癖が悪く、後年三茶で飲んでケンカをして目青不動のところで刺し殺された。目青不動は江戸の五不動の一つで目が青いからその名がある。もとは麻布谷町、今の六本木あたりにあったが、明治41年に三茶の太子堂に移転してきた。
フライパンはお調子者だったけど悪人ではなかったように思うが、それも子供の視点、本当のことはわからない。
刺されて死んだ話は後年、私の知り合いでそれをみた。大井町で質流れ品を販売していたアライさんはいつも黒い顔つきをしていて、何か不思議な感じがあった。私が東京質屋組合の手伝いをして、組合会報の連載を書いていたころ、アライさんの主人筋の上総屋のことを記した。そのときに城南の質屋の雄、上総屋の旦那と知り合ったが、このアライさんの店に泥棒が入り、多額な被害にあった。その保険金の請求を東京海上にしたが、敵はなかなか払わない。その交渉を依頼されかけあったことがあった。無事に保険金は支払われアライさんい感謝されたが、中国人の泥棒のようで、大井町あたりは物騒だった。セコムにも加入してアラームが鳴る装置もつけていたが、ある日、開店のシャッターを開けたら、中に泥棒がいて刺し殺された。このアライさんと同じ顔つきのコックを見たことがあった。アライさんと同じだな、きっとまがまがしいことが起きるぞと思っていたら、このコックの家が丸焼けになった。その後、このコックの顔つきから黒いのが消えた。不思議な経験をしたもんだ。それ以来、人相には特に気を配るようにしている。
さて、隣の家の電気屋の長男ケンチャンが玉電通りを改正道路に渡ろうとして車に撥ねられた。腕に大怪我を負った、撥ねたのは外国人だった。なんでも納豆を買いに行き、その帰りに撥ねられたという。野沢の通りに乾物屋が何軒もあった。新倉屋という乾物屋だと土屋さんが教えてくれるが、どうも、上馬から野沢へかけての商店が思い出せない。駒中の原君は家が近いので野沢の商店街の地図が書けるかもしれない。折があれば頼んでみたいものだ。その頃の野沢は改正道路から見ると狭く、せせこましい感じがした。若林の交番まで改正道路が広く、その先はまた狭まっていた。私の家はメリヤス屋で駒沢に鈴木という仲間がいた。そして若林の狭くなった通りの左側に北条というメリヤス屋も同業で知り合いだった。そこの長男が私より一つ上で、ボロ市で露天商の親分を刺し殺した。中学を出て間もなくだったような気がする。その頃は安藤組が渋谷で幅をきかせていた。子供をそそのかして相手を殺させるのは人非人のすることだ。フランスの詩人アラゴンはこういう、若者に教えることは希望を持たせること、学ばせることは誠実を胸に刻み込ませること。私たちも老人になり、若者のために今日一日、何か努力をしただろうか、そんな問いかけも大事、このブログも若い人の夢と希望を掻き立てられるもとに、少しでも役立てばと思って書いている。多くの三茶界隈を舞台とした話に時代を超えた何かを感じてもらえれば望外の喜び。どの道、好き勝手に生きても一生は一生、不幸だ、つまらないと思っても、これもまた一生、それなら、今日も楽しかった、今日も面白かったと笑って暮らせる人こそ、真の人生の王者だ。銭・金を超越したところにこそ、人生の本質があるのさ。
定番の黄金バットは人気がなかった。怖いのもあった。墓場から生き返って出て来るのなんかは夜中に小便に行くのが嫌だった。
紙芝居も読み癖があり、その口調に子供ながらも巧拙があると思った。明大生のは朗読調、ガマさんのは芝居風、フライパンのは軽演劇のような軽さとアドリブにあった。フライパンの持ってくる紙芝居は滑稽ものが多く、それが子供に受けた。フライパンは太鼓が買えないので代用品としてフライパンを叩いていた。それが故にフライパンという。フライパンの守備範囲は広く三茶のあたりまで廻っていたようで、アーチャンも紙芝居を見たという。このフライパンは酒癖が悪く、後年三茶で飲んでケンカをして目青不動のところで刺し殺された。目青不動は江戸の五不動の一つで目が青いからその名がある。もとは麻布谷町、今の六本木あたりにあったが、明治41年に三茶の太子堂に移転してきた。
フライパンはお調子者だったけど悪人ではなかったように思うが、それも子供の視点、本当のことはわからない。
刺されて死んだ話は後年、私の知り合いでそれをみた。大井町で質流れ品を販売していたアライさんはいつも黒い顔つきをしていて、何か不思議な感じがあった。私が東京質屋組合の手伝いをして、組合会報の連載を書いていたころ、アライさんの主人筋の上総屋のことを記した。そのときに城南の質屋の雄、上総屋の旦那と知り合ったが、このアライさんの店に泥棒が入り、多額な被害にあった。その保険金の請求を東京海上にしたが、敵はなかなか払わない。その交渉を依頼されかけあったことがあった。無事に保険金は支払われアライさんい感謝されたが、中国人の泥棒のようで、大井町あたりは物騒だった。セコムにも加入してアラームが鳴る装置もつけていたが、ある日、開店のシャッターを開けたら、中に泥棒がいて刺し殺された。このアライさんと同じ顔つきのコックを見たことがあった。アライさんと同じだな、きっとまがまがしいことが起きるぞと思っていたら、このコックの家が丸焼けになった。その後、このコックの顔つきから黒いのが消えた。不思議な経験をしたもんだ。それ以来、人相には特に気を配るようにしている。
さて、隣の家の電気屋の長男ケンチャンが玉電通りを改正道路に渡ろうとして車に撥ねられた。腕に大怪我を負った、撥ねたのは外国人だった。なんでも納豆を買いに行き、その帰りに撥ねられたという。野沢の通りに乾物屋が何軒もあった。新倉屋という乾物屋だと土屋さんが教えてくれるが、どうも、上馬から野沢へかけての商店が思い出せない。駒中の原君は家が近いので野沢の商店街の地図が書けるかもしれない。折があれば頼んでみたいものだ。その頃の野沢は改正道路から見ると狭く、せせこましい感じがした。若林の交番まで改正道路が広く、その先はまた狭まっていた。私の家はメリヤス屋で駒沢に鈴木という仲間がいた。そして若林の狭くなった通りの左側に北条というメリヤス屋も同業で知り合いだった。そこの長男が私より一つ上で、ボロ市で露天商の親分を刺し殺した。中学を出て間もなくだったような気がする。その頃は安藤組が渋谷で幅をきかせていた。子供をそそのかして相手を殺させるのは人非人のすることだ。フランスの詩人アラゴンはこういう、若者に教えることは希望を持たせること、学ばせることは誠実を胸に刻み込ませること。私たちも老人になり、若者のために今日一日、何か努力をしただろうか、そんな問いかけも大事、このブログも若い人の夢と希望を掻き立てられるもとに、少しでも役立てばと思って書いている。多くの三茶界隈を舞台とした話に時代を超えた何かを感じてもらえれば望外の喜び。どの道、好き勝手に生きても一生は一生、不幸だ、つまらないと思っても、これもまた一生、それなら、今日も楽しかった、今日も面白かったと笑って暮らせる人こそ、真の人生の王者だ。銭・金を超越したところにこそ、人生の本質があるのさ。
2011-04-25
上馬の思い出20 メイド・イン・タモツ後編
メイド・イン・タモツって変な名前の中学生がいて、洟垂れを子分にした。自分の弁当を子分に食わせて親分を気取った。三茶をシマだと言って中央劇場の裏あたりが原っぱだった。そこにラーメン屋台のリヤカーがあり、そこでシンチャンにストリップを強要した。音楽を担当させられ、私が歌を唄ったが勝比古さんの酒場ドリアンで聞いた外国の歌のメロディーを適当に唄った。ジョンウェインの黄色いリボンも、湯の町エレジーも歌ったが、シンチャンが雨が降るのに裸にさせられ、エンエンと声をあげて泣き出した。雨は音を立てて振り出した。すると近所のおばさんとおぼしき人が傘をさして通りかかり、「あらやだ、この子は裸になってどうしたんだろう」とシンチャンを覗きこんだ。得たり賢しとばかり、シンチャンが大声を上げて泣き出すと、おばさんはシンチャンに服を着せ始めた。
「なんで裸にしたの」とメイド・イン・タモツは叱られた。私が「ストリップやれってメイド・イン・タモツが言ったんだ」と告げ口すると、「嫌だね、子供のくせにもうそんなことを考えて、まったくロクなもんにならないよ」と言いながらすっかりシンチャンに服を着させた。「早く帰るんだよ」と言っておばさんは消えた。
シンチャンは泣きながら歩きだした。私もシンチャンの手を引いて雨の中を移動する。メイド・イン・タモツも仕方がないので後からノタノタとついてくる。中里へ向かう専用軌道敷まで来るとシンチャンは道がわかったのか、泣き声もたてなくなり、ただひたすら雨の中を上馬めざして歩く。また、専用軌道敷が切れて、天皇陛下のムチを作るデカシさんの家の前を通ると、シンチャンは自分の家の近いのを知って、声を上げはじめた。私とつないでいた手を放し、両手で双眼鏡を作り声を上げて泣きまねだ。目をふさぐと歩けないので双眼鏡を作って泣きまねしたのには利口だなと感心した。
和泉屋の角に来て、私は右に折れた、そのままシンチャンといると泣かせたと思われるのが嫌だった。メイド・イン・タモツが後ろから声をかけてきたが、知らぬふりで家に帰った。メイド・イン・タモツと一緒にいると何か悪いことが起こりそうな雰囲気だった。
私の家に交番の巡査が時折顔を見せ、四方山話を聞かせていた。祖母は太りぎみで余り外に出ない。そのため巡査の話をよろこんで聞いていた。そんな日、コロシがあってね、と耳寄りな話をはじめた。どこで、とか女なのかとか、私が口を挟むと、祖母は子供は外で遊べと私を追い出した。今聞いたばかりの話を生駒さんの家に駈けていって話した。するとタケヒサさんの兄のカズオさんが出てきて、「どこで」、「あっち」、「誰が殺した」、「ウーン」、「どこで、誰が殺したの」と詰められ、苦し紛れに「メイド・イン・タモツ」と言ってしまった。メイド・イン・タモツが殺すわけはないだろう、途端に嘘つき、センミツのあだ名を頂戴することになった。う・に・しの法則が小学校入学前の子供にもあてはまった。
これを言い出したのは警視庁捜査二課の刑事で、最近になって図書館で借りた本にでていた。犯罪者は必ずこのう・に・しの線をたどるそうだ。メイド・イン・タモツの家はパチンコの機械を作っていた。中野義高さんに確認したところ、間違いなくパチンコの機械が家の前に並んでいたという。昨今はパチンコ機械メーカーが大儲けをする。メイド・イン・タモツもその後、パチンコ機械を作っていたら大金持ちになったのかもしれない。パチンコ屋の前を通ると六十年も前のメイド・イン・タモツを思い出す。
「なんで裸にしたの」とメイド・イン・タモツは叱られた。私が「ストリップやれってメイド・イン・タモツが言ったんだ」と告げ口すると、「嫌だね、子供のくせにもうそんなことを考えて、まったくロクなもんにならないよ」と言いながらすっかりシンチャンに服を着させた。「早く帰るんだよ」と言っておばさんは消えた。
シンチャンは泣きながら歩きだした。私もシンチャンの手を引いて雨の中を移動する。メイド・イン・タモツも仕方がないので後からノタノタとついてくる。中里へ向かう専用軌道敷まで来るとシンチャンは道がわかったのか、泣き声もたてなくなり、ただひたすら雨の中を上馬めざして歩く。また、専用軌道敷が切れて、天皇陛下のムチを作るデカシさんの家の前を通ると、シンチャンは自分の家の近いのを知って、声を上げはじめた。私とつないでいた手を放し、両手で双眼鏡を作り声を上げて泣きまねだ。目をふさぐと歩けないので双眼鏡を作って泣きまねしたのには利口だなと感心した。
和泉屋の角に来て、私は右に折れた、そのままシンチャンといると泣かせたと思われるのが嫌だった。メイド・イン・タモツが後ろから声をかけてきたが、知らぬふりで家に帰った。メイド・イン・タモツと一緒にいると何か悪いことが起こりそうな雰囲気だった。
私の家に交番の巡査が時折顔を見せ、四方山話を聞かせていた。祖母は太りぎみで余り外に出ない。そのため巡査の話をよろこんで聞いていた。そんな日、コロシがあってね、と耳寄りな話をはじめた。どこで、とか女なのかとか、私が口を挟むと、祖母は子供は外で遊べと私を追い出した。今聞いたばかりの話を生駒さんの家に駈けていって話した。するとタケヒサさんの兄のカズオさんが出てきて、「どこで」、「あっち」、「誰が殺した」、「ウーン」、「どこで、誰が殺したの」と詰められ、苦し紛れに「メイド・イン・タモツ」と言ってしまった。メイド・イン・タモツが殺すわけはないだろう、途端に嘘つき、センミツのあだ名を頂戴することになった。う・に・しの法則が小学校入学前の子供にもあてはまった。
これを言い出したのは警視庁捜査二課の刑事で、最近になって図書館で借りた本にでていた。犯罪者は必ずこのう・に・しの線をたどるそうだ。メイド・イン・タモツの家はパチンコの機械を作っていた。中野義高さんに確認したところ、間違いなくパチンコの機械が家の前に並んでいたという。昨今はパチンコ機械メーカーが大儲けをする。メイド・イン・タモツもその後、パチンコ機械を作っていたら大金持ちになったのかもしれない。パチンコ屋の前を通ると六十年も前のメイド・イン・タモツを思い出す。
2011-04-24
上馬の思い出19 メイド・イン・タモツ前編
三茶小で原田君が横山先生に廊下に立たされたとき、脱走をした話を記したが、これも立派な解決方法、人生は所詮、自分の気に入るようなものではなく、嫌だなと思うような方向に連れていかれるようなもの、まるで、子供の時に他所の家で食事に招かれたとき、嫌いな物が出る、嫌だから先に何とか口に押し込み、好きな順に食べ始めると、最初に食べた嫌いな物を皿に山盛りで出されたようなもの、余りおいしそうに食べているので、サア、どうぞで、泣きたくなるようなことだらけが人生だ。
そうしたとき、う・に・しの順が待ち受けるもんだ。先頭のうは嘘、追及されると誰でも嘘をいう、次が厳しく問い詰められると逃げる、最後のしは死だ。インドの諺にこんなのがある、立っているより座っているほうが楽だ、座っているより寝ているほうが楽だ、寝ているより死んだほうが楽だというけど本当か? 一度死んで戻ってきた奴がいないから、本当かどうかはわからない。
さて、上馬にメイド・イン・タモツって中学生がいた。学校に行きたくなくて、カバンを持って駒留神社の脇の公園や池の周りをウロウロしていた。私が小学校に入る前だった。生駒さんの隣の家が大平キエちゃんの家、この人は同級生だった。弟が二人いて、下の子はおかあさんにおぶさっていた。上の弟はシンチャンと言って、三歳か四歳だったろう、私のあとについて駒留公園のブランコで遊んでいると、メイド・イン・タモツが近づいてきて、「弁当を食わせてやる」という。喜んでシンチャンと一緒に駒留神社の木陰で弁当を食べた。また明日も来いヨ、弁当を食わせてやるからと言われ、翌日も食わせてもらった。おかずが少ししかなく、四角い弁当箱に飯がぎっしり詰め込まれていた。まだ、ほんのり温かかった。メイド・イン・タモツは原田君と同じように、学校に行くのを拒否して、公園でブラブラしていたのだ。
登校拒否のはしりかも知れない。試験がなければ学校ほど面白いところはないと思うが、学校が苦手だったのだろう。毎日弁当を食わせてもらっていると、メイド・イン・タモツがお前たち、オレの子分になれという。コブは食ったことあるけど美味くないというと、コブじゃない子分だ、オレが親分でお前たちは子分だという。何だかわからないけどウンというと、一宿一飯が仁義だから、お前たちは親分の言うことをきかなきゃいけないという、三宿は玉電の駅で三軒茶屋の先だけど、一宿はしらなかった。
お前たちと親分子分の盃を交わすから、あさって、オレの家に来いといわれた。メイド・イン・タモツの家は中野義高さんの斜め前の方にある。つまり、辻井水道工事屋さんの上馬駅よりだ。その家はパチンコの台を作っていたように思う。メイド・イン・タモツが公園で遊んでいる私とシンチャンを連れてタモツの家に行くと、小学校へ入る前の洟垂れが何人か並んでいた。家人は留守のようで、その留守を見計らって洟垂れを集めたようだった。六畳ほどの部屋の畳に座布団が敷かれ、上座にメイド・イン・タモツが座り、座布団の前におちょこが揃えてあった。タモツがそれを手にしろと告げて、そのおちょこにザラメを入れて廻った。タモツが入れて歩いている間に、それを舐めてしまった。皆、盃に酒が入ったなとタモツが言ったので、もう舐めたと私がいうと、しょうがない奴だと舌打ちしながら、もう一杯くれた。そして、揃いました、それでは固めの盃ですと言ってタモツが舐めて、皆も舐めた。舐め終わったのでさっさと帰ってきた。
「しょうがねえな、ザラメを舐めたら帰るのかよ」というので、お菓子はないんでしょと訊いてやった。ねえ、と答えたので帰る足が急に速くなった。
ある、雨が降りそうな日だった。丁度今頃の季節だったか、親分のメイド・イン・タモツが公園で子分の私とシンチャンに飯を食わせると、これからシマに行くと言い出した。シマって縦か横かと訊いたら、着物の柄じゃねえって力んでいた。メイド・イン・タモツのシマは三茶だという、ヤクザもんの話をどこかで仕込んできて、それを真似して、自分がメイド・イン・タモツ一家の大親分だと力んでいたのだろう。タモツは小柄だった。先頭に親分が歩いて、その後に私がヨタヨタ、シンチャンはヨチヨチ歩いていた。
何処をどう歩いたのか、三茶の裏にバクダンアラレを作っているところがあり、そこいら一帯は焼け跡のような感じで、屋台のリヤカーが何台も並んでいた。愚図っていた空がにわかに泣き出して、我々は屋台のリヤカーに潜り込んだ。板が敷いてありそこに大きな穴が空いていた。ラーメン屋台でもあったのか、釜をそこに嵌めこんだのだろうか、メイド・イン・タモツと私はその下にいて、シンチャンは上にいた。何を思ったのかメイド・イン・タモツがシンチャンにストリップをしろと命じて、私に歌を唄えという。勝比古さんのドリアンで覚えた青いカナリア、これもダイナショアの歌だ、これを唄うと、曲に合わせて一枚づつ服を脱げと三歳の男の子のシンチャンに言う。メイド・イン・タモツはどこでそんなことを覚えてきたのだろう。身体は小柄でもチンチンに毛でも生え初めていたのだろうか。続
そうしたとき、う・に・しの順が待ち受けるもんだ。先頭のうは嘘、追及されると誰でも嘘をいう、次が厳しく問い詰められると逃げる、最後のしは死だ。インドの諺にこんなのがある、立っているより座っているほうが楽だ、座っているより寝ているほうが楽だ、寝ているより死んだほうが楽だというけど本当か? 一度死んで戻ってきた奴がいないから、本当かどうかはわからない。
さて、上馬にメイド・イン・タモツって中学生がいた。学校に行きたくなくて、カバンを持って駒留神社の脇の公園や池の周りをウロウロしていた。私が小学校に入る前だった。生駒さんの隣の家が大平キエちゃんの家、この人は同級生だった。弟が二人いて、下の子はおかあさんにおぶさっていた。上の弟はシンチャンと言って、三歳か四歳だったろう、私のあとについて駒留公園のブランコで遊んでいると、メイド・イン・タモツが近づいてきて、「弁当を食わせてやる」という。喜んでシンチャンと一緒に駒留神社の木陰で弁当を食べた。また明日も来いヨ、弁当を食わせてやるからと言われ、翌日も食わせてもらった。おかずが少ししかなく、四角い弁当箱に飯がぎっしり詰め込まれていた。まだ、ほんのり温かかった。メイド・イン・タモツは原田君と同じように、学校に行くのを拒否して、公園でブラブラしていたのだ。
登校拒否のはしりかも知れない。試験がなければ学校ほど面白いところはないと思うが、学校が苦手だったのだろう。毎日弁当を食わせてもらっていると、メイド・イン・タモツがお前たち、オレの子分になれという。コブは食ったことあるけど美味くないというと、コブじゃない子分だ、オレが親分でお前たちは子分だという。何だかわからないけどウンというと、一宿一飯が仁義だから、お前たちは親分の言うことをきかなきゃいけないという、三宿は玉電の駅で三軒茶屋の先だけど、一宿はしらなかった。
お前たちと親分子分の盃を交わすから、あさって、オレの家に来いといわれた。メイド・イン・タモツの家は中野義高さんの斜め前の方にある。つまり、辻井水道工事屋さんの上馬駅よりだ。その家はパチンコの台を作っていたように思う。メイド・イン・タモツが公園で遊んでいる私とシンチャンを連れてタモツの家に行くと、小学校へ入る前の洟垂れが何人か並んでいた。家人は留守のようで、その留守を見計らって洟垂れを集めたようだった。六畳ほどの部屋の畳に座布団が敷かれ、上座にメイド・イン・タモツが座り、座布団の前におちょこが揃えてあった。タモツがそれを手にしろと告げて、そのおちょこにザラメを入れて廻った。タモツが入れて歩いている間に、それを舐めてしまった。皆、盃に酒が入ったなとタモツが言ったので、もう舐めたと私がいうと、しょうがない奴だと舌打ちしながら、もう一杯くれた。そして、揃いました、それでは固めの盃ですと言ってタモツが舐めて、皆も舐めた。舐め終わったのでさっさと帰ってきた。
「しょうがねえな、ザラメを舐めたら帰るのかよ」というので、お菓子はないんでしょと訊いてやった。ねえ、と答えたので帰る足が急に速くなった。
ある、雨が降りそうな日だった。丁度今頃の季節だったか、親分のメイド・イン・タモツが公園で子分の私とシンチャンに飯を食わせると、これからシマに行くと言い出した。シマって縦か横かと訊いたら、着物の柄じゃねえって力んでいた。メイド・イン・タモツのシマは三茶だという、ヤクザもんの話をどこかで仕込んできて、それを真似して、自分がメイド・イン・タモツ一家の大親分だと力んでいたのだろう。タモツは小柄だった。先頭に親分が歩いて、その後に私がヨタヨタ、シンチャンはヨチヨチ歩いていた。
何処をどう歩いたのか、三茶の裏にバクダンアラレを作っているところがあり、そこいら一帯は焼け跡のような感じで、屋台のリヤカーが何台も並んでいた。愚図っていた空がにわかに泣き出して、我々は屋台のリヤカーに潜り込んだ。板が敷いてありそこに大きな穴が空いていた。ラーメン屋台でもあったのか、釜をそこに嵌めこんだのだろうか、メイド・イン・タモツと私はその下にいて、シンチャンは上にいた。何を思ったのかメイド・イン・タモツがシンチャンにストリップをしろと命じて、私に歌を唄えという。勝比古さんのドリアンで覚えた青いカナリア、これもダイナショアの歌だ、これを唄うと、曲に合わせて一枚づつ服を脱げと三歳の男の子のシンチャンに言う。メイド・イン・タモツはどこでそんなことを覚えてきたのだろう。身体は小柄でもチンチンに毛でも生え初めていたのだろうか。続
2011-04-23
上馬の思い出18
酒場ドリアンには多くの客が来た。その中に来須野君の二階に下宿していた金子という玉電の運転手もいた。ドリアンではネコと呼ばれていた。指が太くてマージャン牌が小さく見えた。アルシャルマージャンだといっていた。これはマージャンの原点のようなもので、リーチマージャンとは違っているそうだ。毎晩飽きもせずにマージャンの客がきて、そのうち来なくなる。その人は借金が嵩んだためで、その借金は雀荘の主人、つまり、ドリアンが立て替えた。そのため、借金取りの仕事が勝比古さんい割り振られた。小学校へ入ったばかりの子供が借金取りに来るのだから、来られるほうはたまらない。なにがしかの金を握らせることになる。うまいやりかたに見えるが苦肉の策だったのだろう。もともと博打の金、請求できる筋合いでもないが、雀荘がほかになければ何とか都合しなければならない。勝比古さんも行き難いものだから私をさそった。行くと塩でもまかれそうな雰囲気のところもあった。それでもいつも一緒について回った。今でも借金取りに行った場所を夢に見る。博打の負けた金を払うのは嫌だっただろう。
博打は賭博と言う。賭博は博技と賭技に分かれる、博技は花札、マージャン、トランプなど自分が本気になってやる技、賭技は自分はしない、つまり競輪、競馬など自分は馬や自転車に乗って本気になって走るのではない。走る選手の一番、二番を当てるものを指す。両方一緒にして賭博行為という。床屋の国太の親爺がやっていたチンチロリンは博技で、国が博打を禁止したので違法行為になるが、ヤクザという商売があり、昔はこれで渡世していた人種がいた。彼等は賭場を開いて、そのカスリ、つまり掛け金の中から一定割合を開催料としてハネて残りを当てた人に分配する。一回ごとに計算をするため、相当に数字に強くないと勤まらないが、大学なんて行かない人がこれをやる。普段はぼんやりしているように見えても、博打場に入るといきなり顔つきが変わるような人もいた。神経が足の先から頭の先まで稲光しているような面構えになる。それでいて、普段は買い物してても釣銭を貰うのを忘れたりする。妙なものだ。
ヤクザの仕事を国が法律で奪い、自分たちが競輪場や競馬場を経営、宝くじも禁止しながら特定の銀行にさせる。矛盾だらけだが現実だ。こうした許認可には必ず裏があり、目こぼし料としてヤクザならぬ警官がカスリを取る。悪いことを助長するようなところが警察にはあり、どうも世の中は一筋縄ではいかない。時代が変り、子供のあそびだったパチンコが朝鮮人たちの手で遊戯となり堂々とパチンコ屋が乱立するようになり、これまた警察が介入し、警察とパチンコ屋の癒着を見る。さらに、パチスロなるものまで登場し、賭博行為はエスカレート、こうした賭博行為の横行の裏でヤクザ、正確に言えば博徒が生活の基盤を失った。ヤクザには二種類あり博徒と香具師、これはテキヤとも呼ばれタカマチで物を販売する。つまり行商人、タカマチと言うのは市で、全国の市日のカレンダーを売っているところもある。世田谷のボロ市なども大きなタカマチだ。
勝比古さんのモグリ雀荘もそれなりの面倒な借金取立ての作業があった。それでも客は入れ替わりながらも来て繁盛していた。そのマージャンの部屋にはガラスの箱に入れられた蛇がとぐろを巻いていた。青大将だという。それを勝比古さんは平気な顔で触っていたが、とても気持ちが悪くてさわれなかった。ある日、それが逃げ出して騒ぎになったが、二、三日したら、腹を大きくして台所のところで動かないのを見つけた。ネズミでも食ったのだろうと、吉田家は平気な顔、商売の神様だと、時折お神酒を飲ませていた。
勝比古さんのお父さんは昔ボクシングの選手だったそうで、グラブをつけた写真が何枚もあった。プロの選手だったというが、寡黙な人でめったに笑い顔を見せなかった。目が小さくて細かったが、女房はその逆で大きな目の人だった。勝比古さんはお母さんに似て目が大きかったが姉二人は父親に似ていた。
ある晩、ドリアンの店で皿の割れる音がして、客が怒鳴っていた。ドアを開けて、おかあさんが、「お父さん交番に行ってきてください、お客さんが乱暴しているんです」と声をかけた。お父さんは小柄だったが、頑丈そうな身体を起こして、直ぐにでかけようとした。木戸を開けて出ようとするのに、「おじさん、やっつけちゃいなヨ」と声をかけたが、情けないような顔を作って、そのまま交番へと走って行った。
上馬メトロで見た西部劇のようにはいかないのだと、半分わかって半分、面白くなかった。だって、おじさんはボクシングの選手だったんだろ、それなのになんたることかと、世間知らずの小学生は思ったのだ。おじさんの走る影に、ラジオからバッテンボーの曲が流れた。これは腰抜け二丁拳銃でボブ・ホープが歌ったが、ラジオから流れるたのはダイナ・ショアの甘い声だった。ボブは喜劇俳優として有名だった。この人は長生きで百歳で死んだ。バッテンボーはボタンとボウ(リボン)だ。が、こどもにはバッテンボーに聞こえた。ダイナも77まで生きた。
博打は賭博と言う。賭博は博技と賭技に分かれる、博技は花札、マージャン、トランプなど自分が本気になってやる技、賭技は自分はしない、つまり競輪、競馬など自分は馬や自転車に乗って本気になって走るのではない。走る選手の一番、二番を当てるものを指す。両方一緒にして賭博行為という。床屋の国太の親爺がやっていたチンチロリンは博技で、国が博打を禁止したので違法行為になるが、ヤクザという商売があり、昔はこれで渡世していた人種がいた。彼等は賭場を開いて、そのカスリ、つまり掛け金の中から一定割合を開催料としてハネて残りを当てた人に分配する。一回ごとに計算をするため、相当に数字に強くないと勤まらないが、大学なんて行かない人がこれをやる。普段はぼんやりしているように見えても、博打場に入るといきなり顔つきが変わるような人もいた。神経が足の先から頭の先まで稲光しているような面構えになる。それでいて、普段は買い物してても釣銭を貰うのを忘れたりする。妙なものだ。
ヤクザの仕事を国が法律で奪い、自分たちが競輪場や競馬場を経営、宝くじも禁止しながら特定の銀行にさせる。矛盾だらけだが現実だ。こうした許認可には必ず裏があり、目こぼし料としてヤクザならぬ警官がカスリを取る。悪いことを助長するようなところが警察にはあり、どうも世の中は一筋縄ではいかない。時代が変り、子供のあそびだったパチンコが朝鮮人たちの手で遊戯となり堂々とパチンコ屋が乱立するようになり、これまた警察が介入し、警察とパチンコ屋の癒着を見る。さらに、パチスロなるものまで登場し、賭博行為はエスカレート、こうした賭博行為の横行の裏でヤクザ、正確に言えば博徒が生活の基盤を失った。ヤクザには二種類あり博徒と香具師、これはテキヤとも呼ばれタカマチで物を販売する。つまり行商人、タカマチと言うのは市で、全国の市日のカレンダーを売っているところもある。世田谷のボロ市なども大きなタカマチだ。
勝比古さんのモグリ雀荘もそれなりの面倒な借金取立ての作業があった。それでも客は入れ替わりながらも来て繁盛していた。そのマージャンの部屋にはガラスの箱に入れられた蛇がとぐろを巻いていた。青大将だという。それを勝比古さんは平気な顔で触っていたが、とても気持ちが悪くてさわれなかった。ある日、それが逃げ出して騒ぎになったが、二、三日したら、腹を大きくして台所のところで動かないのを見つけた。ネズミでも食ったのだろうと、吉田家は平気な顔、商売の神様だと、時折お神酒を飲ませていた。
勝比古さんのお父さんは昔ボクシングの選手だったそうで、グラブをつけた写真が何枚もあった。プロの選手だったというが、寡黙な人でめったに笑い顔を見せなかった。目が小さくて細かったが、女房はその逆で大きな目の人だった。勝比古さんはお母さんに似て目が大きかったが姉二人は父親に似ていた。
ある晩、ドリアンの店で皿の割れる音がして、客が怒鳴っていた。ドアを開けて、おかあさんが、「お父さん交番に行ってきてください、お客さんが乱暴しているんです」と声をかけた。お父さんは小柄だったが、頑丈そうな身体を起こして、直ぐにでかけようとした。木戸を開けて出ようとするのに、「おじさん、やっつけちゃいなヨ」と声をかけたが、情けないような顔を作って、そのまま交番へと走って行った。
上馬メトロで見た西部劇のようにはいかないのだと、半分わかって半分、面白くなかった。だって、おじさんはボクシングの選手だったんだろ、それなのになんたることかと、世間知らずの小学生は思ったのだ。おじさんの走る影に、ラジオからバッテンボーの曲が流れた。これは腰抜け二丁拳銃でボブ・ホープが歌ったが、ラジオから流れるたのはダイナ・ショアの甘い声だった。ボブは喜劇俳優として有名だった。この人は長生きで百歳で死んだ。バッテンボーはボタンとボウ(リボン)だ。が、こどもにはバッテンボーに聞こえた。ダイナも77まで生きた。
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