生駒さんの隣は大平さん、ここには女の子の同級生がいた。平屋の建物で土間があり、左手が部屋になっていた。働き者の母親は背中に子供をおぶって、いつも元気に立ち振る舞っている。昔のことだから、煮炊きには薪を使った。その薪を細かく手斧で割り、洗濯物と格闘していた。昔はタライと選択板だけが武器で、よくもまあ、洗濯物の山に押しつぶされなかったものだと驚嘆する。大平さんばかりか、どの家の主婦も皆同じで、それに不平も不満もなく頑張ったものだ。洗濯機などが登場するのは、まだまだ後年、大平さんの家は自分で作ったような建物、土地を購入したか、借りたかして自作されたのだろう。私の家は借家で家賃支払いに汲々していた。自作でも一家を構えているのだから、大平さんの気概は立派なものだった。
それでも、それをわかるのは今になってのことで、子供のころは大平さんの家は粗末だなと思っていた。ところがある日、駐留軍家族が何台かの車で大平さん宅に押しかけてきた。大きな箱に衣類が一杯つめこまれて、その箱も幾つもあった。大平さんのおかあさんはアメリカ人の言うことがわからない。その衣類を買えと言われているようで、しきりにいらない、いらないと手を振った。私の顔を見るなり、誰か言葉のわかる人を探してきてくれと頼んだ。生駒さんの家に走りこんで聞くと、熱海湯の裏に英語学校に行っている女の人がいると教えてくれた。ようよう、その人を連れてアメリカ人たちと話をしてもらった。その女の人は背が高く、ゆっくりと英語を喋ってアメリカ人たちと意志を通じ、その大きな箱に入った衣類は全部、無料でプレゼントしてくれたものだと伝えてくれた。改正道路を通るたびに、何かプレゼントをしたいと考えていたそうで、ありがとうという礼の言葉に私たちこそ、プレゼントさせてもらって有難いと言ったそうだ。
熱海湯の裏のお姉さんは一躍、ヒロインになった。私も大きくなったら英語を勉強してみようと思った。そして、あのお姉さんのように人の役にたちたいと思ったが、中学校に入る頃には、そんなことも忘れて、英語に悩まされるようになった。そして、英語で人の役に立つようなことは一度もなかった。志が低い者にはそうした大役は廻ってこないものだ。
その後、そのお姉さんがどうしたかはわからない。アメリカ人がプレゼントしてくれたのは12月の中頃だった。、つぎの日から大平さんの姉弟は帽子に耳覆いのついた洒落たのをかぶり、格子縞の暖かそうなジャンパーにジーパンと、絵本から飛び出してきたアメリカの子供のような服装に一変。言葉の大事さをつくづく味わったものだ。
2011-05-17
2011-05-16
上馬の思い出31
学校のいつも閉まっている裏門から帰ると近道だったが、ここから出ると叱られるので嫌々正門から出た。正門を入ると用務員室があった。その前に教員室があり、その隣が校長室だった。便所がその前にあり、今と違って溜め式便所だけに梅雨時は臭いがこもってたまらなかった。でも、家に帰っても同じだったので気にしない人が多かった。駒中の同期会で女性が、昔に返りたいワと言ったので、肥溜め便所の尻の穴を拭くのに新聞紙の時代に戻るんだヨと言ったが、それでも戻りたいと強情を張った。昔にとっても良いことがあったのだろう。
水洗便所に慣れると、あの時代に戻るのは嫌だとつくづく思う。しかし、大地震になれば下水も上水も使えなくなる。バイオの力を借りて木屑と糞尿を混ぜて分解し、全く臭いの出ない便所となる。これは現物を八戸で見たことがある。市民の森という山の中の便所がこれ、初期投資がかかるがランニングコストがかからない分利がある。
昔は肥樽に糞尿を入れ運んだ。もっと前は玉川あたりのお百姓が肥桶を牛に曳かせた大八車に積んで、家家を廻り下肥を集め、その代わりに野菜を置いていった。私の家の前の水野という理髪店があり、頭を刈ってもらうのに前を見てじっとしていないと、バリカンでコツンと叩く、それが嫌で前の水野理髪店に行かず、玉電通りの松の木精米店前の太陽という床屋に行き、シラクモをうつされた。この床屋は不潔だと近所の人が言っていたが、実にその通りでしばらく治らず泣きべそをかいたことがあった。
水野床屋は家族が多かったのか、お百姓は野菜を多く置いていった。玉川方面にも家が建て込んだのか、お百姓が来なくなり、東海組が便所の汲み取りを受け持った。トラックで肥樽を積んだ所に来て、それを開けて走り去る。生駒さんの隣の大平さんの家の前がその肥樽の置き場になっていて、雨が降って先が見えないと肥樽に傘があたって臭いがついた。全くこの肥樽には悩まされたが、改良されバキュームカーが家々を廻るようになった。車から長く伸びたホースの太いのが時折撥ねるように動いた。以前のような肥樽からは開放されたが、バキュームカーの傍を通るときはやっぱり臭いがしたもんだ。駒沢中学の傍に、その東海組があり、そこの勤務している人の子も通学していた。職業に貴賎なしで、あの仕事も大事な仕事、それも下水普及で東京では姿を消したが、地方ではまだ見かける。
トイレットペーパーなんてのは見たことがなかった。いつも新聞紙を長方形に切って使ったもんだ。新聞インクには身体に良くないものが含まれていたらしいが、新聞紙で尻をふいて死んだという話もきかなかった。昨今は金がかかるような仕組みになっている。
暖房も昔は練炭、この着火が私の仕事で朝起きると改正道路前に練炭七輪を置いて二酸化炭素中毒にならないようにと毎朝運んだものだ。野沢商店街の奥に薪炭屋があり、品川練炭を売っていて、そこにお使いに行かされ練炭を買ったものだ。今は灯油の時代で、暖かく便利だが、原油が値上がりして我々は苦しめられる。昔は薪と練炭で寒い冬を過ごしたものだが、便利な世の中は金がかかって不便になった。文明の進歩は我々を苦しめるのも妙。ついでに書いておくが、文化と文明の違いは文化はすぐに眼に見えないものを指し、文明は見た瞬間に理解できるものをいう。五十嵐君の家に灯油ストーブが入り、ブルーフレームという名前の石油ストーブで青い火を立てながら燃えた。その暖かさに驚嘆した。これが文明だ。ところがアラブの手加減一つで、原油が上がり世界全体が困ったことになった。空気に値段をつけて、最初は安くどうぞで、使わせて次第に値を吊り上げれば、生きていること自体が困難になる。今は妙な時代に突入し、テレビだクーラーだで電気浸けにさせておいて、電力不足では困るから原油に左右されない原子力と宣伝し、これが全国に54、その管理が不十分で福島の住民は家を追い出され、家なき親子にさせられた。便利は不便でしかない。家々にラジオと裸電球のころは溜式便所だったが、暮らしやすかったのかもしれない。
水洗便所に慣れると、あの時代に戻るのは嫌だとつくづく思う。しかし、大地震になれば下水も上水も使えなくなる。バイオの力を借りて木屑と糞尿を混ぜて分解し、全く臭いの出ない便所となる。これは現物を八戸で見たことがある。市民の森という山の中の便所がこれ、初期投資がかかるがランニングコストがかからない分利がある。
昔は肥樽に糞尿を入れ運んだ。もっと前は玉川あたりのお百姓が肥桶を牛に曳かせた大八車に積んで、家家を廻り下肥を集め、その代わりに野菜を置いていった。私の家の前の水野という理髪店があり、頭を刈ってもらうのに前を見てじっとしていないと、バリカンでコツンと叩く、それが嫌で前の水野理髪店に行かず、玉電通りの松の木精米店前の太陽という床屋に行き、シラクモをうつされた。この床屋は不潔だと近所の人が言っていたが、実にその通りでしばらく治らず泣きべそをかいたことがあった。
水野床屋は家族が多かったのか、お百姓は野菜を多く置いていった。玉川方面にも家が建て込んだのか、お百姓が来なくなり、東海組が便所の汲み取りを受け持った。トラックで肥樽を積んだ所に来て、それを開けて走り去る。生駒さんの隣の大平さんの家の前がその肥樽の置き場になっていて、雨が降って先が見えないと肥樽に傘があたって臭いがついた。全くこの肥樽には悩まされたが、改良されバキュームカーが家々を廻るようになった。車から長く伸びたホースの太いのが時折撥ねるように動いた。以前のような肥樽からは開放されたが、バキュームカーの傍を通るときはやっぱり臭いがしたもんだ。駒沢中学の傍に、その東海組があり、そこの勤務している人の子も通学していた。職業に貴賎なしで、あの仕事も大事な仕事、それも下水普及で東京では姿を消したが、地方ではまだ見かける。
トイレットペーパーなんてのは見たことがなかった。いつも新聞紙を長方形に切って使ったもんだ。新聞インクには身体に良くないものが含まれていたらしいが、新聞紙で尻をふいて死んだという話もきかなかった。昨今は金がかかるような仕組みになっている。
暖房も昔は練炭、この着火が私の仕事で朝起きると改正道路前に練炭七輪を置いて二酸化炭素中毒にならないようにと毎朝運んだものだ。野沢商店街の奥に薪炭屋があり、品川練炭を売っていて、そこにお使いに行かされ練炭を買ったものだ。今は灯油の時代で、暖かく便利だが、原油が値上がりして我々は苦しめられる。昔は薪と練炭で寒い冬を過ごしたものだが、便利な世の中は金がかかって不便になった。文明の進歩は我々を苦しめるのも妙。ついでに書いておくが、文化と文明の違いは文化はすぐに眼に見えないものを指し、文明は見た瞬間に理解できるものをいう。五十嵐君の家に灯油ストーブが入り、ブルーフレームという名前の石油ストーブで青い火を立てながら燃えた。その暖かさに驚嘆した。これが文明だ。ところがアラブの手加減一つで、原油が上がり世界全体が困ったことになった。空気に値段をつけて、最初は安くどうぞで、使わせて次第に値を吊り上げれば、生きていること自体が困難になる。今は妙な時代に突入し、テレビだクーラーだで電気浸けにさせておいて、電力不足では困るから原油に左右されない原子力と宣伝し、これが全国に54、その管理が不十分で福島の住民は家を追い出され、家なき親子にさせられた。便利は不便でしかない。家々にラジオと裸電球のころは溜式便所だったが、暮らしやすかったのかもしれない。
2011-05-05
上馬の思い出30 ラジオの話6
飯川先生の家は改正道路を駒沢中学の方に入ったところにあった。ここは駒沢小の学区で、飯川君は越境入学であった。三茶小はもともとは駒留中だったものを子供が増えたので小学校に改造、形はコの字で、その上の辺の突き当たりに音楽室があった。音楽室の壁にはバッハ・ヘンデル・ベートーベンなどの名前の下に、長い羊羹のような線があり、その長さが生きた年数を現していた。川名君という飯川先生と同様に改正道路の駒沢小の学区にいた子が、それを眺めて短いのは嫌だなと洩らした。人生はあのような羊羹型なのかと思ったとき、この音楽家たちのように、後世に名を残すような仕事が出来るのだろうかと心配になった。
食糧事情が悪いころで、満足に楽器もなく、生徒が器楽合奏をするなどということは考えられなかった。私の家の近くに安田道子さんがいて、この人は賢そうな眼に力のある人で、和泉屋と松の木精米店の通りに筝曲を教えるところがあり、そこに通っておられた。江戸の名残がまだかすかに庶民の中に移り香のようにたゆとうていたのだ。その後、西洋音楽に興味をもたれてピアノに転じたような気がするが、音楽を良く解する人だった。この人に駒中の同期会でお逢いしたとき、息子さんが管楽器をされていると聞いた。やはり血かと思ったが、その後、息子さんが芸術家になったかは定かではない。
好きな道で生涯を送るということは、なかなか難しい。まして、芸術のようなものは景気が良くて人心にゆとりがなくては、なかなか音楽会に足を運ぶようにはならない。折角習得した技術も世俗の垢に塗りこめられてしまう。勿体無いことだ。
かつて浅草にエノケンを主体とした軽演劇があったころ、映画がまだ無声だった頃は、楽器を手にした演奏家が巷をウロウロできた。映画館や劇場が稼ぎの場だった。このころの話は永井荷風、高見順、そしてガス管を加えて自殺された川端康成の作品に散見できる。
アメリカでは今でもジャズハウスがあり、それなりに音楽家も飯が食えるが、日本人はどうしたものか、こうした文化を放擲してしまった。テレビ一辺倒の安直な喜びを手に入れたことで、ナマ演奏、ナマ舞台の楽しさを忘れてしまっている。拍手をすれば演じ手がそれに答えて会釈する、あるいははりきって演奏する、リクエストがいれられるなど、ナマの楽しさは芸人たちとの共感共鳴でしか味わえない。
それを忘れてテレビだけを見て、テレビに出ない芸人を卑下し売れていないと断定するが、ナマの面白さにはかなわない。天と地ほどの差があるが、現代人は金の使い方を知らないから生きている楽しみを半分も理解できない。芸人を大事にする風、これは江戸の昔から伝わってきたものだ。演劇・落語・浪曲・講談に限らず音曲・切子など工芸などの職人文化も同じ、どうも古いものを粗末にし、マスコミのお仕着せに慣れすぎている。
飯川先生は子供たちに音楽の楽しさを教えられた。「箱根八里」の解説をされたことを昨日のように思い出す。
この曲は明治34年に中学唱歌として発表、作詞は鳥居まこと、作曲は瀧廉太郎、鳥居は三河武士、山形22万石の大名家の子孫で安政二年東京産、東京音楽学校の教授を務めた。
瀧は明治12年東京の生まれ、父は日出藩の家老職、維新後は内務省官僚、廉太郎は15歳で東京芸大に進学、荒城の月、箱根八里、花、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」を作曲、明治34年欧州留学生となりドイツに渡るが肺結核を患い帰国、明治36年23歳で死去。惜しい才能だった。
この箱根八里の詩は漢詩を理解しないとわからない、それを子供たちにわかりやすく飯川先生は説かれた。武士をもののふということも、先生から教えていただいた。行進曲のように勇壮で歌っていて元気がでる。いまでも、この曲を唄うとき、飯川先生が傍らで鍵盤を押されているような温かな気になる。
食糧事情が悪いころで、満足に楽器もなく、生徒が器楽合奏をするなどということは考えられなかった。私の家の近くに安田道子さんがいて、この人は賢そうな眼に力のある人で、和泉屋と松の木精米店の通りに筝曲を教えるところがあり、そこに通っておられた。江戸の名残がまだかすかに庶民の中に移り香のようにたゆとうていたのだ。その後、西洋音楽に興味をもたれてピアノに転じたような気がするが、音楽を良く解する人だった。この人に駒中の同期会でお逢いしたとき、息子さんが管楽器をされていると聞いた。やはり血かと思ったが、その後、息子さんが芸術家になったかは定かではない。
好きな道で生涯を送るということは、なかなか難しい。まして、芸術のようなものは景気が良くて人心にゆとりがなくては、なかなか音楽会に足を運ぶようにはならない。折角習得した技術も世俗の垢に塗りこめられてしまう。勿体無いことだ。
かつて浅草にエノケンを主体とした軽演劇があったころ、映画がまだ無声だった頃は、楽器を手にした演奏家が巷をウロウロできた。映画館や劇場が稼ぎの場だった。このころの話は永井荷風、高見順、そしてガス管を加えて自殺された川端康成の作品に散見できる。
アメリカでは今でもジャズハウスがあり、それなりに音楽家も飯が食えるが、日本人はどうしたものか、こうした文化を放擲してしまった。テレビ一辺倒の安直な喜びを手に入れたことで、ナマ演奏、ナマ舞台の楽しさを忘れてしまっている。拍手をすれば演じ手がそれに答えて会釈する、あるいははりきって演奏する、リクエストがいれられるなど、ナマの楽しさは芸人たちとの共感共鳴でしか味わえない。
それを忘れてテレビだけを見て、テレビに出ない芸人を卑下し売れていないと断定するが、ナマの面白さにはかなわない。天と地ほどの差があるが、現代人は金の使い方を知らないから生きている楽しみを半分も理解できない。芸人を大事にする風、これは江戸の昔から伝わってきたものだ。演劇・落語・浪曲・講談に限らず音曲・切子など工芸などの職人文化も同じ、どうも古いものを粗末にし、マスコミのお仕着せに慣れすぎている。
飯川先生は子供たちに音楽の楽しさを教えられた。「箱根八里」の解説をされたことを昨日のように思い出す。
この曲は明治34年に中学唱歌として発表、作詞は鳥居まこと、作曲は瀧廉太郎、鳥居は三河武士、山形22万石の大名家の子孫で安政二年東京産、東京音楽学校の教授を務めた。
瀧は明治12年東京の生まれ、父は日出藩の家老職、維新後は内務省官僚、廉太郎は15歳で東京芸大に進学、荒城の月、箱根八里、花、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」を作曲、明治34年欧州留学生となりドイツに渡るが肺結核を患い帰国、明治36年23歳で死去。惜しい才能だった。
この箱根八里の詩は漢詩を理解しないとわからない、それを子供たちにわかりやすく飯川先生は説かれた。武士をもののふということも、先生から教えていただいた。行進曲のように勇壮で歌っていて元気がでる。いまでも、この曲を唄うとき、飯川先生が傍らで鍵盤を押されているような温かな気になる。
2011-05-04
上馬の思い出29 ラジオの話5
食事の時間になるとラジオから「森の水車」の歌がラジオから流れてきた。NHKの経営手法は気に入らないが仕出かした業績には評価するものがある。朝のテレビドラマやラジオ歌謡でありその流れを継ぐ「みんなのうた」はテレビの人気番組。歌はいっとき人生の辛さを忘れさせる精神の覚醒剤、この歌があったから死ななくてすんだという話をきくたびに、歌に力ありをつくづく思う。
子供の頃はこうしたことを知らずに、ただひたすら生きていただけだが、耳の底にいろいろな音楽・歌が折りたたまれていて、それが、ちょいとしたことで折り目が外れて大きく盛り上がる。こうしたときには、その場所にいたことを忘れ、ただひたすら、その思いを負い続ける。周りの人が何を言おうと、そんなことは関係がない。よほど変人と思われるだろうが、それをしないと、また耳の底にそれが押し込まれて聞こえなくなってしまうからだ。
三茶小に飯川という音楽の先生がおられた。音楽の楽しさを教えたいという心が前面に押し出ている人だった。四組の飯川君の母親でもあった。先生は歌を唄う前に、その作詞家の心を伝えようと解説をされた。その言葉の持つ不思議さ、面白さに心を奪われた。解説は丁寧でわかりやすく、どうして小学生にそんなにわかりやすく解説ができたのかと考えた時、そうか、ご自分の子どもさんに話して理解度を確かめたのではないかと気づいたが、そのことを飯川君に確かめたことはなかった。いつも笑顔を絶やさず、鍵盤を押しながら音楽の面白さ、楽しさを説き続けてくださった。
今の季節になると、先生がピアノの前でにこやかに、そして軽やかに鍵盤を押しながら唄った「若葉」、作詞は松永みやお、作曲は平岡均之、昭和17年に文部省唱歌となった。これを解説された飯川先生の言葉がいまでも耳に残る。
長い冬が終って桜の花が咲いた。ひとは誰でもさくらの花だけを喜ぶけれど、本当はその後に出て来る緑の葉っぱが大事、これがなければ木は大きく育つことができない。みんなもこの若葉のようなもので、これから長い人生を歩んで行く、自分の好きなことやりたいことを早くみつけて大きな木になるといいですね。
先生が言われたことを理解できずに、67歳を迎えてしまった気になるのは私一人だけだろうか。飯川先生がどのような経緯で音楽教師になられたかも知らず、ただ、音楽の楽しさを説き聞かせてくださったことだけを感謝している。その先生も五年前に亡くなられたという。礼の言葉も述べられず残念に思う。市井の人(しせいのひと・市中に住む庶民)の言葉があるが、飯川先生、図工の根津先生の教えてくださった言葉は六十年経ても耳の底に残っている。
その「若葉の歌」が地下鉄の駅から町並みに上り、見慣れた光景の浅草の商店街に流れていた。足が停まった。飯川先生の言葉が浮かび、そして先生の軽やかな指が鍵盤をすべりはじめた。後ろから来る人に押されて、歩道の端で立ち止まった。茫々(ぼうぼう・広くはるかな)の六十年、それでも確かにあの飯川先生はおられて、楽しげに歌の心を我々の手許に届けられた。そして、それをいまでも宝物のように大事にしている年寄りになった悪ガキがいる。
子供の頃はこうしたことを知らずに、ただひたすら生きていただけだが、耳の底にいろいろな音楽・歌が折りたたまれていて、それが、ちょいとしたことで折り目が外れて大きく盛り上がる。こうしたときには、その場所にいたことを忘れ、ただひたすら、その思いを負い続ける。周りの人が何を言おうと、そんなことは関係がない。よほど変人と思われるだろうが、それをしないと、また耳の底にそれが押し込まれて聞こえなくなってしまうからだ。
三茶小に飯川という音楽の先生がおられた。音楽の楽しさを教えたいという心が前面に押し出ている人だった。四組の飯川君の母親でもあった。先生は歌を唄う前に、その作詞家の心を伝えようと解説をされた。その言葉の持つ不思議さ、面白さに心を奪われた。解説は丁寧でわかりやすく、どうして小学生にそんなにわかりやすく解説ができたのかと考えた時、そうか、ご自分の子どもさんに話して理解度を確かめたのではないかと気づいたが、そのことを飯川君に確かめたことはなかった。いつも笑顔を絶やさず、鍵盤を押しながら音楽の面白さ、楽しさを説き続けてくださった。
今の季節になると、先生がピアノの前でにこやかに、そして軽やかに鍵盤を押しながら唄った「若葉」、作詞は松永みやお、作曲は平岡均之、昭和17年に文部省唱歌となった。これを解説された飯川先生の言葉がいまでも耳に残る。
長い冬が終って桜の花が咲いた。ひとは誰でもさくらの花だけを喜ぶけれど、本当はその後に出て来る緑の葉っぱが大事、これがなければ木は大きく育つことができない。みんなもこの若葉のようなもので、これから長い人生を歩んで行く、自分の好きなことやりたいことを早くみつけて大きな木になるといいですね。
先生が言われたことを理解できずに、67歳を迎えてしまった気になるのは私一人だけだろうか。飯川先生がどのような経緯で音楽教師になられたかも知らず、ただ、音楽の楽しさを説き聞かせてくださったことだけを感謝している。その先生も五年前に亡くなられたという。礼の言葉も述べられず残念に思う。市井の人(しせいのひと・市中に住む庶民)の言葉があるが、飯川先生、図工の根津先生の教えてくださった言葉は六十年経ても耳の底に残っている。
その「若葉の歌」が地下鉄の駅から町並みに上り、見慣れた光景の浅草の商店街に流れていた。足が停まった。飯川先生の言葉が浮かび、そして先生の軽やかな指が鍵盤をすべりはじめた。後ろから来る人に押されて、歩道の端で立ち止まった。茫々(ぼうぼう・広くはるかな)の六十年、それでも確かにあの飯川先生はおられて、楽しげに歌の心を我々の手許に届けられた。そして、それをいまでも宝物のように大事にしている年寄りになった悪ガキがいる。
2011-05-02
上馬の思い出27 ラジオの話3
戦争中はラジオを点けっぱなしにして寝た。空襲警報を聞くためだ。命をかけてラジオの放送を聞いた時代があった。まだ我々が母親の背中に負われていたころだ。その戦火の中を世の母親は我が子を守ろうと必死、戦争が終って、アア、今日からはゆっくり寝れると喜んだという。当たりまえの事が当たりまえでなかった時代は恐ろしい。
日々是好き日は普通の生活を指す。今回の福島原発もそうだ。津波で家は被害に遭わない、家もちゃんと建っているけど中に入れないは恐ろしい。
我々を守ってくださった母親連も多くは鬼籍に入られた。感謝申し上げなければならない。
それでは、世田谷に居住しておられた母親連は何処からこの世田谷に来られたのかというと、この淵源は関東大震災にある。
東京が地震でやられ、多くの人々が下町を棄てて山の手に移転、それが東急線の界隈、目蒲線などが主流になった。昔は三茶も片田舎であった。農家の人々を除けば、大方は他地区からの移転者、上馬の改正道路裏あたりには、そうした移住者、移転者を受け入れた分譲地があったようだ。私の家の裏に高原さん、橋爪さん、吉田さんなどはこうした分譲地に同じ形の家が建っていた。高原さんは前にも記した警察官、この家には男二人、女の子が一人いて、長男は浜畑賢吉さんと同級のヤスヒロさん、三茶小で安松先生に才能を引き出された。東大に進学した秀才、なんでも鉄鋼会社に就職されたそうだが、消息は不明、弟のトオルさんは太っていて兄弟で、近くのオショウというあだ名の子供とケンカをしていたことがあった。父君の警察官は平巡査から叩き上げ、警察大学の校長にまで上られた苦労人。母親が千葉の港町から嫁してきたそうで、魚が送られてくるたびに同僚警官たちと自宅で宴会をして、子供たちはその都度、私の家の隣の技工師宅の加藤さんに避難していた。宴がたけなわになると、父君はオボンを二つ取り出し、素っ裸になって前を隠しながら踊る隠し芸、まさに前を隠すだけに名言だが、これを見ないと客が帰らない。面白い余興の持ち主だったが、実直、厳格そのものの人だった。
戦争も終りホットしたのも束の間で食糧事情が悪しく、こうしたふるさとからの臨時の食べ物を喜びとしたのだろう。それを惜しげもなく同僚にご馳走した高原さんは偉かった。少ない物でも分け与える精神は時代が変ろうとも存続し続ける。忘れてはいけないことだ。
さて、戦争が終って350万人が外地から引き揚げてきた。そうした人々を唄ったのが「上海帰りのリル」、日本が膨張し外地へと膨らんだ分が破裂し、一旗上げようとした人々が夢も希望も失せて、命からがら帰ってきた。そのため住宅事情も悪しく、間借りなどは当たり前だった。衣食足りて礼節の二つも悪く、さらに住宅事情も悪いなか、我々の父母は努力をされたことであった。そんな人々の生活を慰めるものはラジオからの歌、色々な歌が様々な人により歌われた。
ラジオ歌謡という番組があり、昭和21年四月から開始された。これで大ヒットしたのが「森の水車」歌は並木路子、作詞は浜松産の清水みのる、作曲は戦後、「湯の町エレジー」の大ヒットで地位を築いた近江俊郎が復員してきた仲間を強力に押し上げて「山小屋の灯」で復活した米山正夫が昭和16年に書いたもの。当時は大女優となった高峰秀子、大東亜レコードで発売、それが復活、明るいリズムが戦争を終ったことを感じさせた。もっとも、並木路子は「リンゴの唄」で一発大当たりをして、日本人なら知らぬ人なき大名曲となった。
日々是好き日は普通の生活を指す。今回の福島原発もそうだ。津波で家は被害に遭わない、家もちゃんと建っているけど中に入れないは恐ろしい。
我々を守ってくださった母親連も多くは鬼籍に入られた。感謝申し上げなければならない。
それでは、世田谷に居住しておられた母親連は何処からこの世田谷に来られたのかというと、この淵源は関東大震災にある。
東京が地震でやられ、多くの人々が下町を棄てて山の手に移転、それが東急線の界隈、目蒲線などが主流になった。昔は三茶も片田舎であった。農家の人々を除けば、大方は他地区からの移転者、上馬の改正道路裏あたりには、そうした移住者、移転者を受け入れた分譲地があったようだ。私の家の裏に高原さん、橋爪さん、吉田さんなどはこうした分譲地に同じ形の家が建っていた。高原さんは前にも記した警察官、この家には男二人、女の子が一人いて、長男は浜畑賢吉さんと同級のヤスヒロさん、三茶小で安松先生に才能を引き出された。東大に進学した秀才、なんでも鉄鋼会社に就職されたそうだが、消息は不明、弟のトオルさんは太っていて兄弟で、近くのオショウというあだ名の子供とケンカをしていたことがあった。父君の警察官は平巡査から叩き上げ、警察大学の校長にまで上られた苦労人。母親が千葉の港町から嫁してきたそうで、魚が送られてくるたびに同僚警官たちと自宅で宴会をして、子供たちはその都度、私の家の隣の技工師宅の加藤さんに避難していた。宴がたけなわになると、父君はオボンを二つ取り出し、素っ裸になって前を隠しながら踊る隠し芸、まさに前を隠すだけに名言だが、これを見ないと客が帰らない。面白い余興の持ち主だったが、実直、厳格そのものの人だった。
戦争も終りホットしたのも束の間で食糧事情が悪しく、こうしたふるさとからの臨時の食べ物を喜びとしたのだろう。それを惜しげもなく同僚にご馳走した高原さんは偉かった。少ない物でも分け与える精神は時代が変ろうとも存続し続ける。忘れてはいけないことだ。
さて、戦争が終って350万人が外地から引き揚げてきた。そうした人々を唄ったのが「上海帰りのリル」、日本が膨張し外地へと膨らんだ分が破裂し、一旗上げようとした人々が夢も希望も失せて、命からがら帰ってきた。そのため住宅事情も悪しく、間借りなどは当たり前だった。衣食足りて礼節の二つも悪く、さらに住宅事情も悪いなか、我々の父母は努力をされたことであった。そんな人々の生活を慰めるものはラジオからの歌、色々な歌が様々な人により歌われた。
ラジオ歌謡という番組があり、昭和21年四月から開始された。これで大ヒットしたのが「森の水車」歌は並木路子、作詞は浜松産の清水みのる、作曲は戦後、「湯の町エレジー」の大ヒットで地位を築いた近江俊郎が復員してきた仲間を強力に押し上げて「山小屋の灯」で復活した米山正夫が昭和16年に書いたもの。当時は大女優となった高峰秀子、大東亜レコードで発売、それが復活、明るいリズムが戦争を終ったことを感じさせた。もっとも、並木路子は「リンゴの唄」で一発大当たりをして、日本人なら知らぬ人なき大名曲となった。
2011-05-01
上馬の思い出26 ラジオの話2
私の家の隣はフタバ電気、ラジオを売っていた。お祭りの音響を担当したことを書いたが、この頃のラジオは高かった。戦時中はラジオは点けっぱなしにしていた。電灯の傘は布を覆い光が漏れないようにして、B29の焼夷弾攻撃を避けていた。改正道路を若林に下ると駒留神社の手前に大きな工場があり、石塀には迷彩模様が描かれていた。戦争中のなごりだったが、そこが釣竿工場に変り、名前もフィッシュング・タックルとなっていた。そこの不良品のグラスファイバーの穂先をキスノ君が得意そうに持っていたことがあった。
それは蝉取りに使えそうな感じだったが、それを使って取ったことはなかった。いつしか、そんな年から追い出されていたのだ。
ラジオが五球スーパーなどの名称で売られたころ、マジックアイという放送局を選別するのに便利な、ものが販売され、その目玉のようなものが周波数をぴったり合うと大きく開くようになっていた。
さて、JOAKのNHK放送が開始されたころは、勿論、これ一波しかないから、選局も必要が無い。ところが、民間放送が開始になったため、周波数を選ぶ必要が出た。これに着目したのがマジックアイ。これは1937年にアラン・デユモン氏により発明された。よく知っているように書いているだけで、インターネットで調べながら、ようよう記述。それにつけても、インターネットは使い方一つで大変便利なもの、長生きはするもんだが、大震災や福島原発のような見なくてもいいようなものまで見て、いいような悪いような気になるのも妙。
民間放送が誕生すると困るのはNHK、そこで天下のNHKも色々と妨害工作、汚い手口、精神はNHKに連綿と続くが、それはさておき、民放誕生のドタバタは色々あり、軍部の手先となったNHKはニュースなどを自前で作成することなく、言われるままに放送し、戦後GHQから戦犯として処分されるとビクビク、ところがアメリカは自由放送の国、そらがそのまま日本に持ち込まれるかと思うとそうでもない。多くの民間放送を取り締まるより一局のほうが良いと、NHK単独であったが、共産主義の脅威にさらされるようになると、NHKが増長し、ストライキをやらかし、放送が中断され、国家管理となりNHKの役員らが放送実施、このころ読売新聞は日本共産党の第二新聞と呼ばれるほどに共産かぶれ、社主の正力は戦犯で笹川良平などと共に巣鴨の監獄にぶちこまれていた。
ために、電通の吉田がはりきり、日本に民放開設を新聞社に働きかけ、地方紙を巻き込みながら全国制覇を目論む。正力はそれに乗り遅れたがテレビに着目。しかし、それには時間がかかった。吉田の目論見どおり全国展開となり、主導者電通はラジオ広告の王者となった。新聞広告は媒体主の新聞社に広告料を支払う、勿論ラジオも同様だが、新メディアの登場で料金設定は電通の思うがまま、これで一躍電通は広告業界の覇者となった。
ラジオは一家に一台で子供の自由にはならない高嶺の花、このラジオがNHKしかなく、終戦を迎え、我々悪ガキの耳に飛び込んできた放送があった。それが「尋ね人の時間」、戦争で行方不明の肉親縁者をさがすもの、嫌な時代を通りすぎてきたものだ。
母親の背中で聞いた「東部軍管区情報」はB29の飛来を知らせるもの、これを聞くと母親たちは電気を消して防空壕へと逃げ込んだ。夜空を見上げると焼夷弾が金魚のように見え、母親に「赤いとっとだ」と知らせたと後年いわれた。嫌な時代を共にくぐりぬけました。
それは蝉取りに使えそうな感じだったが、それを使って取ったことはなかった。いつしか、そんな年から追い出されていたのだ。
ラジオが五球スーパーなどの名称で売られたころ、マジックアイという放送局を選別するのに便利な、ものが販売され、その目玉のようなものが周波数をぴったり合うと大きく開くようになっていた。
さて、JOAKのNHK放送が開始されたころは、勿論、これ一波しかないから、選局も必要が無い。ところが、民間放送が開始になったため、周波数を選ぶ必要が出た。これに着目したのがマジックアイ。これは1937年にアラン・デユモン氏により発明された。よく知っているように書いているだけで、インターネットで調べながら、ようよう記述。それにつけても、インターネットは使い方一つで大変便利なもの、長生きはするもんだが、大震災や福島原発のような見なくてもいいようなものまで見て、いいような悪いような気になるのも妙。
民間放送が誕生すると困るのはNHK、そこで天下のNHKも色々と妨害工作、汚い手口、精神はNHKに連綿と続くが、それはさておき、民放誕生のドタバタは色々あり、軍部の手先となったNHKはニュースなどを自前で作成することなく、言われるままに放送し、戦後GHQから戦犯として処分されるとビクビク、ところがアメリカは自由放送の国、そらがそのまま日本に持ち込まれるかと思うとそうでもない。多くの民間放送を取り締まるより一局のほうが良いと、NHK単独であったが、共産主義の脅威にさらされるようになると、NHKが増長し、ストライキをやらかし、放送が中断され、国家管理となりNHKの役員らが放送実施、このころ読売新聞は日本共産党の第二新聞と呼ばれるほどに共産かぶれ、社主の正力は戦犯で笹川良平などと共に巣鴨の監獄にぶちこまれていた。
ために、電通の吉田がはりきり、日本に民放開設を新聞社に働きかけ、地方紙を巻き込みながら全国制覇を目論む。正力はそれに乗り遅れたがテレビに着目。しかし、それには時間がかかった。吉田の目論見どおり全国展開となり、主導者電通はラジオ広告の王者となった。新聞広告は媒体主の新聞社に広告料を支払う、勿論ラジオも同様だが、新メディアの登場で料金設定は電通の思うがまま、これで一躍電通は広告業界の覇者となった。
ラジオは一家に一台で子供の自由にはならない高嶺の花、このラジオがNHKしかなく、終戦を迎え、我々悪ガキの耳に飛び込んできた放送があった。それが「尋ね人の時間」、戦争で行方不明の肉親縁者をさがすもの、嫌な時代を通りすぎてきたものだ。
母親の背中で聞いた「東部軍管区情報」はB29の飛来を知らせるもの、これを聞くと母親たちは電気を消して防空壕へと逃げ込んだ。夜空を見上げると焼夷弾が金魚のように見え、母親に「赤いとっとだ」と知らせたと後年いわれた。嫌な時代を共にくぐりぬけました。
2011-04-30
上馬の思い出25 ラジオの話1
中野義高さんはメイド・イン・タモツのことを覚えていたが、ただ、タモツという子がいたとしか記憶になく、メイド・インの名は知らないという。メイド・イン・ジャパンの言葉をタモツが英語にあこがれて勝手につけたのだろう。そして、子分にメイド・インと呼べと命じたのかもしれない。こ改正道路は広くて快適だったらしく、待田 京介(日活俳優)がオープンカーで上馬から若林に向かって走り、中野さんの家の反対側が毎回テレビのオープニングシーンに使われたことがあった。待田は空手の大山倍達の一番弟子、触ると切れそうな顔をした役者、それが探偵だかの役で改正道路を疾駆する。当時としては珍しいほどの良い道路だったのだろう。
テレビのプロレスにしびれたのは大人ばかりでなく、我々悪ガキも同じで、生駒さんや勝比古さんは詳しく、ルーテーズ、コワルスキー、シュナーベル、プリモカルネラなどの外人レスラーも頭に入っていた。何と言っても力道山の空手チョップが凄かった。黒のタイツで格好もよかった。レフリーの真似をして友達同士でプロレスごっこが大流行だった。
プロレスに人々が集まる街頭テレビも、その他の時間はまるで閑古鳥だった。そんな時間に流れていたのが第二次世界大戦の記録映画、ナチスが負けて日本が降参する話で、見ていて面白いわけもない。このころアニメの広告が開始になった。パール歯磨きは昭和28年に資生堂が売り出した。歯ブラシに半分つけてが売り文句、泡が出るのが人気となり結構売れた。野沢の商店街に八百屋があり、大場金物店の側だったと思うが、ここに小さなテレビがあり、皇太子(今上天皇)が外国に船ででかけるシーンを放送していた。ここのテレビは時代の先取りで、ヘーエーとびっくりした。それから石橋酒屋の街頭テレビとなる。読売新聞の社主、正力松太郎が民間放送のテレビの生みの親、電通に吉田という社長がいて、民間放送ラジオをやらないかと正力に話を持ちかけると、正力はラジオよりテレビだと、その話に乗らなかった。
平成の御世になり東日本大震災が発生、関東大震災がおきたときには日本にラジオ放送はなかった。ために、流言蜚語で朝鮮人が井戸に毒を入れたと、自警団が朝鮮人狩りを行い、多くの人々が裁判もなくリンチにあった。この流言蜚語の元は正力松太郎であった。当時、彼は警視庁に勤務し警視庁も灰燼に帰す中、一部朝鮮人に不逞な動きありと策動し朝鮮人虐殺のもといになる発言をした。これが、電話で伝わり軍、警察関係から情報が流され大虐殺事件となった。
今となっては陳腐化したようなラジオメディアではあるが、この登場期は文明の利器の最先端、高価なものであった。このラジオは第一次世界大戦が終了した大正九年、アメリカ、ペンシルベニア・ピッツバーグで世界初のラジオ局、KDKA局・民間放送が開始になった。当時、真空管メーカーのウエスティングハウス社が、戦争が終って軍に納入していた無線機用の真空管が大量に余ってしまった。戦争中は前線の兵士との連絡に、無線機が使われ、その便利さに着目した軍が無線機製造に力をいれたが、終戦でこれが不要、メーカーのウエスティングハウスは頭が痛い。すると、その会社にいたコンラッド技師が、第一次世界大戦で禁止されていた、アマチュア無線局を再開、世の中平和になったんだから、無線機で方々の人とおしゃべりを楽しもう、世の中、どこにでもこうしたヒョウキンな人がいるもんで、この男のお喋りが、軽妙で頓知にたけており、時宜にあった話が評判となり、次第に多くの人に聞かれるようになった。これがラジオメディアの始まりで、わが国には大正十四年三月二十六日、日曜日午前九時三十分、温度六度五分と少々肌寒い東京上空に電波が発射された。国民が同じ情報を同時に共有する幕開け、関東大震災の二年後だった。続
テレビのプロレスにしびれたのは大人ばかりでなく、我々悪ガキも同じで、生駒さんや勝比古さんは詳しく、ルーテーズ、コワルスキー、シュナーベル、プリモカルネラなどの外人レスラーも頭に入っていた。何と言っても力道山の空手チョップが凄かった。黒のタイツで格好もよかった。レフリーの真似をして友達同士でプロレスごっこが大流行だった。
プロレスに人々が集まる街頭テレビも、その他の時間はまるで閑古鳥だった。そんな時間に流れていたのが第二次世界大戦の記録映画、ナチスが負けて日本が降参する話で、見ていて面白いわけもない。このころアニメの広告が開始になった。パール歯磨きは昭和28年に資生堂が売り出した。歯ブラシに半分つけてが売り文句、泡が出るのが人気となり結構売れた。野沢の商店街に八百屋があり、大場金物店の側だったと思うが、ここに小さなテレビがあり、皇太子(今上天皇)が外国に船ででかけるシーンを放送していた。ここのテレビは時代の先取りで、ヘーエーとびっくりした。それから石橋酒屋の街頭テレビとなる。読売新聞の社主、正力松太郎が民間放送のテレビの生みの親、電通に吉田という社長がいて、民間放送ラジオをやらないかと正力に話を持ちかけると、正力はラジオよりテレビだと、その話に乗らなかった。
平成の御世になり東日本大震災が発生、関東大震災がおきたときには日本にラジオ放送はなかった。ために、流言蜚語で朝鮮人が井戸に毒を入れたと、自警団が朝鮮人狩りを行い、多くの人々が裁判もなくリンチにあった。この流言蜚語の元は正力松太郎であった。当時、彼は警視庁に勤務し警視庁も灰燼に帰す中、一部朝鮮人に不逞な動きありと策動し朝鮮人虐殺のもといになる発言をした。これが、電話で伝わり軍、警察関係から情報が流され大虐殺事件となった。
今となっては陳腐化したようなラジオメディアではあるが、この登場期は文明の利器の最先端、高価なものであった。このラジオは第一次世界大戦が終了した大正九年、アメリカ、ペンシルベニア・ピッツバーグで世界初のラジオ局、KDKA局・民間放送が開始になった。当時、真空管メーカーのウエスティングハウス社が、戦争が終って軍に納入していた無線機用の真空管が大量に余ってしまった。戦争中は前線の兵士との連絡に、無線機が使われ、その便利さに着目した軍が無線機製造に力をいれたが、終戦でこれが不要、メーカーのウエスティングハウスは頭が痛い。すると、その会社にいたコンラッド技師が、第一次世界大戦で禁止されていた、アマチュア無線局を再開、世の中平和になったんだから、無線機で方々の人とおしゃべりを楽しもう、世の中、どこにでもこうしたヒョウキンな人がいるもんで、この男のお喋りが、軽妙で頓知にたけており、時宜にあった話が評判となり、次第に多くの人に聞かれるようになった。これがラジオメディアの始まりで、わが国には大正十四年三月二十六日、日曜日午前九時三十分、温度六度五分と少々肌寒い東京上空に電波が発射された。国民が同じ情報を同時に共有する幕開け、関東大震災の二年後だった。続
2011-04-29
上馬の思い出24
渋谷行きの玉電の停留所前に西沢という本屋があった。石橋酒屋、ウガパーの家の隣だ。二子玉川を昨今の人はニコタマと呼ぶそうだ。玉が二個とはどっかで聞いたような話だとニヤリ、玉川は多摩川でもあり丸子多摩川の呼称もある。この呼び名を解明した者はなく、なんとなくそうだというだけ。二子塚というのがあったからなどの話もあるが不明。
その昔、玉電はジャリ電と呼ばれたと三茶小の三上先生がいわれた。私も玉電が貨車を曳き、砂利を運搬していたのを目撃した。二子玉川から砂利を採取したのだろう。小学生のころは二子玉川に行くなと言われた。業者が砂利を採取し、穴をそのままにして、子供がその穴にはまって死ぬ事故が絶えなかった。
西沢書店のおかみさんはズケズケ物を言う人で、立ち読みしていると、子供は汚い手で本を見るなと叫ぶ。イヤなばばあだと思っていた。追われてももどる五月蠅のように、それでも西沢書店には通った。なにしろ、手塚治虫のマンガが見たくてたまらなかった。マンガの上手な勝比古さんは巧いだけではなく、マンガ界についても詳しかった。イガグリ君というマンガが、これは大ヒットすると第一回が出た時に予言した。作家は福井英一、この人はすぐに亡くなった。イガグリくんは柔道漫画、そして、後年少年たちの血を熱くした、あの名作「赤胴鈴之助」の剣道漫画の第一作を描き急逝、わずか33歳だった。
その後を引き続いて描いたのが武内つなよし、この人は赤胴で売れっ子作家になった。福井は東京都の産、惜しい才能だった。スポコン漫画(スポーツ根性)の元祖。
勝比古さんは自分が漫画をかくだけでなく、漫画界にまでアンテナを広げていたのは、漫画家を目指していたのだろう。ところが、自分の好きなことで生涯を送れるものは少ない。この勝比古さんも漫画界に投じた話を聞かなかった。これも惜しいことだった。
さて、二子玉川で子供が砂利採取の穴に落ち込んで死ぬと書いたが、この西沢書店の子が友達と二子玉川にでかけ、その子が見えなくなったので一人で帰ってきた。その子は死体で見つかり、その母親が嘆いて、店番をしている嫌なおかみさんに電話をかけてきた。丁度、そこへ立ち読みにでかけた。長電話でおかみさんが叩きをかけにこないので、いい塩梅だと漫画を見ていたが、次第に電話の応対が急を告げてきたので、今度は漫画そっちのけで耳が次第に大きくなった。おかみさんは自分の子どもは悪くないと自己弁護、ところが命を失った方は治まらない。日頃、我々悪ガキを叩きを持って追い回すにっくきばばあがやりこめられているので、それは痛快至極、日頃の溜飲を大きく下げた。それでもにっくきばばあは自己正当を繰り返していたが、誰の目にも非があった。
その西沢書店も今は無くなってしまった。新刊本はインキの臭いが店内に充満し、これが文化の匂いだと思った。
その昔、玉電はジャリ電と呼ばれたと三茶小の三上先生がいわれた。私も玉電が貨車を曳き、砂利を運搬していたのを目撃した。二子玉川から砂利を採取したのだろう。小学生のころは二子玉川に行くなと言われた。業者が砂利を採取し、穴をそのままにして、子供がその穴にはまって死ぬ事故が絶えなかった。
西沢書店のおかみさんはズケズケ物を言う人で、立ち読みしていると、子供は汚い手で本を見るなと叫ぶ。イヤなばばあだと思っていた。追われてももどる五月蠅のように、それでも西沢書店には通った。なにしろ、手塚治虫のマンガが見たくてたまらなかった。マンガの上手な勝比古さんは巧いだけではなく、マンガ界についても詳しかった。イガグリ君というマンガが、これは大ヒットすると第一回が出た時に予言した。作家は福井英一、この人はすぐに亡くなった。イガグリくんは柔道漫画、そして、後年少年たちの血を熱くした、あの名作「赤胴鈴之助」の剣道漫画の第一作を描き急逝、わずか33歳だった。
その後を引き続いて描いたのが武内つなよし、この人は赤胴で売れっ子作家になった。福井は東京都の産、惜しい才能だった。スポコン漫画(スポーツ根性)の元祖。
勝比古さんは自分が漫画をかくだけでなく、漫画界にまでアンテナを広げていたのは、漫画家を目指していたのだろう。ところが、自分の好きなことで生涯を送れるものは少ない。この勝比古さんも漫画界に投じた話を聞かなかった。これも惜しいことだった。
さて、二子玉川で子供が砂利採取の穴に落ち込んで死ぬと書いたが、この西沢書店の子が友達と二子玉川にでかけ、その子が見えなくなったので一人で帰ってきた。その子は死体で見つかり、その母親が嘆いて、店番をしている嫌なおかみさんに電話をかけてきた。丁度、そこへ立ち読みにでかけた。長電話でおかみさんが叩きをかけにこないので、いい塩梅だと漫画を見ていたが、次第に電話の応対が急を告げてきたので、今度は漫画そっちのけで耳が次第に大きくなった。おかみさんは自分の子どもは悪くないと自己弁護、ところが命を失った方は治まらない。日頃、我々悪ガキを叩きを持って追い回すにっくきばばあがやりこめられているので、それは痛快至極、日頃の溜飲を大きく下げた。それでもにっくきばばあは自己正当を繰り返していたが、誰の目にも非があった。
その西沢書店も今は無くなってしまった。新刊本はインキの臭いが店内に充満し、これが文化の匂いだと思った。
2011-04-28
上馬の思い出23
ドリアンの隣に貸し本屋ができた。ドリアンは二階建て長屋で、貸し本屋に貸した家にはノブ公という子供がいた。この貸本屋で怪人二十面相などの本を借りた。貸し本屋で食える時代があった。この貸本屋は兄弟で経営していて、弟は早稲田大に行っていたが、ほどなくして死んだ。その後、この本屋はカメラ屋に商売替えをした。カメラなど高価で高値の花だった。その並びにオグラ時計店があり、若くて元気な兄弟がいたように思う。そこでレンズを買って望遠鏡を作ったことがあった。
この家に嫁いだ美人がいて、島村イクコと言った。三人姉妹の二番目、関西から移転してきて、私の家で姉妹三人が働いていた。その二番目は卓球が上手く和泉屋の先、デカシさんの近くに卓球場が出来て、そこに遊びに来たオグラ時計店の若い経営者と知り合い結婚した。私が中学二年生の頃だった。
合縁奇縁の言葉があるが、人生はちょっとした出会いで人生が大きく変わる。良きにつけ悪しきにつけだ。このオグラ時計店は現在でも上馬に存在し、昔より大きく立派になったような気がする。一度も訪ねたこともないが、長い風雪をくぐりぬけて現存することは立派としか言いようがない。時代は激しく移り変わり、昔の子供も今は老人となった。色々なことを見聞してきたが、時代は少しも休むことなく変化を繰り返して見せる。これもまた不思議なものだ。
オグラ時計店の並びに松の木瀬戸物店があった。やる気のない姉妹が経営していたが、ある日店じまいをした。その並びに毛塚の今川焼き、赤井おもちゃ屋、その店のおばあさんは赤井花子と言った。そして進藤肉屋になり野沢商店街へと切り込んで行った。野沢商店街には大場金物屋があり、釘から鍋釜と種々雑多なものが並んでいて、見ているだけでもめまいがしそうだった。今のようにホームセンターで何でも自由に見たり触ったりができる時代ではなく、店員に○○が欲しいというとそこに案内してくれた。釘などは目方で売っていた。大塚という洋品店、旭デパートだかマーケットが出来て、その二階に大坪というボディービル道場があった。そこには相撲の鳴門海が来たことがあった。力道山のプロレスブームが世の中を大きく変化させた。
ともかくプロレスが見たかった。玉電通りの千田歯科医の近くにそろばん塾があり、そこにテレビがあり、通ってもいないのにプロレス見たさに押しかけた。シャープ兄弟と力道山の試合はラジオじゃわからない迫力があった。柔道の木村との戦いも凄かった。ともかく、聞く楽しさもさることながら、見たいという欲求のほうが強かった。石橋酒店の街頭テレビには多くの人が詰め掛けた。昔は今のように四六時中テレビは放映されていない。昼などはテレビは見れなかったもんだ。
その街頭テレビを置いている石橋酒屋に同い年の子供がいて、言葉が不自由だった。それでも運動神経は敏捷で走るとやたら早かった。改正道路で軍艦ごっこなどをやると、ルールも理解して巧みだった。何か喋ろうとすると、吐くようにウングと言ってからパーと続けるので、皆がウガパーと呼んだ。彼もまたそれに反応して振り返ったので、耳は機能していたのだろう。ある日、彼と遊ぼうということになり、あたりを探したが見当たらない。家にいるのじゃないかと、酒屋に入り込み、店番の母親にウガパーいる?と聞いたら、「まあひどい、うちの子は○○という名前があるんです」とひどく強く言われた。泣きそうな顔をして言ったところを見ると、本気で怒ったのだろう。しかし、ウガパーはウガパーだと気にもしなかった。駒沢中学に宇佐美という焼き過ぎた黒パンのようなでかい顔をした国語の教師がいて、聾学校の教師になりたかったが、頬がふくらんでいると、生徒が頬の動きで言葉を察するので、不向きだと採用されなかった話を聞かせた。その時に、聾学校に入ると最初に子供を椅子に座らせ、顔を上に向かせて口に水を注ぎ込む、すると苦しくなって、ウガという、そして、その水をパーっと吐き出す。言葉は口から空気を出す訓練の第一歩がウガパーだと言った。なるほど、それでウガパーだったんだと理解した。
そのウガパーの店の横に空になった味噌樽が並んでいて、冬の寒い日は、それに入り込んでヘリについた味噌を舐めた。するとウガパーが我々を酒屋の物置に連れて行った。袋の破けた塩や砂糖などがあり、塩は舐めなかったが砂糖は舐めて残りはポケットに入れた。横に缶詰があり魚の絵が描いてあった。それは缶詰が太っていてはちきれそうになっていた。よほど美味い物が入っているんだろうと、松ノ木精米店のヒロシさんに言うと、それは腐っていて中にガスが溜まっているから食うと死ぬぞとおどかされた。食べなくてよかったと思った。ウガパーは長じてワイシャツの店を経営したと聞いた。
この家に嫁いだ美人がいて、島村イクコと言った。三人姉妹の二番目、関西から移転してきて、私の家で姉妹三人が働いていた。その二番目は卓球が上手く和泉屋の先、デカシさんの近くに卓球場が出来て、そこに遊びに来たオグラ時計店の若い経営者と知り合い結婚した。私が中学二年生の頃だった。
合縁奇縁の言葉があるが、人生はちょっとした出会いで人生が大きく変わる。良きにつけ悪しきにつけだ。このオグラ時計店は現在でも上馬に存在し、昔より大きく立派になったような気がする。一度も訪ねたこともないが、長い風雪をくぐりぬけて現存することは立派としか言いようがない。時代は激しく移り変わり、昔の子供も今は老人となった。色々なことを見聞してきたが、時代は少しも休むことなく変化を繰り返して見せる。これもまた不思議なものだ。
オグラ時計店の並びに松の木瀬戸物店があった。やる気のない姉妹が経営していたが、ある日店じまいをした。その並びに毛塚の今川焼き、赤井おもちゃ屋、その店のおばあさんは赤井花子と言った。そして進藤肉屋になり野沢商店街へと切り込んで行った。野沢商店街には大場金物屋があり、釘から鍋釜と種々雑多なものが並んでいて、見ているだけでもめまいがしそうだった。今のようにホームセンターで何でも自由に見たり触ったりができる時代ではなく、店員に○○が欲しいというとそこに案内してくれた。釘などは目方で売っていた。大塚という洋品店、旭デパートだかマーケットが出来て、その二階に大坪というボディービル道場があった。そこには相撲の鳴門海が来たことがあった。力道山のプロレスブームが世の中を大きく変化させた。
ともかくプロレスが見たかった。玉電通りの千田歯科医の近くにそろばん塾があり、そこにテレビがあり、通ってもいないのにプロレス見たさに押しかけた。シャープ兄弟と力道山の試合はラジオじゃわからない迫力があった。柔道の木村との戦いも凄かった。ともかく、聞く楽しさもさることながら、見たいという欲求のほうが強かった。石橋酒店の街頭テレビには多くの人が詰め掛けた。昔は今のように四六時中テレビは放映されていない。昼などはテレビは見れなかったもんだ。
その街頭テレビを置いている石橋酒屋に同い年の子供がいて、言葉が不自由だった。それでも運動神経は敏捷で走るとやたら早かった。改正道路で軍艦ごっこなどをやると、ルールも理解して巧みだった。何か喋ろうとすると、吐くようにウングと言ってからパーと続けるので、皆がウガパーと呼んだ。彼もまたそれに反応して振り返ったので、耳は機能していたのだろう。ある日、彼と遊ぼうということになり、あたりを探したが見当たらない。家にいるのじゃないかと、酒屋に入り込み、店番の母親にウガパーいる?と聞いたら、「まあひどい、うちの子は○○という名前があるんです」とひどく強く言われた。泣きそうな顔をして言ったところを見ると、本気で怒ったのだろう。しかし、ウガパーはウガパーだと気にもしなかった。駒沢中学に宇佐美という焼き過ぎた黒パンのようなでかい顔をした国語の教師がいて、聾学校の教師になりたかったが、頬がふくらんでいると、生徒が頬の動きで言葉を察するので、不向きだと採用されなかった話を聞かせた。その時に、聾学校に入ると最初に子供を椅子に座らせ、顔を上に向かせて口に水を注ぎ込む、すると苦しくなって、ウガという、そして、その水をパーっと吐き出す。言葉は口から空気を出す訓練の第一歩がウガパーだと言った。なるほど、それでウガパーだったんだと理解した。
そのウガパーの店の横に空になった味噌樽が並んでいて、冬の寒い日は、それに入り込んでヘリについた味噌を舐めた。するとウガパーが我々を酒屋の物置に連れて行った。袋の破けた塩や砂糖などがあり、塩は舐めなかったが砂糖は舐めて残りはポケットに入れた。横に缶詰があり魚の絵が描いてあった。それは缶詰が太っていてはちきれそうになっていた。よほど美味い物が入っているんだろうと、松ノ木精米店のヒロシさんに言うと、それは腐っていて中にガスが溜まっているから食うと死ぬぞとおどかされた。食べなくてよかったと思った。ウガパーは長じてワイシャツの店を経営したと聞いた。
2011-04-27
上馬の思い出22
酒場ドリアンはどりあんと書いたのかも知れない。ともかく60年も前のことだけに、定かではない。玉電という路面電車がのんびりと走り、その両側に所々に商店が立ち並ぶ、ごく貧弱な町並みだった。渋谷から上通りにかけて玉電は専用軌道敷を爪先あがりに上る。大橋、池尻、三茶と続くわけだが、この廃線になった玉電の駅名を渋谷から二子玉川までいまだに言える。幼い頃に記憶は鮮明だが、年取ってくると昨日の晩飯がなんだったか忘れてしまうのも不思議。
あおの玉電の中心になる所から上馬の次が真ん中で真中(まなか)と言った。安全地帯などもなく、電信柱に赤い行灯看板に真中とかかれていた。雨が降るとジイジイと爺さんが恋しくて泣く孫のような音を立てた。また、良く雨が降ったもんだ。夏になると夕立が降って通る人を嘆かせたが、雨宿りをしたくとも改正道路にそんな洒落た店はなく、皆、ひたすら歩いたもんだ。夕立がやむと赤とんぼが湧くように青空を自由に飛び、悪ガキはそれを箒を持って追いかけた。とんぼなどどれほど採っても腹の足しにはならないが、それでも反射的に追いかけた。
玉電に乗って砧の池で釣りをしに行った。松の木精米店のヒロシさんは釣りが上手で、鮒などを釣り上げたが、私はいつも一匹も釣れなかった。真中に釣具屋があった。丸い東海林太郎のような眼鏡をかけた主人が客と釣り談義でもしているのか、客が絶えなかった。
そこで鮒をバケツに入れて売っていた。それを甕に入れて飼ったが、次第に大きくなり、甕が小さく見えるようになったが、その鮒をどう始末したのかは覚えていない。
釣りにはヒロシさんの外に勝比古さんも行った。砧の池で釣っていると、蛇がとぐろを巻いているのを見つけ、勝比古さんに教えた。青大将ではなくやまかがしだという、それを勝比古さんがつかもうとして噛まれた。毒はないかれ平気だと言っていたが、蛇を上手に扱えると思っていたのに噛み付かれてショックのようだった。
砧には二子玉川で乗り換えるのだが、そこから先は単線で歩いて行ったこともある。鉄橋を線路に従って歩くと途中に蛇の死骸があったりした。国太床屋のタケシさんが親戚が溝口にいるそうで、砧は隣村だけに良く知っていた。砧駅の前にワカモト製薬の社長のデカイ洋館があった。田圃が続くのんびりとしたところだった。
その田圃の横には狭い流れがあり、そこをボテという手に持つ網でガサガサとかき回すとどじょうや小魚が一杯とれた。それをタケシさんは得意にしていた。駒中のタンチ山に霞み網をしかけて小鳥をとっていた。霞み網はやってはいけないと言いながらとっていた。私はその後についていったが、一回も網にかかったのを見たことがなかった。タンチ山というのは昔、そこにタンチという乞食が住んでいたそうだ。今のホームレス、昔は山ごと自分のねぐらにしていたから、現今の駅の近くの通路に寝るのとは訳がちがう。乞食の名が山の名になるのだから大したもの。もっとも渋谷の道玄坂も道玄という夜盗・強盗の大和田太郎道玄の名からきたそうだ。昔の武士なんてのも押し借りゆすりは武士の習いというほどで、理屈ぬき理不尽なんてのは当たり前、土台、働かなくして飯を食うのだから、どこからか融通しなければ食えない。強盗などは朝飯前だ。
勝比古さんのドリアンは母親が経営、父親は裏で雀荘をやっていたが、小男で風采が上がらなかった。ところが世の中はどういうところか、この小男が若い女とできて駆け落ちしたと風の噂が伝えた。それは私が駒沢中学の二年生だか、三年の頃だった。勝比古さんは父親を見つけたら殺してやると、飛び出しナイフを持って歩いているそうだと友人が教えてくれた。色の道ばかりは道理や条理のつかないところで隠花のようにひっそりと妙な臭いと共に咲く。そんなことが判るようになるのは、それから十年もあとのことだった。勝比古さんの母親は急に老け込んだと、これも噂で知った。
あおの玉電の中心になる所から上馬の次が真ん中で真中(まなか)と言った。安全地帯などもなく、電信柱に赤い行灯看板に真中とかかれていた。雨が降るとジイジイと爺さんが恋しくて泣く孫のような音を立てた。また、良く雨が降ったもんだ。夏になると夕立が降って通る人を嘆かせたが、雨宿りをしたくとも改正道路にそんな洒落た店はなく、皆、ひたすら歩いたもんだ。夕立がやむと赤とんぼが湧くように青空を自由に飛び、悪ガキはそれを箒を持って追いかけた。とんぼなどどれほど採っても腹の足しにはならないが、それでも反射的に追いかけた。
玉電に乗って砧の池で釣りをしに行った。松の木精米店のヒロシさんは釣りが上手で、鮒などを釣り上げたが、私はいつも一匹も釣れなかった。真中に釣具屋があった。丸い東海林太郎のような眼鏡をかけた主人が客と釣り談義でもしているのか、客が絶えなかった。
そこで鮒をバケツに入れて売っていた。それを甕に入れて飼ったが、次第に大きくなり、甕が小さく見えるようになったが、その鮒をどう始末したのかは覚えていない。
釣りにはヒロシさんの外に勝比古さんも行った。砧の池で釣っていると、蛇がとぐろを巻いているのを見つけ、勝比古さんに教えた。青大将ではなくやまかがしだという、それを勝比古さんがつかもうとして噛まれた。毒はないかれ平気だと言っていたが、蛇を上手に扱えると思っていたのに噛み付かれてショックのようだった。
砧には二子玉川で乗り換えるのだが、そこから先は単線で歩いて行ったこともある。鉄橋を線路に従って歩くと途中に蛇の死骸があったりした。国太床屋のタケシさんが親戚が溝口にいるそうで、砧は隣村だけに良く知っていた。砧駅の前にワカモト製薬の社長のデカイ洋館があった。田圃が続くのんびりとしたところだった。
その田圃の横には狭い流れがあり、そこをボテという手に持つ網でガサガサとかき回すとどじょうや小魚が一杯とれた。それをタケシさんは得意にしていた。駒中のタンチ山に霞み網をしかけて小鳥をとっていた。霞み網はやってはいけないと言いながらとっていた。私はその後についていったが、一回も網にかかったのを見たことがなかった。タンチ山というのは昔、そこにタンチという乞食が住んでいたそうだ。今のホームレス、昔は山ごと自分のねぐらにしていたから、現今の駅の近くの通路に寝るのとは訳がちがう。乞食の名が山の名になるのだから大したもの。もっとも渋谷の道玄坂も道玄という夜盗・強盗の大和田太郎道玄の名からきたそうだ。昔の武士なんてのも押し借りゆすりは武士の習いというほどで、理屈ぬき理不尽なんてのは当たり前、土台、働かなくして飯を食うのだから、どこからか融通しなければ食えない。強盗などは朝飯前だ。
勝比古さんのドリアンは母親が経営、父親は裏で雀荘をやっていたが、小男で風采が上がらなかった。ところが世の中はどういうところか、この小男が若い女とできて駆け落ちしたと風の噂が伝えた。それは私が駒沢中学の二年生だか、三年の頃だった。勝比古さんは父親を見つけたら殺してやると、飛び出しナイフを持って歩いているそうだと友人が教えてくれた。色の道ばかりは道理や条理のつかないところで隠花のようにひっそりと妙な臭いと共に咲く。そんなことが判るようになるのは、それから十年もあとのことだった。勝比古さんの母親は急に老け込んだと、これも噂で知った。
2011-04-26
上馬の思い出21
メイド・イン・タモツ親分のおかげでセンミツと呼ばれた。千に三つしか本当のことを言わないという、つまり0.3%、子供の頃は紙芝居が来て、5円も持っていけば充分に何か買えた。紙芝居というとガマさん、明治大の夜間に行っている若い人、それとフライパンだった。紙芝居は下北沢の貸し出し元から借りて、自転車に駄菓子の入った引き出し、その上に紙芝居のセット、さらにその上に大太鼓を置いて、町の辻辻で、大太鼓を胸にかけて、叩いて近所を廻ると、どこからともなく子供が湧いて出る。
定番の黄金バットは人気がなかった。怖いのもあった。墓場から生き返って出て来るのなんかは夜中に小便に行くのが嫌だった。
紙芝居も読み癖があり、その口調に子供ながらも巧拙があると思った。明大生のは朗読調、ガマさんのは芝居風、フライパンのは軽演劇のような軽さとアドリブにあった。フライパンの持ってくる紙芝居は滑稽ものが多く、それが子供に受けた。フライパンは太鼓が買えないので代用品としてフライパンを叩いていた。それが故にフライパンという。フライパンの守備範囲は広く三茶のあたりまで廻っていたようで、アーチャンも紙芝居を見たという。このフライパンは酒癖が悪く、後年三茶で飲んでケンカをして目青不動のところで刺し殺された。目青不動は江戸の五不動の一つで目が青いからその名がある。もとは麻布谷町、今の六本木あたりにあったが、明治41年に三茶の太子堂に移転してきた。
フライパンはお調子者だったけど悪人ではなかったように思うが、それも子供の視点、本当のことはわからない。
刺されて死んだ話は後年、私の知り合いでそれをみた。大井町で質流れ品を販売していたアライさんはいつも黒い顔つきをしていて、何か不思議な感じがあった。私が東京質屋組合の手伝いをして、組合会報の連載を書いていたころ、アライさんの主人筋の上総屋のことを記した。そのときに城南の質屋の雄、上総屋の旦那と知り合ったが、このアライさんの店に泥棒が入り、多額な被害にあった。その保険金の請求を東京海上にしたが、敵はなかなか払わない。その交渉を依頼されかけあったことがあった。無事に保険金は支払われアライさんい感謝されたが、中国人の泥棒のようで、大井町あたりは物騒だった。セコムにも加入してアラームが鳴る装置もつけていたが、ある日、開店のシャッターを開けたら、中に泥棒がいて刺し殺された。このアライさんと同じ顔つきのコックを見たことがあった。アライさんと同じだな、きっとまがまがしいことが起きるぞと思っていたら、このコックの家が丸焼けになった。その後、このコックの顔つきから黒いのが消えた。不思議な経験をしたもんだ。それ以来、人相には特に気を配るようにしている。
さて、隣の家の電気屋の長男ケンチャンが玉電通りを改正道路に渡ろうとして車に撥ねられた。腕に大怪我を負った、撥ねたのは外国人だった。なんでも納豆を買いに行き、その帰りに撥ねられたという。野沢の通りに乾物屋が何軒もあった。新倉屋という乾物屋だと土屋さんが教えてくれるが、どうも、上馬から野沢へかけての商店が思い出せない。駒中の原君は家が近いので野沢の商店街の地図が書けるかもしれない。折があれば頼んでみたいものだ。その頃の野沢は改正道路から見ると狭く、せせこましい感じがした。若林の交番まで改正道路が広く、その先はまた狭まっていた。私の家はメリヤス屋で駒沢に鈴木という仲間がいた。そして若林の狭くなった通りの左側に北条というメリヤス屋も同業で知り合いだった。そこの長男が私より一つ上で、ボロ市で露天商の親分を刺し殺した。中学を出て間もなくだったような気がする。その頃は安藤組が渋谷で幅をきかせていた。子供をそそのかして相手を殺させるのは人非人のすることだ。フランスの詩人アラゴンはこういう、若者に教えることは希望を持たせること、学ばせることは誠実を胸に刻み込ませること。私たちも老人になり、若者のために今日一日、何か努力をしただろうか、そんな問いかけも大事、このブログも若い人の夢と希望を掻き立てられるもとに、少しでも役立てばと思って書いている。多くの三茶界隈を舞台とした話に時代を超えた何かを感じてもらえれば望外の喜び。どの道、好き勝手に生きても一生は一生、不幸だ、つまらないと思っても、これもまた一生、それなら、今日も楽しかった、今日も面白かったと笑って暮らせる人こそ、真の人生の王者だ。銭・金を超越したところにこそ、人生の本質があるのさ。
定番の黄金バットは人気がなかった。怖いのもあった。墓場から生き返って出て来るのなんかは夜中に小便に行くのが嫌だった。
紙芝居も読み癖があり、その口調に子供ながらも巧拙があると思った。明大生のは朗読調、ガマさんのは芝居風、フライパンのは軽演劇のような軽さとアドリブにあった。フライパンの持ってくる紙芝居は滑稽ものが多く、それが子供に受けた。フライパンは太鼓が買えないので代用品としてフライパンを叩いていた。それが故にフライパンという。フライパンの守備範囲は広く三茶のあたりまで廻っていたようで、アーチャンも紙芝居を見たという。このフライパンは酒癖が悪く、後年三茶で飲んでケンカをして目青不動のところで刺し殺された。目青不動は江戸の五不動の一つで目が青いからその名がある。もとは麻布谷町、今の六本木あたりにあったが、明治41年に三茶の太子堂に移転してきた。
フライパンはお調子者だったけど悪人ではなかったように思うが、それも子供の視点、本当のことはわからない。
刺されて死んだ話は後年、私の知り合いでそれをみた。大井町で質流れ品を販売していたアライさんはいつも黒い顔つきをしていて、何か不思議な感じがあった。私が東京質屋組合の手伝いをして、組合会報の連載を書いていたころ、アライさんの主人筋の上総屋のことを記した。そのときに城南の質屋の雄、上総屋の旦那と知り合ったが、このアライさんの店に泥棒が入り、多額な被害にあった。その保険金の請求を東京海上にしたが、敵はなかなか払わない。その交渉を依頼されかけあったことがあった。無事に保険金は支払われアライさんい感謝されたが、中国人の泥棒のようで、大井町あたりは物騒だった。セコムにも加入してアラームが鳴る装置もつけていたが、ある日、開店のシャッターを開けたら、中に泥棒がいて刺し殺された。このアライさんと同じ顔つきのコックを見たことがあった。アライさんと同じだな、きっとまがまがしいことが起きるぞと思っていたら、このコックの家が丸焼けになった。その後、このコックの顔つきから黒いのが消えた。不思議な経験をしたもんだ。それ以来、人相には特に気を配るようにしている。
さて、隣の家の電気屋の長男ケンチャンが玉電通りを改正道路に渡ろうとして車に撥ねられた。腕に大怪我を負った、撥ねたのは外国人だった。なんでも納豆を買いに行き、その帰りに撥ねられたという。野沢の通りに乾物屋が何軒もあった。新倉屋という乾物屋だと土屋さんが教えてくれるが、どうも、上馬から野沢へかけての商店が思い出せない。駒中の原君は家が近いので野沢の商店街の地図が書けるかもしれない。折があれば頼んでみたいものだ。その頃の野沢は改正道路から見ると狭く、せせこましい感じがした。若林の交番まで改正道路が広く、その先はまた狭まっていた。私の家はメリヤス屋で駒沢に鈴木という仲間がいた。そして若林の狭くなった通りの左側に北条というメリヤス屋も同業で知り合いだった。そこの長男が私より一つ上で、ボロ市で露天商の親分を刺し殺した。中学を出て間もなくだったような気がする。その頃は安藤組が渋谷で幅をきかせていた。子供をそそのかして相手を殺させるのは人非人のすることだ。フランスの詩人アラゴンはこういう、若者に教えることは希望を持たせること、学ばせることは誠実を胸に刻み込ませること。私たちも老人になり、若者のために今日一日、何か努力をしただろうか、そんな問いかけも大事、このブログも若い人の夢と希望を掻き立てられるもとに、少しでも役立てばと思って書いている。多くの三茶界隈を舞台とした話に時代を超えた何かを感じてもらえれば望外の喜び。どの道、好き勝手に生きても一生は一生、不幸だ、つまらないと思っても、これもまた一生、それなら、今日も楽しかった、今日も面白かったと笑って暮らせる人こそ、真の人生の王者だ。銭・金を超越したところにこそ、人生の本質があるのさ。
2011-04-25
上馬の思い出20 メイド・イン・タモツ後編
メイド・イン・タモツって変な名前の中学生がいて、洟垂れを子分にした。自分の弁当を子分に食わせて親分を気取った。三茶をシマだと言って中央劇場の裏あたりが原っぱだった。そこにラーメン屋台のリヤカーがあり、そこでシンチャンにストリップを強要した。音楽を担当させられ、私が歌を唄ったが勝比古さんの酒場ドリアンで聞いた外国の歌のメロディーを適当に唄った。ジョンウェインの黄色いリボンも、湯の町エレジーも歌ったが、シンチャンが雨が降るのに裸にさせられ、エンエンと声をあげて泣き出した。雨は音を立てて振り出した。すると近所のおばさんとおぼしき人が傘をさして通りかかり、「あらやだ、この子は裸になってどうしたんだろう」とシンチャンを覗きこんだ。得たり賢しとばかり、シンチャンが大声を上げて泣き出すと、おばさんはシンチャンに服を着せ始めた。
「なんで裸にしたの」とメイド・イン・タモツは叱られた。私が「ストリップやれってメイド・イン・タモツが言ったんだ」と告げ口すると、「嫌だね、子供のくせにもうそんなことを考えて、まったくロクなもんにならないよ」と言いながらすっかりシンチャンに服を着させた。「早く帰るんだよ」と言っておばさんは消えた。
シンチャンは泣きながら歩きだした。私もシンチャンの手を引いて雨の中を移動する。メイド・イン・タモツも仕方がないので後からノタノタとついてくる。中里へ向かう専用軌道敷まで来るとシンチャンは道がわかったのか、泣き声もたてなくなり、ただひたすら雨の中を上馬めざして歩く。また、専用軌道敷が切れて、天皇陛下のムチを作るデカシさんの家の前を通ると、シンチャンは自分の家の近いのを知って、声を上げはじめた。私とつないでいた手を放し、両手で双眼鏡を作り声を上げて泣きまねだ。目をふさぐと歩けないので双眼鏡を作って泣きまねしたのには利口だなと感心した。
和泉屋の角に来て、私は右に折れた、そのままシンチャンといると泣かせたと思われるのが嫌だった。メイド・イン・タモツが後ろから声をかけてきたが、知らぬふりで家に帰った。メイド・イン・タモツと一緒にいると何か悪いことが起こりそうな雰囲気だった。
私の家に交番の巡査が時折顔を見せ、四方山話を聞かせていた。祖母は太りぎみで余り外に出ない。そのため巡査の話をよろこんで聞いていた。そんな日、コロシがあってね、と耳寄りな話をはじめた。どこで、とか女なのかとか、私が口を挟むと、祖母は子供は外で遊べと私を追い出した。今聞いたばかりの話を生駒さんの家に駈けていって話した。するとタケヒサさんの兄のカズオさんが出てきて、「どこで」、「あっち」、「誰が殺した」、「ウーン」、「どこで、誰が殺したの」と詰められ、苦し紛れに「メイド・イン・タモツ」と言ってしまった。メイド・イン・タモツが殺すわけはないだろう、途端に嘘つき、センミツのあだ名を頂戴することになった。う・に・しの法則が小学校入学前の子供にもあてはまった。
これを言い出したのは警視庁捜査二課の刑事で、最近になって図書館で借りた本にでていた。犯罪者は必ずこのう・に・しの線をたどるそうだ。メイド・イン・タモツの家はパチンコの機械を作っていた。中野義高さんに確認したところ、間違いなくパチンコの機械が家の前に並んでいたという。昨今はパチンコ機械メーカーが大儲けをする。メイド・イン・タモツもその後、パチンコ機械を作っていたら大金持ちになったのかもしれない。パチンコ屋の前を通ると六十年も前のメイド・イン・タモツを思い出す。
「なんで裸にしたの」とメイド・イン・タモツは叱られた。私が「ストリップやれってメイド・イン・タモツが言ったんだ」と告げ口すると、「嫌だね、子供のくせにもうそんなことを考えて、まったくロクなもんにならないよ」と言いながらすっかりシンチャンに服を着させた。「早く帰るんだよ」と言っておばさんは消えた。
シンチャンは泣きながら歩きだした。私もシンチャンの手を引いて雨の中を移動する。メイド・イン・タモツも仕方がないので後からノタノタとついてくる。中里へ向かう専用軌道敷まで来るとシンチャンは道がわかったのか、泣き声もたてなくなり、ただひたすら雨の中を上馬めざして歩く。また、専用軌道敷が切れて、天皇陛下のムチを作るデカシさんの家の前を通ると、シンチャンは自分の家の近いのを知って、声を上げはじめた。私とつないでいた手を放し、両手で双眼鏡を作り声を上げて泣きまねだ。目をふさぐと歩けないので双眼鏡を作って泣きまねしたのには利口だなと感心した。
和泉屋の角に来て、私は右に折れた、そのままシンチャンといると泣かせたと思われるのが嫌だった。メイド・イン・タモツが後ろから声をかけてきたが、知らぬふりで家に帰った。メイド・イン・タモツと一緒にいると何か悪いことが起こりそうな雰囲気だった。
私の家に交番の巡査が時折顔を見せ、四方山話を聞かせていた。祖母は太りぎみで余り外に出ない。そのため巡査の話をよろこんで聞いていた。そんな日、コロシがあってね、と耳寄りな話をはじめた。どこで、とか女なのかとか、私が口を挟むと、祖母は子供は外で遊べと私を追い出した。今聞いたばかりの話を生駒さんの家に駈けていって話した。するとタケヒサさんの兄のカズオさんが出てきて、「どこで」、「あっち」、「誰が殺した」、「ウーン」、「どこで、誰が殺したの」と詰められ、苦し紛れに「メイド・イン・タモツ」と言ってしまった。メイド・イン・タモツが殺すわけはないだろう、途端に嘘つき、センミツのあだ名を頂戴することになった。う・に・しの法則が小学校入学前の子供にもあてはまった。
これを言い出したのは警視庁捜査二課の刑事で、最近になって図書館で借りた本にでていた。犯罪者は必ずこのう・に・しの線をたどるそうだ。メイド・イン・タモツの家はパチンコの機械を作っていた。中野義高さんに確認したところ、間違いなくパチンコの機械が家の前に並んでいたという。昨今はパチンコ機械メーカーが大儲けをする。メイド・イン・タモツもその後、パチンコ機械を作っていたら大金持ちになったのかもしれない。パチンコ屋の前を通ると六十年も前のメイド・イン・タモツを思い出す。
2011-04-24
上馬の思い出19 メイド・イン・タモツ前編
三茶小で原田君が横山先生に廊下に立たされたとき、脱走をした話を記したが、これも立派な解決方法、人生は所詮、自分の気に入るようなものではなく、嫌だなと思うような方向に連れていかれるようなもの、まるで、子供の時に他所の家で食事に招かれたとき、嫌いな物が出る、嫌だから先に何とか口に押し込み、好きな順に食べ始めると、最初に食べた嫌いな物を皿に山盛りで出されたようなもの、余りおいしそうに食べているので、サア、どうぞで、泣きたくなるようなことだらけが人生だ。
そうしたとき、う・に・しの順が待ち受けるもんだ。先頭のうは嘘、追及されると誰でも嘘をいう、次が厳しく問い詰められると逃げる、最後のしは死だ。インドの諺にこんなのがある、立っているより座っているほうが楽だ、座っているより寝ているほうが楽だ、寝ているより死んだほうが楽だというけど本当か? 一度死んで戻ってきた奴がいないから、本当かどうかはわからない。
さて、上馬にメイド・イン・タモツって中学生がいた。学校に行きたくなくて、カバンを持って駒留神社の脇の公園や池の周りをウロウロしていた。私が小学校に入る前だった。生駒さんの隣の家が大平キエちゃんの家、この人は同級生だった。弟が二人いて、下の子はおかあさんにおぶさっていた。上の弟はシンチャンと言って、三歳か四歳だったろう、私のあとについて駒留公園のブランコで遊んでいると、メイド・イン・タモツが近づいてきて、「弁当を食わせてやる」という。喜んでシンチャンと一緒に駒留神社の木陰で弁当を食べた。また明日も来いヨ、弁当を食わせてやるからと言われ、翌日も食わせてもらった。おかずが少ししかなく、四角い弁当箱に飯がぎっしり詰め込まれていた。まだ、ほんのり温かかった。メイド・イン・タモツは原田君と同じように、学校に行くのを拒否して、公園でブラブラしていたのだ。
登校拒否のはしりかも知れない。試験がなければ学校ほど面白いところはないと思うが、学校が苦手だったのだろう。毎日弁当を食わせてもらっていると、メイド・イン・タモツがお前たち、オレの子分になれという。コブは食ったことあるけど美味くないというと、コブじゃない子分だ、オレが親分でお前たちは子分だという。何だかわからないけどウンというと、一宿一飯が仁義だから、お前たちは親分の言うことをきかなきゃいけないという、三宿は玉電の駅で三軒茶屋の先だけど、一宿はしらなかった。
お前たちと親分子分の盃を交わすから、あさって、オレの家に来いといわれた。メイド・イン・タモツの家は中野義高さんの斜め前の方にある。つまり、辻井水道工事屋さんの上馬駅よりだ。その家はパチンコの台を作っていたように思う。メイド・イン・タモツが公園で遊んでいる私とシンチャンを連れてタモツの家に行くと、小学校へ入る前の洟垂れが何人か並んでいた。家人は留守のようで、その留守を見計らって洟垂れを集めたようだった。六畳ほどの部屋の畳に座布団が敷かれ、上座にメイド・イン・タモツが座り、座布団の前におちょこが揃えてあった。タモツがそれを手にしろと告げて、そのおちょこにザラメを入れて廻った。タモツが入れて歩いている間に、それを舐めてしまった。皆、盃に酒が入ったなとタモツが言ったので、もう舐めたと私がいうと、しょうがない奴だと舌打ちしながら、もう一杯くれた。そして、揃いました、それでは固めの盃ですと言ってタモツが舐めて、皆も舐めた。舐め終わったのでさっさと帰ってきた。
「しょうがねえな、ザラメを舐めたら帰るのかよ」というので、お菓子はないんでしょと訊いてやった。ねえ、と答えたので帰る足が急に速くなった。
ある、雨が降りそうな日だった。丁度今頃の季節だったか、親分のメイド・イン・タモツが公園で子分の私とシンチャンに飯を食わせると、これからシマに行くと言い出した。シマって縦か横かと訊いたら、着物の柄じゃねえって力んでいた。メイド・イン・タモツのシマは三茶だという、ヤクザもんの話をどこかで仕込んできて、それを真似して、自分がメイド・イン・タモツ一家の大親分だと力んでいたのだろう。タモツは小柄だった。先頭に親分が歩いて、その後に私がヨタヨタ、シンチャンはヨチヨチ歩いていた。
何処をどう歩いたのか、三茶の裏にバクダンアラレを作っているところがあり、そこいら一帯は焼け跡のような感じで、屋台のリヤカーが何台も並んでいた。愚図っていた空がにわかに泣き出して、我々は屋台のリヤカーに潜り込んだ。板が敷いてありそこに大きな穴が空いていた。ラーメン屋台でもあったのか、釜をそこに嵌めこんだのだろうか、メイド・イン・タモツと私はその下にいて、シンチャンは上にいた。何を思ったのかメイド・イン・タモツがシンチャンにストリップをしろと命じて、私に歌を唄えという。勝比古さんのドリアンで覚えた青いカナリア、これもダイナショアの歌だ、これを唄うと、曲に合わせて一枚づつ服を脱げと三歳の男の子のシンチャンに言う。メイド・イン・タモツはどこでそんなことを覚えてきたのだろう。身体は小柄でもチンチンに毛でも生え初めていたのだろうか。続
そうしたとき、う・に・しの順が待ち受けるもんだ。先頭のうは嘘、追及されると誰でも嘘をいう、次が厳しく問い詰められると逃げる、最後のしは死だ。インドの諺にこんなのがある、立っているより座っているほうが楽だ、座っているより寝ているほうが楽だ、寝ているより死んだほうが楽だというけど本当か? 一度死んで戻ってきた奴がいないから、本当かどうかはわからない。
さて、上馬にメイド・イン・タモツって中学生がいた。学校に行きたくなくて、カバンを持って駒留神社の脇の公園や池の周りをウロウロしていた。私が小学校に入る前だった。生駒さんの隣の家が大平キエちゃんの家、この人は同級生だった。弟が二人いて、下の子はおかあさんにおぶさっていた。上の弟はシンチャンと言って、三歳か四歳だったろう、私のあとについて駒留公園のブランコで遊んでいると、メイド・イン・タモツが近づいてきて、「弁当を食わせてやる」という。喜んでシンチャンと一緒に駒留神社の木陰で弁当を食べた。また明日も来いヨ、弁当を食わせてやるからと言われ、翌日も食わせてもらった。おかずが少ししかなく、四角い弁当箱に飯がぎっしり詰め込まれていた。まだ、ほんのり温かかった。メイド・イン・タモツは原田君と同じように、学校に行くのを拒否して、公園でブラブラしていたのだ。
登校拒否のはしりかも知れない。試験がなければ学校ほど面白いところはないと思うが、学校が苦手だったのだろう。毎日弁当を食わせてもらっていると、メイド・イン・タモツがお前たち、オレの子分になれという。コブは食ったことあるけど美味くないというと、コブじゃない子分だ、オレが親分でお前たちは子分だという。何だかわからないけどウンというと、一宿一飯が仁義だから、お前たちは親分の言うことをきかなきゃいけないという、三宿は玉電の駅で三軒茶屋の先だけど、一宿はしらなかった。
お前たちと親分子分の盃を交わすから、あさって、オレの家に来いといわれた。メイド・イン・タモツの家は中野義高さんの斜め前の方にある。つまり、辻井水道工事屋さんの上馬駅よりだ。その家はパチンコの台を作っていたように思う。メイド・イン・タモツが公園で遊んでいる私とシンチャンを連れてタモツの家に行くと、小学校へ入る前の洟垂れが何人か並んでいた。家人は留守のようで、その留守を見計らって洟垂れを集めたようだった。六畳ほどの部屋の畳に座布団が敷かれ、上座にメイド・イン・タモツが座り、座布団の前におちょこが揃えてあった。タモツがそれを手にしろと告げて、そのおちょこにザラメを入れて廻った。タモツが入れて歩いている間に、それを舐めてしまった。皆、盃に酒が入ったなとタモツが言ったので、もう舐めたと私がいうと、しょうがない奴だと舌打ちしながら、もう一杯くれた。そして、揃いました、それでは固めの盃ですと言ってタモツが舐めて、皆も舐めた。舐め終わったのでさっさと帰ってきた。
「しょうがねえな、ザラメを舐めたら帰るのかよ」というので、お菓子はないんでしょと訊いてやった。ねえ、と答えたので帰る足が急に速くなった。
ある、雨が降りそうな日だった。丁度今頃の季節だったか、親分のメイド・イン・タモツが公園で子分の私とシンチャンに飯を食わせると、これからシマに行くと言い出した。シマって縦か横かと訊いたら、着物の柄じゃねえって力んでいた。メイド・イン・タモツのシマは三茶だという、ヤクザもんの話をどこかで仕込んできて、それを真似して、自分がメイド・イン・タモツ一家の大親分だと力んでいたのだろう。タモツは小柄だった。先頭に親分が歩いて、その後に私がヨタヨタ、シンチャンはヨチヨチ歩いていた。
何処をどう歩いたのか、三茶の裏にバクダンアラレを作っているところがあり、そこいら一帯は焼け跡のような感じで、屋台のリヤカーが何台も並んでいた。愚図っていた空がにわかに泣き出して、我々は屋台のリヤカーに潜り込んだ。板が敷いてありそこに大きな穴が空いていた。ラーメン屋台でもあったのか、釜をそこに嵌めこんだのだろうか、メイド・イン・タモツと私はその下にいて、シンチャンは上にいた。何を思ったのかメイド・イン・タモツがシンチャンにストリップをしろと命じて、私に歌を唄えという。勝比古さんのドリアンで覚えた青いカナリア、これもダイナショアの歌だ、これを唄うと、曲に合わせて一枚づつ服を脱げと三歳の男の子のシンチャンに言う。メイド・イン・タモツはどこでそんなことを覚えてきたのだろう。身体は小柄でもチンチンに毛でも生え初めていたのだろうか。続
2011-04-23
上馬の思い出18
酒場ドリアンには多くの客が来た。その中に来須野君の二階に下宿していた金子という玉電の運転手もいた。ドリアンではネコと呼ばれていた。指が太くてマージャン牌が小さく見えた。アルシャルマージャンだといっていた。これはマージャンの原点のようなもので、リーチマージャンとは違っているそうだ。毎晩飽きもせずにマージャンの客がきて、そのうち来なくなる。その人は借金が嵩んだためで、その借金は雀荘の主人、つまり、ドリアンが立て替えた。そのため、借金取りの仕事が勝比古さんい割り振られた。小学校へ入ったばかりの子供が借金取りに来るのだから、来られるほうはたまらない。なにがしかの金を握らせることになる。うまいやりかたに見えるが苦肉の策だったのだろう。もともと博打の金、請求できる筋合いでもないが、雀荘がほかになければ何とか都合しなければならない。勝比古さんも行き難いものだから私をさそった。行くと塩でもまかれそうな雰囲気のところもあった。それでもいつも一緒について回った。今でも借金取りに行った場所を夢に見る。博打の負けた金を払うのは嫌だっただろう。
博打は賭博と言う。賭博は博技と賭技に分かれる、博技は花札、マージャン、トランプなど自分が本気になってやる技、賭技は自分はしない、つまり競輪、競馬など自分は馬や自転車に乗って本気になって走るのではない。走る選手の一番、二番を当てるものを指す。両方一緒にして賭博行為という。床屋の国太の親爺がやっていたチンチロリンは博技で、国が博打を禁止したので違法行為になるが、ヤクザという商売があり、昔はこれで渡世していた人種がいた。彼等は賭場を開いて、そのカスリ、つまり掛け金の中から一定割合を開催料としてハネて残りを当てた人に分配する。一回ごとに計算をするため、相当に数字に強くないと勤まらないが、大学なんて行かない人がこれをやる。普段はぼんやりしているように見えても、博打場に入るといきなり顔つきが変わるような人もいた。神経が足の先から頭の先まで稲光しているような面構えになる。それでいて、普段は買い物してても釣銭を貰うのを忘れたりする。妙なものだ。
ヤクザの仕事を国が法律で奪い、自分たちが競輪場や競馬場を経営、宝くじも禁止しながら特定の銀行にさせる。矛盾だらけだが現実だ。こうした許認可には必ず裏があり、目こぼし料としてヤクザならぬ警官がカスリを取る。悪いことを助長するようなところが警察にはあり、どうも世の中は一筋縄ではいかない。時代が変り、子供のあそびだったパチンコが朝鮮人たちの手で遊戯となり堂々とパチンコ屋が乱立するようになり、これまた警察が介入し、警察とパチンコ屋の癒着を見る。さらに、パチスロなるものまで登場し、賭博行為はエスカレート、こうした賭博行為の横行の裏でヤクザ、正確に言えば博徒が生活の基盤を失った。ヤクザには二種類あり博徒と香具師、これはテキヤとも呼ばれタカマチで物を販売する。つまり行商人、タカマチと言うのは市で、全国の市日のカレンダーを売っているところもある。世田谷のボロ市なども大きなタカマチだ。
勝比古さんのモグリ雀荘もそれなりの面倒な借金取立ての作業があった。それでも客は入れ替わりながらも来て繁盛していた。そのマージャンの部屋にはガラスの箱に入れられた蛇がとぐろを巻いていた。青大将だという。それを勝比古さんは平気な顔で触っていたが、とても気持ちが悪くてさわれなかった。ある日、それが逃げ出して騒ぎになったが、二、三日したら、腹を大きくして台所のところで動かないのを見つけた。ネズミでも食ったのだろうと、吉田家は平気な顔、商売の神様だと、時折お神酒を飲ませていた。
勝比古さんのお父さんは昔ボクシングの選手だったそうで、グラブをつけた写真が何枚もあった。プロの選手だったというが、寡黙な人でめったに笑い顔を見せなかった。目が小さくて細かったが、女房はその逆で大きな目の人だった。勝比古さんはお母さんに似て目が大きかったが姉二人は父親に似ていた。
ある晩、ドリアンの店で皿の割れる音がして、客が怒鳴っていた。ドアを開けて、おかあさんが、「お父さん交番に行ってきてください、お客さんが乱暴しているんです」と声をかけた。お父さんは小柄だったが、頑丈そうな身体を起こして、直ぐにでかけようとした。木戸を開けて出ようとするのに、「おじさん、やっつけちゃいなヨ」と声をかけたが、情けないような顔を作って、そのまま交番へと走って行った。
上馬メトロで見た西部劇のようにはいかないのだと、半分わかって半分、面白くなかった。だって、おじさんはボクシングの選手だったんだろ、それなのになんたることかと、世間知らずの小学生は思ったのだ。おじさんの走る影に、ラジオからバッテンボーの曲が流れた。これは腰抜け二丁拳銃でボブ・ホープが歌ったが、ラジオから流れるたのはダイナ・ショアの甘い声だった。ボブは喜劇俳優として有名だった。この人は長生きで百歳で死んだ。バッテンボーはボタンとボウ(リボン)だ。が、こどもにはバッテンボーに聞こえた。ダイナも77まで生きた。
博打は賭博と言う。賭博は博技と賭技に分かれる、博技は花札、マージャン、トランプなど自分が本気になってやる技、賭技は自分はしない、つまり競輪、競馬など自分は馬や自転車に乗って本気になって走るのではない。走る選手の一番、二番を当てるものを指す。両方一緒にして賭博行為という。床屋の国太の親爺がやっていたチンチロリンは博技で、国が博打を禁止したので違法行為になるが、ヤクザという商売があり、昔はこれで渡世していた人種がいた。彼等は賭場を開いて、そのカスリ、つまり掛け金の中から一定割合を開催料としてハネて残りを当てた人に分配する。一回ごとに計算をするため、相当に数字に強くないと勤まらないが、大学なんて行かない人がこれをやる。普段はぼんやりしているように見えても、博打場に入るといきなり顔つきが変わるような人もいた。神経が足の先から頭の先まで稲光しているような面構えになる。それでいて、普段は買い物してても釣銭を貰うのを忘れたりする。妙なものだ。
ヤクザの仕事を国が法律で奪い、自分たちが競輪場や競馬場を経営、宝くじも禁止しながら特定の銀行にさせる。矛盾だらけだが現実だ。こうした許認可には必ず裏があり、目こぼし料としてヤクザならぬ警官がカスリを取る。悪いことを助長するようなところが警察にはあり、どうも世の中は一筋縄ではいかない。時代が変り、子供のあそびだったパチンコが朝鮮人たちの手で遊戯となり堂々とパチンコ屋が乱立するようになり、これまた警察が介入し、警察とパチンコ屋の癒着を見る。さらに、パチスロなるものまで登場し、賭博行為はエスカレート、こうした賭博行為の横行の裏でヤクザ、正確に言えば博徒が生活の基盤を失った。ヤクザには二種類あり博徒と香具師、これはテキヤとも呼ばれタカマチで物を販売する。つまり行商人、タカマチと言うのは市で、全国の市日のカレンダーを売っているところもある。世田谷のボロ市なども大きなタカマチだ。
勝比古さんのモグリ雀荘もそれなりの面倒な借金取立ての作業があった。それでも客は入れ替わりながらも来て繁盛していた。そのマージャンの部屋にはガラスの箱に入れられた蛇がとぐろを巻いていた。青大将だという。それを勝比古さんは平気な顔で触っていたが、とても気持ちが悪くてさわれなかった。ある日、それが逃げ出して騒ぎになったが、二、三日したら、腹を大きくして台所のところで動かないのを見つけた。ネズミでも食ったのだろうと、吉田家は平気な顔、商売の神様だと、時折お神酒を飲ませていた。
勝比古さんのお父さんは昔ボクシングの選手だったそうで、グラブをつけた写真が何枚もあった。プロの選手だったというが、寡黙な人でめったに笑い顔を見せなかった。目が小さくて細かったが、女房はその逆で大きな目の人だった。勝比古さんはお母さんに似て目が大きかったが姉二人は父親に似ていた。
ある晩、ドリアンの店で皿の割れる音がして、客が怒鳴っていた。ドアを開けて、おかあさんが、「お父さん交番に行ってきてください、お客さんが乱暴しているんです」と声をかけた。お父さんは小柄だったが、頑丈そうな身体を起こして、直ぐにでかけようとした。木戸を開けて出ようとするのに、「おじさん、やっつけちゃいなヨ」と声をかけたが、情けないような顔を作って、そのまま交番へと走って行った。
上馬メトロで見た西部劇のようにはいかないのだと、半分わかって半分、面白くなかった。だって、おじさんはボクシングの選手だったんだろ、それなのになんたることかと、世間知らずの小学生は思ったのだ。おじさんの走る影に、ラジオからバッテンボーの曲が流れた。これは腰抜け二丁拳銃でボブ・ホープが歌ったが、ラジオから流れるたのはダイナ・ショアの甘い声だった。ボブは喜劇俳優として有名だった。この人は長生きで百歳で死んだ。バッテンボーはボタンとボウ(リボン)だ。が、こどもにはバッテンボーに聞こえた。ダイナも77まで生きた。
2011-04-22
上馬の思い出17
酒場ドリアンは上馬の文化的象徴のように思えた。家にいても食うものもロクになかったので、方々の家に顔をだした。中でも松の木精米店では正月のお供えのデカイのを作るので、鏡開きが楽しみだった。自分の家のは小さく、ほんの申しわけ程度、ところが松の木精米店のはでかい、また、この家の人たちは食べ物が豊富だからそんなものを食べようともしない。が、鏡開きだけは祝うので、ひびの充分に入った大判のお供えを包丁や金槌で叩いたり割ったりと忙しい。そして、優しいお母さんがしるこを作ってくれた。松の木精米店のお母さんは品の良い人だった。末っ子のクニオさんを可愛がっていた。また、この子が実に子供こどもしていて愛らしかった。背がひょろひょろっとしていて、足が長く弱そうにみえたが、しっかりした子だった。
松の木精米店の横丁、和泉屋パン屋の間にリヤカーを何台も並べていた。昔は米をリヤカーで配達した。自転車で引っ張るのだから、それは大変な力がいる。昔は糖尿病などかかる者がいない。朝から晩まで人力で頑張るから栄養を蓄積するひまがなかった。昨今は自動車の普及率と糖尿病患者の増加率の曲線が等しい。それだけ、内燃機関に依存し歩くことが少なくなった。だから病気になる、もっと足腰を鍛えなければいけない。子供のころは毎朝学校に徒歩通学、足腰は嫌でも鍛えられた。学校に通うことで丈夫になる。
ひょろひょろのクニオさんも、酒場ドリアンで梅酒を飲んで酔っ払った。酒場に入り込んだのは国太タケシ、松の木精米店のヒロシ、クニオ、生駒タケヒサ、それと私に勝比古さんだ。クニオさんの兄貴のヒロシさんはお母さんに叱られたそうだ。子供の癖に大人の真似をして酒を飲んで、その上、クニオさんにまで飲ませてと、だから、もうドリアンには行かないと外人の子供の風貌のヒロシさんが言った。
でも、私はドリアンに毎晩いた。ここには文化があったからだ。ドリアンの店はカウンターだけ、が、奥に部屋があり、そこでは毎日マージャンが開かれていた。上馬には雀荘がなかったように思う。毎晩牌をかき混ぜる音がして、チーだのポンだの掛け声がかかった。卓は一つしかなく、負けた者が出て、待ち人がそこにはいる。頭をポマードで固めたアニイたちが卓の廻りに何人もいた。そこにギターがあり、アコーデオンもあった。時折、待ち人の客がギターをかき鳴らしていた。
壁には鳩時計があり鎖を引いてゼンマイを巻いた。毎、正時刻に鳩が飛び出すのが面白くて真剣に見たもんだ。
レコードでよく聞いたのは「上海帰りのリル」、日本国家が欧米の真似をして植民地を作り、多くの日本人を送りだした。そんな戦争の被害者がリルだった。そんなことは無論知らないが津村謙のベルベットボイスに痺れた。実にいい声で、これ以上の美声は後に黒人歌手のナット・キング・コールだけだった。
この津村謙は早死にした。富山県の産、江口夜詩(えぐちよし)に師事、昭和18年テイチクからデビューするも戦時中で不発、徴兵され昭和21年に再スタートするも不遇、それが昭和26年の「上海帰りのリル」で大ヒット、映画にもなり水島道太郎、香川京子、森茂久弥が出演するなか、津村も唄っている。この人は昭和36年、マージャンで遅く帰り、杉並区の自宅車庫の中で寝込み一酸化炭素中毒で死んだ。人生は何があるかわからないものだ。我々はそうした危険のなかをなんとかすり抜けて、今日を迎えたのだが、ああでもないこうでもないと不平と不満の中で棲息してやしまいか、もっと生きてることをありがたいと思うべき。
さて、こうした酒場ドリアンの雰囲気の中で毎晩を過ごしたから、差し詰めのんべいになったと思うでしょ、ところが酒とは無縁の生活をいまだに続けている。毎晩酒場に通っていて覚えたのが流行歌、「湯の町エレジー」、マージャンの順番の待ち人がギターを手にすると必ず弾いた。
この曲は東京産の近江俊郎が歌った。作曲は古賀政男、この曲は霧島昇用に用意されたが、古賀が近江を使った。近江の兄は大蔵映画(新東宝)を作った貢、近江は骨っぽいところがあり、武蔵野音楽学校で教授と対立し中退、タイヘイレコードを振り出しに方々転々、ポリドールで幾つもヒット、ところが酒席で社長と喧嘩して、飛び出し古賀を拝み倒して門下生となる。昭和21年に「悲しき竹笛」で奈良光枝とデユエットしヒット、翌年、昔の仲間米山正夫がシベリアから復員。抑留中に作曲した「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。
そして近江が昭和23年に大ヒットさせたのが、「湯の町エレジー」全国津々浦々まで響いた。そして、上馬の酒場ドリアンの隠れ雀荘で、ポマード兄いがさかんに奏でるほど。近江は73歳で没。
松の木精米店の横丁、和泉屋パン屋の間にリヤカーを何台も並べていた。昔は米をリヤカーで配達した。自転車で引っ張るのだから、それは大変な力がいる。昔は糖尿病などかかる者がいない。朝から晩まで人力で頑張るから栄養を蓄積するひまがなかった。昨今は自動車の普及率と糖尿病患者の増加率の曲線が等しい。それだけ、内燃機関に依存し歩くことが少なくなった。だから病気になる、もっと足腰を鍛えなければいけない。子供のころは毎朝学校に徒歩通学、足腰は嫌でも鍛えられた。学校に通うことで丈夫になる。
ひょろひょろのクニオさんも、酒場ドリアンで梅酒を飲んで酔っ払った。酒場に入り込んだのは国太タケシ、松の木精米店のヒロシ、クニオ、生駒タケヒサ、それと私に勝比古さんだ。クニオさんの兄貴のヒロシさんはお母さんに叱られたそうだ。子供の癖に大人の真似をして酒を飲んで、その上、クニオさんにまで飲ませてと、だから、もうドリアンには行かないと外人の子供の風貌のヒロシさんが言った。
でも、私はドリアンに毎晩いた。ここには文化があったからだ。ドリアンの店はカウンターだけ、が、奥に部屋があり、そこでは毎日マージャンが開かれていた。上馬には雀荘がなかったように思う。毎晩牌をかき混ぜる音がして、チーだのポンだの掛け声がかかった。卓は一つしかなく、負けた者が出て、待ち人がそこにはいる。頭をポマードで固めたアニイたちが卓の廻りに何人もいた。そこにギターがあり、アコーデオンもあった。時折、待ち人の客がギターをかき鳴らしていた。
壁には鳩時計があり鎖を引いてゼンマイを巻いた。毎、正時刻に鳩が飛び出すのが面白くて真剣に見たもんだ。
レコードでよく聞いたのは「上海帰りのリル」、日本国家が欧米の真似をして植民地を作り、多くの日本人を送りだした。そんな戦争の被害者がリルだった。そんなことは無論知らないが津村謙のベルベットボイスに痺れた。実にいい声で、これ以上の美声は後に黒人歌手のナット・キング・コールだけだった。
この津村謙は早死にした。富山県の産、江口夜詩(えぐちよし)に師事、昭和18年テイチクからデビューするも戦時中で不発、徴兵され昭和21年に再スタートするも不遇、それが昭和26年の「上海帰りのリル」で大ヒット、映画にもなり水島道太郎、香川京子、森茂久弥が出演するなか、津村も唄っている。この人は昭和36年、マージャンで遅く帰り、杉並区の自宅車庫の中で寝込み一酸化炭素中毒で死んだ。人生は何があるかわからないものだ。我々はそうした危険のなかをなんとかすり抜けて、今日を迎えたのだが、ああでもないこうでもないと不平と不満の中で棲息してやしまいか、もっと生きてることをありがたいと思うべき。
さて、こうした酒場ドリアンの雰囲気の中で毎晩を過ごしたから、差し詰めのんべいになったと思うでしょ、ところが酒とは無縁の生活をいまだに続けている。毎晩酒場に通っていて覚えたのが流行歌、「湯の町エレジー」、マージャンの順番の待ち人がギターを手にすると必ず弾いた。
この曲は東京産の近江俊郎が歌った。作曲は古賀政男、この曲は霧島昇用に用意されたが、古賀が近江を使った。近江の兄は大蔵映画(新東宝)を作った貢、近江は骨っぽいところがあり、武蔵野音楽学校で教授と対立し中退、タイヘイレコードを振り出しに方々転々、ポリドールで幾つもヒット、ところが酒席で社長と喧嘩して、飛び出し古賀を拝み倒して門下生となる。昭和21年に「悲しき竹笛」で奈良光枝とデユエットしヒット、翌年、昔の仲間米山正夫がシベリアから復員。抑留中に作曲した「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。
そして近江が昭和23年に大ヒットさせたのが、「湯の町エレジー」全国津々浦々まで響いた。そして、上馬の酒場ドリアンの隠れ雀荘で、ポマード兄いがさかんに奏でるほど。近江は73歳で没。
2011-04-21
上馬の思い出16
ドリアンは果物の名前、とても臭い食べ物だが根強いファンがいる。個性の強さに魅かれるのだろう。酒場ドリアンの勝比古さんの兄さんもなんとか比古と言った。海幸・山幸の海彦・山彦も本当の名は比古だそうだ。男は昔は比古をつけたと吉田家は言う。
勝比古さんの母親は少々ならずくたびれた風情だった。どこか身体が悪かったのかもしれないが、大層言葉の綺麗な人だった。言葉は教養を表すから大事だ。でも、三茶近辺の悪ガキにはそんな洒落たのはいなかった。自分勝手に親が使う言葉をそのまま使った。私の祖母は新潟県長岡の出だった。高等女学校に行ったのが自慢で、時折、スコットランド民謡などを唄っていた。女学校で習ったんだと得意げだったが、女学校すら知らない悪ガキに、それを吹聴しなければならない境遇境涯だった。
祖母は長岡の資産家の娘だったそうだ。親戚もそう言っていたので、本当なのかもしれないが、私の家は貧乏神の御殿のようなもので、神様が居ついて離れなかった。なにしろ御殿で社だから、神様が住んでいて当然だった。世の中自体が戦後の混乱で、食うのが精一杯で、時折洩らす祖母の愚痴を聞いて、銀シャリの握り飯を運んだくらいだ。自分より人を喜ばせたいと本気で思っていた。今ではそんな気にはならない、他人に自分が食ったことのないものを貢ぐ気にはなれはしない。自分の胃袋に収めてしまう。それが本心なのだが、あの子供の時はどうしてそんな気になったのか、今でも不思議だが、そうした純真な心を子供は誰でも持つのかもしれない。
勝比古さんの母親も繕いものをしながらスコットランド民謡を歌っていた。昔は洗濯機などなかったから母親は洗濯物と戦っていたものだ。それを拡げたりたたんだり、そして破れ目、ほどけ目を繕っていた。そんな仕種がどこの家でも当たり前の光景だった。
勝比古さんの母親に、「おばさんも女学校に行ったの」と歌を聴いて訊いた。針仕事の手を止めて、「どうして判ったの」「だって、スコットランド民謡は女学校に行かなきゃ習わないでしょ」
おばさんの顔が西日が射したように紅潮した。「ええ、楽しかったわ、でも遠い昔になってしまった」と、針仕事の手を動かしながら涙ぐんでいるように見えた。悪いことを訊いたのかなと思った。そして、また、歌を細い声で唄いはじめた。人は悲しいとき、嬉しいときに歌を唄い気をまぎらせる。歌にそんな力があるのを知ったのは、それからずっと後、悪ガキが人生の落とし穴に落ちてからだった。
勝比古さんの母親は少々ならずくたびれた風情だった。どこか身体が悪かったのかもしれないが、大層言葉の綺麗な人だった。言葉は教養を表すから大事だ。でも、三茶近辺の悪ガキにはそんな洒落たのはいなかった。自分勝手に親が使う言葉をそのまま使った。私の祖母は新潟県長岡の出だった。高等女学校に行ったのが自慢で、時折、スコットランド民謡などを唄っていた。女学校で習ったんだと得意げだったが、女学校すら知らない悪ガキに、それを吹聴しなければならない境遇境涯だった。
祖母は長岡の資産家の娘だったそうだ。親戚もそう言っていたので、本当なのかもしれないが、私の家は貧乏神の御殿のようなもので、神様が居ついて離れなかった。なにしろ御殿で社だから、神様が住んでいて当然だった。世の中自体が戦後の混乱で、食うのが精一杯で、時折洩らす祖母の愚痴を聞いて、銀シャリの握り飯を運んだくらいだ。自分より人を喜ばせたいと本気で思っていた。今ではそんな気にはならない、他人に自分が食ったことのないものを貢ぐ気にはなれはしない。自分の胃袋に収めてしまう。それが本心なのだが、あの子供の時はどうしてそんな気になったのか、今でも不思議だが、そうした純真な心を子供は誰でも持つのかもしれない。
勝比古さんの母親も繕いものをしながらスコットランド民謡を歌っていた。昔は洗濯機などなかったから母親は洗濯物と戦っていたものだ。それを拡げたりたたんだり、そして破れ目、ほどけ目を繕っていた。そんな仕種がどこの家でも当たり前の光景だった。
勝比古さんの母親に、「おばさんも女学校に行ったの」と歌を聴いて訊いた。針仕事の手を止めて、「どうして判ったの」「だって、スコットランド民謡は女学校に行かなきゃ習わないでしょ」
おばさんの顔が西日が射したように紅潮した。「ええ、楽しかったわ、でも遠い昔になってしまった」と、針仕事の手を動かしながら涙ぐんでいるように見えた。悪いことを訊いたのかなと思った。そして、また、歌を細い声で唄いはじめた。人は悲しいとき、嬉しいときに歌を唄い気をまぎらせる。歌にそんな力があるのを知ったのは、それからずっと後、悪ガキが人生の落とし穴に落ちてからだった。
2011-04-20
上馬の思い出15
生駒さんの裏に原っぱがあり、そこで三角ベースの野球をやって遊んだ。テニスボールを手で打って走るだけの遊びだが、いっぱし野球をしているつもりだった。その土地は小島屋のものだったようで、ある日売られてしまった。我々のグランド、それを凸凹グランドと呼んだが無くなってしまった。その後、高野という人が家を建てて住んでいた。
まだ、その凸凹グランドがあるころ、斜め前に増田という病院勤務医が開業した。耳鼻科だったと思うが、その医師が薬ビンを荒縄で縛って持ち込んできた。その医師が新築中の家の裏手にそれがあるのを、国太さんのタケシさんが見つけて、工事現場の板にそれを並べパチンコでそれを射的だ。西部劇の真似だ、なかなかあたるもんじゃない。毎日、それをやっていたら、ある日、その医師に見つかりトンカチを持って我々悪ガキを追い回した。
無論、捕まるようなドジはいるはずもなく、蜘蛛の子を散らすがごとくにトンズラをきめこんだ。そして改正道路に医師の似顔絵を書いて、トンカチを持って追いかける図を大書、また、マンガの巧い子がいた。
玉電の電車通りの向こう側、駒中の同期生、千田さんの家のも少し上馬停留所寄りにドリアンという酒場があった。ここは吉田という人が経営していた。その下の息子に勝比古(かつひこ)というのがいて、この子が抜群にマンガが上手だった。少年という雑誌が光文社から発刊されていて、その中に手塚治虫が「鉄腕アトム」を連載しだした。昭和27年のことだ。我々が三年生になった時で、この勝比古さんが子供とは思えないマンガを描いた。
手塚そっくりの線を描き、ことにランプという登場人物などは手塚より巧かった。こうした才能を持った人物が登場するから、後世おそるべしの言葉がある。改正道路にローセキで描くマンガも大人が足を止めるほど。
将来はマンガ家になりたいと言っていた。ところが人生はどう展開するかがわからない所で、この子がマンガ家になったかどうかは判らない。というのも私が引っ越したのもあるが、家族が瓦解してしまったからだ。
それは、少しく後年の話で、そのころは至極平和な家庭だった。母親がドリアンという酒場を経営していたが、カウンターしかない小さな店だった。そこに日中入り込み、西部劇のバーのように、カウンターにウイスキーグラスを滑らせて送るが、なかなか目の前にピタリとは止らない。蓄音機を廻してレコードをかけた。「津村謙の上海帰りのリル」、この作曲家が後に「お富さん」を作った渡久地政信、無論、その当時はそんなことは知らないが、この曲は大流行した、何枚もレコードをかけているうちに、酒を飲もうと言い出し、棚にあった梅酒をウイスキーグラスで飲んだ。皆、顔を赤くして電車通りを渡り、上馬メトロの前で歩けなくなった。酒が足にきたのだ。
皆、赤い顔をしてふうふう言っていると、近所のオバサンが来て、「あら、このこらお酒飲んで赤い顔してるよ、しょうがないねえ」と嘆いた。そんなことはどうでもいい、ともかく空がぐるぐる回って何だかしらないけど楽しかった。大人はこんなことをして毎日遊んでいるんだなと思うと、早く大人になりたいと心底思ったもんだ。
まだ、その凸凹グランドがあるころ、斜め前に増田という病院勤務医が開業した。耳鼻科だったと思うが、その医師が薬ビンを荒縄で縛って持ち込んできた。その医師が新築中の家の裏手にそれがあるのを、国太さんのタケシさんが見つけて、工事現場の板にそれを並べパチンコでそれを射的だ。西部劇の真似だ、なかなかあたるもんじゃない。毎日、それをやっていたら、ある日、その医師に見つかりトンカチを持って我々悪ガキを追い回した。
無論、捕まるようなドジはいるはずもなく、蜘蛛の子を散らすがごとくにトンズラをきめこんだ。そして改正道路に医師の似顔絵を書いて、トンカチを持って追いかける図を大書、また、マンガの巧い子がいた。
玉電の電車通りの向こう側、駒中の同期生、千田さんの家のも少し上馬停留所寄りにドリアンという酒場があった。ここは吉田という人が経営していた。その下の息子に勝比古(かつひこ)というのがいて、この子が抜群にマンガが上手だった。少年という雑誌が光文社から発刊されていて、その中に手塚治虫が「鉄腕アトム」を連載しだした。昭和27年のことだ。我々が三年生になった時で、この勝比古さんが子供とは思えないマンガを描いた。
手塚そっくりの線を描き、ことにランプという登場人物などは手塚より巧かった。こうした才能を持った人物が登場するから、後世おそるべしの言葉がある。改正道路にローセキで描くマンガも大人が足を止めるほど。
将来はマンガ家になりたいと言っていた。ところが人生はどう展開するかがわからない所で、この子がマンガ家になったかどうかは判らない。というのも私が引っ越したのもあるが、家族が瓦解してしまったからだ。
それは、少しく後年の話で、そのころは至極平和な家庭だった。母親がドリアンという酒場を経営していたが、カウンターしかない小さな店だった。そこに日中入り込み、西部劇のバーのように、カウンターにウイスキーグラスを滑らせて送るが、なかなか目の前にピタリとは止らない。蓄音機を廻してレコードをかけた。「津村謙の上海帰りのリル」、この作曲家が後に「お富さん」を作った渡久地政信、無論、その当時はそんなことは知らないが、この曲は大流行した、何枚もレコードをかけているうちに、酒を飲もうと言い出し、棚にあった梅酒をウイスキーグラスで飲んだ。皆、顔を赤くして電車通りを渡り、上馬メトロの前で歩けなくなった。酒が足にきたのだ。
皆、赤い顔をしてふうふう言っていると、近所のオバサンが来て、「あら、このこらお酒飲んで赤い顔してるよ、しょうがないねえ」と嘆いた。そんなことはどうでもいい、ともかく空がぐるぐる回って何だかしらないけど楽しかった。大人はこんなことをして毎日遊んでいるんだなと思うと、早く大人になりたいと心底思ったもんだ。
2011-04-19
上馬の思い出14
駒留神社の鳥居は大きかった。見あげるような高さで立派だったが、この中のご神体は石だと知ってがっかりした。後年、釈迦の舎利を分骨して方々に塔を建てたが、その分骨はルビーだったと知った時、駒留神社もそれに則ったものだと悟った。先人の智恵は確かなものだった。駒留神社のお祭りは十月の十四、十五だったか、まだ東京は暖かくランニングシャツでお神輿を担いだ。悪ガキが担ぎ賃の握り飯欲しさに、神輿の担ぎ棒にしがみついた。飯は銀シャリだった。普段家では麦の入った飯しか食えなかった。
改正道路の谷の所に駒留神社はあったが、その近くの三角に道路が弦巻と駒中に分れるところに修理工場があり、そこが神輿の置き場になり宮元と書かれてあった。半紙に近所の有志が寄付をしたのが張り出されてあり、それにハーレーの辻井さんの名があった。
小学校に入る前、昭和24年のことで、食糧事情が悪く、改正道路に上馬駅から生駒さんの家の前まで俵に入ったさつま芋が山積みにされた。配給と言って食糧は米屋に行くと配られた。ともかく毎日腹がへっていて、そのさつま芋の俵に手を突っ込み中の芋を何本か失敬して熱海湯の前で食った。まだ、熱海湯は爆弾で破壊されたままだった。
アメリカが風呂屋を工場と間違えて爆弾を落としたのだ。駒中の近くに高射砲陣地があった。そこも見に行ったことがあったが、高射砲は取り払われてタダの原っぱだった。
さつま芋を失敬して生で食っていたが、美味くはなかった。食いきれないで家に持ち帰ったら、盗むんじゃないとしかられたが、茹でて食べたら美味かった。何でも茹でなきゃダメだと知った。
その歳の十月の駒留神社のお祭りに宮元まで神輿を担ぎに行った。近所の誰かが銀シャリが出ると言ったからだ。担ぎながら酒屋の前にくると、「酒屋のケチンボ、塩まいておくれ
と怒鳴った。その怒鳴るのが痛快だった。世話役の大人たちは酒屋の主人に詫びていた。
町内を一回りすると臨時社務所の神輿置き場で担ぎ賃の握り飯が出た。やっぱり銀シャリだった。
松の木精米店のヒロシさんが「やっぱり銀シャリだ」と言いながら食べていた。私はそれを持って家に走って帰った。祖母が「嫌な時代だね、銀シャリが食べられないご時世は情けないと言っていたからだ。息せき切って家に戻り、祖母に銀シャリを差し出した。
「おばあちゃん食べなよ、今神輿を担いでもらったんだ、銀シャリだよ」
差し出すと涙を流しながら、「いいよ、お前がお食べ」と横を向いて袖で涙をぬぐった。
「せっかく持ってきたんだから、おばあさん食べてよ」
そう言葉をつなぐと、「ありがとう」といって唇をにぎりめしにつけて、「あとはお前がお食べ」と言った。面白くなかった。外に出て改正道路の縁石に腰を下ろしてにぎりめしを食べた。美味くなかった、年歯もいかぬ子供から、そうされれば今の私たちでも同じようにしただろう。でも、その時は面白くなかった。空は抜けるように青く、そして高かった。
改正道路の谷の所に駒留神社はあったが、その近くの三角に道路が弦巻と駒中に分れるところに修理工場があり、そこが神輿の置き場になり宮元と書かれてあった。半紙に近所の有志が寄付をしたのが張り出されてあり、それにハーレーの辻井さんの名があった。
小学校に入る前、昭和24年のことで、食糧事情が悪く、改正道路に上馬駅から生駒さんの家の前まで俵に入ったさつま芋が山積みにされた。配給と言って食糧は米屋に行くと配られた。ともかく毎日腹がへっていて、そのさつま芋の俵に手を突っ込み中の芋を何本か失敬して熱海湯の前で食った。まだ、熱海湯は爆弾で破壊されたままだった。
アメリカが風呂屋を工場と間違えて爆弾を落としたのだ。駒中の近くに高射砲陣地があった。そこも見に行ったことがあったが、高射砲は取り払われてタダの原っぱだった。
さつま芋を失敬して生で食っていたが、美味くはなかった。食いきれないで家に持ち帰ったら、盗むんじゃないとしかられたが、茹でて食べたら美味かった。何でも茹でなきゃダメだと知った。
その歳の十月の駒留神社のお祭りに宮元まで神輿を担ぎに行った。近所の誰かが銀シャリが出ると言ったからだ。担ぎながら酒屋の前にくると、「酒屋のケチンボ、塩まいておくれ
と怒鳴った。その怒鳴るのが痛快だった。世話役の大人たちは酒屋の主人に詫びていた。
町内を一回りすると臨時社務所の神輿置き場で担ぎ賃の握り飯が出た。やっぱり銀シャリだった。
松の木精米店のヒロシさんが「やっぱり銀シャリだ」と言いながら食べていた。私はそれを持って家に走って帰った。祖母が「嫌な時代だね、銀シャリが食べられないご時世は情けないと言っていたからだ。息せき切って家に戻り、祖母に銀シャリを差し出した。
「おばあちゃん食べなよ、今神輿を担いでもらったんだ、銀シャリだよ」
差し出すと涙を流しながら、「いいよ、お前がお食べ」と横を向いて袖で涙をぬぐった。
「せっかく持ってきたんだから、おばあさん食べてよ」
そう言葉をつなぐと、「ありがとう」といって唇をにぎりめしにつけて、「あとはお前がお食べ」と言った。面白くなかった。外に出て改正道路の縁石に腰を下ろしてにぎりめしを食べた。美味くなかった、年歯もいかぬ子供から、そうされれば今の私たちでも同じようにしただろう。でも、その時は面白くなかった。空は抜けるように青く、そして高かった。
2011-04-18
上馬の思い出13
改正道路を若林の方にだらだらとバケツを持って降りていくと、丁度谷になったところに蛇崩川があった。駒留神社の手前にあたる。両岸は土で川幅もかなりあるように思えたが、今行ってみると狭いので驚く。もっとも今は暗渠になっているので、往時の面影は全くない。ここにバケツを持って流れに入り込み、土手の川面近くの穴に手をつっこむとアメリカザリガニが両手のはさみを拡げて威嚇してくるが、遠慮も会釈もなく、どんどんバケツに突っ込む。日本ザリガニは小さく、こいつらに脅かされて小さくなっていた。丁度進駐軍に追いまくられた日本人のようなものだ。
アーチャンはその大きなアメリカザリガニを選んでとって、家に持ち帰って煮て食った。海老と同じ味だったという。あんな美味いものがタダで山ほどとれたんだから、いい時代だったよとしみじみ。
私は日本ザリガニをとって洗面器で飼っていた。えさになにをするかで困ったが煮干を砕いてやった。暫くすると赤ん坊のエビガニが沢山出てきた。ちっこくって可愛かった。少し大きくなって、駒留神社の前にひょうたんのような池があり、そこに放した。大きくなったらまた遊ぼうと小さな声で言った。
アメリカザリガニは赤くて大きく、その中でも特に大きいのをマッカチと呼んだ。アーチャンも同じようにマッカチと言っていたから、皆がそう言っていたのかもしれない。マッカチは偉そうに大きなはさみを振上げる。持ち上げて腹を見ると、尻尾の内側に丸い玉があり、それをマッカチのちんぼこだと言う。それを押すと痛がるのか、余計にはさみを振上げた。面白くて何度もやったが、やられたアメリカザリガニは困った小僧だと嘆いていたのかも知れない。
ひょうたん池には亀がいた。結構大きかった。大人の手のひらより大きかった。ある日をれをとって生駒さんの家に行ったら、神様の御使いだから返してやらなければいけないと、お酒を飲まして、また池に返してやった。昔の人は神様のいることを信じていたのだ。
でも、駒留神社に神様はいないのを知っていた。
毎日のように蛇崩川とひょうたん池をうろうろしているうちに、駒留神社の神主の子供と仲良しになった。なんでも、この神社のほかにも神社を守っていて、神主の父親は忙しいんだという。丁度その日は父親が帰ってくるのが遅い日だから、ご神体を拝ませてやるという。喜んで社殿にあがり、奥のほうに連れてってもらった。階段の奥に三方に乗った白木の箱があり、その蓋を開けた。覗き込んだが、子供のげんこ程の大きさの石が入っているだけだった。がっかりした。あんなもののためにわに口を鳴らして拍手を打ったのかと思うと急に馬鹿らしくなった。神主の子供は偉そうに、「いいものを見ただろう」と言ったので、「うん」とだけ応えて家に急いで帰り、祖母にご神体は石だぞと告げたら、「そういうことは言うもんじゃない」と叱られた。「でも、馬鹿馬鹿しいだろ、あんなものを拝むなんて」と更に足すと、「皆知ってるんだよ、でも、神様は皆の一人ひとりの心のなかにあるもんで、ご神体が石だろうと木だろうと、何でもいいんだよ、信ずる力のある人にとって、形はなんでもいいもんだ」それでも納得できなかった。大人は馬鹿だと思ったが、この歳になってそれが判るようになった。
アーチャンはその大きなアメリカザリガニを選んでとって、家に持ち帰って煮て食った。海老と同じ味だったという。あんな美味いものがタダで山ほどとれたんだから、いい時代だったよとしみじみ。
私は日本ザリガニをとって洗面器で飼っていた。えさになにをするかで困ったが煮干を砕いてやった。暫くすると赤ん坊のエビガニが沢山出てきた。ちっこくって可愛かった。少し大きくなって、駒留神社の前にひょうたんのような池があり、そこに放した。大きくなったらまた遊ぼうと小さな声で言った。
アメリカザリガニは赤くて大きく、その中でも特に大きいのをマッカチと呼んだ。アーチャンも同じようにマッカチと言っていたから、皆がそう言っていたのかもしれない。マッカチは偉そうに大きなはさみを振上げる。持ち上げて腹を見ると、尻尾の内側に丸い玉があり、それをマッカチのちんぼこだと言う。それを押すと痛がるのか、余計にはさみを振上げた。面白くて何度もやったが、やられたアメリカザリガニは困った小僧だと嘆いていたのかも知れない。
ひょうたん池には亀がいた。結構大きかった。大人の手のひらより大きかった。ある日をれをとって生駒さんの家に行ったら、神様の御使いだから返してやらなければいけないと、お酒を飲まして、また池に返してやった。昔の人は神様のいることを信じていたのだ。
でも、駒留神社に神様はいないのを知っていた。
毎日のように蛇崩川とひょうたん池をうろうろしているうちに、駒留神社の神主の子供と仲良しになった。なんでも、この神社のほかにも神社を守っていて、神主の父親は忙しいんだという。丁度その日は父親が帰ってくるのが遅い日だから、ご神体を拝ませてやるという。喜んで社殿にあがり、奥のほうに連れてってもらった。階段の奥に三方に乗った白木の箱があり、その蓋を開けた。覗き込んだが、子供のげんこ程の大きさの石が入っているだけだった。がっかりした。あんなもののためにわに口を鳴らして拍手を打ったのかと思うと急に馬鹿らしくなった。神主の子供は偉そうに、「いいものを見ただろう」と言ったので、「うん」とだけ応えて家に急いで帰り、祖母にご神体は石だぞと告げたら、「そういうことは言うもんじゃない」と叱られた。「でも、馬鹿馬鹿しいだろ、あんなものを拝むなんて」と更に足すと、「皆知ってるんだよ、でも、神様は皆の一人ひとりの心のなかにあるもんで、ご神体が石だろうと木だろうと、何でもいいんだよ、信ずる力のある人にとって、形はなんでもいいもんだ」それでも納得できなかった。大人は馬鹿だと思ったが、この歳になってそれが判るようになった。
2011-04-11
上馬の思い出12


昔、遠山の金さんてのがいて、大岡越前守忠相と向こうを張り合う、金さんは北町奉行、大岡は南町、一月ごとに交替で奉行所を開いた。今のように方々に警察署はなく、民事も刑事も裁いたから忙しい。質屋の数はそばやの数ほどあった。大質屋と小質屋があって、小質屋は近所の品を扱う、必ず質入人に保証人を立てる。小質屋は蔵なんかなくて、質入された品物を持って大質屋に入れに行く。大質屋は小質屋に金を貸し、蔵に荷を入れる。他人様の物を預かるから蔵は頑丈に出来ていて、防火対策も講じてある。大質屋は小質屋を子分にしていると思えば判りやすい。
そんな時代に腕に桜のほりものをしたのが遠山の金さん。本当は桜吹雪じゃない。腕に一つだけ桜を彫った。ところが侍でそんなヤクザなことをする者はいないから大げさに取り沙汰され、テレビでもろ肌脱いでの大見得となるが、あれは嘘。
遠山の金さんと同じように、世田谷にも金さんがいた。
上馬の駅から改正道路を若林に向かい中野さんの家を過ぎると左側に辻井金三郎商店があった。この人が辻金、泣く子も黙るほど、それは少し違うんだけど、警察官が交通事故の処理に困ると頭を下げて教えを請いにきた。交通事件の示談屋? ちがう、保険屋? ちがう、ここは水道工事の店でいつもハーレー・ダビッドソンがとまっていた。ハーレーのバイクは格好が良く、誰彼の別なくそれを眺めたもんだ。昭和二十五年ごろのオートバイは外車しかない。国産だとメグロ、陸王などがあったが、やはり外車は格好が良かった。三共製薬が当初、ハーレーダビッドソンから許可を得て日本国内のみ製造販売、これは戦前も昭和9年の話で、このハーレーをもとにして陸軍にサイドカー付きのバイクを納入したのが陸王。当初は750CCだった。
メグロは品川区桐ヶ谷火葬場の近くで昭和25年に250ccのバイクを生産。当然ハーレーの人気が高いが関税が高く目の玉が飛び出るほどの値段。ところが、この辻金さんはそれを所有しておられた。仲間の愛好家が時に何十台もハーレーを辻金さんの前に並べ、ツーリングに出かける。
中野さんの話ではハーレー愛好会の会長をしておられて、交通法規や事故などのことに精通、だから警察官が頼りにした。さらに、この人は腕相撲のチャンピオン、腕に荒縄を巻いて力を入れるとブツリと切れる。うーん、物凄い腕の力だ。まるで日本版スターローンだ。皆が一目も二目も置いた人。こうした人だけに商売も順調、店を方々に広げられた。我々悪ガキが知っているのはここまで、私たちより年上だけに亡くなったことだろうが会社は今でも大きいままで盛業中。
遠山の金さんのほりものの話は生駒さんから教えてもらった。刺青とは言わない、刺青は島送りの人間や牢屋に入れられた人が腕にした。背中のくりからもんもんは彫り物と言った。倶利伽羅もんもんは雲の沸き立つところというアイヌ語。これは自分で勉強したから間違いない。
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