三茶小で原田君が横山先生に廊下に立たされたとき、脱走をした話を記したが、これも立派な解決方法、人生は所詮、自分の気に入るようなものではなく、嫌だなと思うような方向に連れていかれるようなもの、まるで、子供の時に他所の家で食事に招かれたとき、嫌いな物が出る、嫌だから先に何とか口に押し込み、好きな順に食べ始めると、最初に食べた嫌いな物を皿に山盛りで出されたようなもの、余りおいしそうに食べているので、サア、どうぞで、泣きたくなるようなことだらけが人生だ。
そうしたとき、う・に・しの順が待ち受けるもんだ。先頭のうは嘘、追及されると誰でも嘘をいう、次が厳しく問い詰められると逃げる、最後のしは死だ。インドの諺にこんなのがある、立っているより座っているほうが楽だ、座っているより寝ているほうが楽だ、寝ているより死んだほうが楽だというけど本当か? 一度死んで戻ってきた奴がいないから、本当かどうかはわからない。
さて、上馬にメイド・イン・タモツって中学生がいた。学校に行きたくなくて、カバンを持って駒留神社の脇の公園や池の周りをウロウロしていた。私が小学校に入る前だった。生駒さんの隣の家が大平キエちゃんの家、この人は同級生だった。弟が二人いて、下の子はおかあさんにおぶさっていた。上の弟はシンチャンと言って、三歳か四歳だったろう、私のあとについて駒留公園のブランコで遊んでいると、メイド・イン・タモツが近づいてきて、「弁当を食わせてやる」という。喜んでシンチャンと一緒に駒留神社の木陰で弁当を食べた。また明日も来いヨ、弁当を食わせてやるからと言われ、翌日も食わせてもらった。おかずが少ししかなく、四角い弁当箱に飯がぎっしり詰め込まれていた。まだ、ほんのり温かかった。メイド・イン・タモツは原田君と同じように、学校に行くのを拒否して、公園でブラブラしていたのだ。
登校拒否のはしりかも知れない。試験がなければ学校ほど面白いところはないと思うが、学校が苦手だったのだろう。毎日弁当を食わせてもらっていると、メイド・イン・タモツがお前たち、オレの子分になれという。コブは食ったことあるけど美味くないというと、コブじゃない子分だ、オレが親分でお前たちは子分だという。何だかわからないけどウンというと、一宿一飯が仁義だから、お前たちは親分の言うことをきかなきゃいけないという、三宿は玉電の駅で三軒茶屋の先だけど、一宿はしらなかった。
お前たちと親分子分の盃を交わすから、あさって、オレの家に来いといわれた。メイド・イン・タモツの家は中野義高さんの斜め前の方にある。つまり、辻井水道工事屋さんの上馬駅よりだ。その家はパチンコの台を作っていたように思う。メイド・イン・タモツが公園で遊んでいる私とシンチャンを連れてタモツの家に行くと、小学校へ入る前の洟垂れが何人か並んでいた。家人は留守のようで、その留守を見計らって洟垂れを集めたようだった。六畳ほどの部屋の畳に座布団が敷かれ、上座にメイド・イン・タモツが座り、座布団の前におちょこが揃えてあった。タモツがそれを手にしろと告げて、そのおちょこにザラメを入れて廻った。タモツが入れて歩いている間に、それを舐めてしまった。皆、盃に酒が入ったなとタモツが言ったので、もう舐めたと私がいうと、しょうがない奴だと舌打ちしながら、もう一杯くれた。そして、揃いました、それでは固めの盃ですと言ってタモツが舐めて、皆も舐めた。舐め終わったのでさっさと帰ってきた。
「しょうがねえな、ザラメを舐めたら帰るのかよ」というので、お菓子はないんでしょと訊いてやった。ねえ、と答えたので帰る足が急に速くなった。
ある、雨が降りそうな日だった。丁度今頃の季節だったか、親分のメイド・イン・タモツが公園で子分の私とシンチャンに飯を食わせると、これからシマに行くと言い出した。シマって縦か横かと訊いたら、着物の柄じゃねえって力んでいた。メイド・イン・タモツのシマは三茶だという、ヤクザもんの話をどこかで仕込んできて、それを真似して、自分がメイド・イン・タモツ一家の大親分だと力んでいたのだろう。タモツは小柄だった。先頭に親分が歩いて、その後に私がヨタヨタ、シンチャンはヨチヨチ歩いていた。
何処をどう歩いたのか、三茶の裏にバクダンアラレを作っているところがあり、そこいら一帯は焼け跡のような感じで、屋台のリヤカーが何台も並んでいた。愚図っていた空がにわかに泣き出して、我々は屋台のリヤカーに潜り込んだ。板が敷いてありそこに大きな穴が空いていた。ラーメン屋台でもあったのか、釜をそこに嵌めこんだのだろうか、メイド・イン・タモツと私はその下にいて、シンチャンは上にいた。何を思ったのかメイド・イン・タモツがシンチャンにストリップをしろと命じて、私に歌を唄えという。勝比古さんのドリアンで覚えた青いカナリア、これもダイナショアの歌だ、これを唄うと、曲に合わせて一枚づつ服を脱げと三歳の男の子のシンチャンに言う。メイド・イン・タモツはどこでそんなことを覚えてきたのだろう。身体は小柄でもチンチンに毛でも生え初めていたのだろうか。続
2011-04-24
2011-04-23
上馬の思い出18
酒場ドリアンには多くの客が来た。その中に来須野君の二階に下宿していた金子という玉電の運転手もいた。ドリアンではネコと呼ばれていた。指が太くてマージャン牌が小さく見えた。アルシャルマージャンだといっていた。これはマージャンの原点のようなもので、リーチマージャンとは違っているそうだ。毎晩飽きもせずにマージャンの客がきて、そのうち来なくなる。その人は借金が嵩んだためで、その借金は雀荘の主人、つまり、ドリアンが立て替えた。そのため、借金取りの仕事が勝比古さんい割り振られた。小学校へ入ったばかりの子供が借金取りに来るのだから、来られるほうはたまらない。なにがしかの金を握らせることになる。うまいやりかたに見えるが苦肉の策だったのだろう。もともと博打の金、請求できる筋合いでもないが、雀荘がほかになければ何とか都合しなければならない。勝比古さんも行き難いものだから私をさそった。行くと塩でもまかれそうな雰囲気のところもあった。それでもいつも一緒について回った。今でも借金取りに行った場所を夢に見る。博打の負けた金を払うのは嫌だっただろう。
博打は賭博と言う。賭博は博技と賭技に分かれる、博技は花札、マージャン、トランプなど自分が本気になってやる技、賭技は自分はしない、つまり競輪、競馬など自分は馬や自転車に乗って本気になって走るのではない。走る選手の一番、二番を当てるものを指す。両方一緒にして賭博行為という。床屋の国太の親爺がやっていたチンチロリンは博技で、国が博打を禁止したので違法行為になるが、ヤクザという商売があり、昔はこれで渡世していた人種がいた。彼等は賭場を開いて、そのカスリ、つまり掛け金の中から一定割合を開催料としてハネて残りを当てた人に分配する。一回ごとに計算をするため、相当に数字に強くないと勤まらないが、大学なんて行かない人がこれをやる。普段はぼんやりしているように見えても、博打場に入るといきなり顔つきが変わるような人もいた。神経が足の先から頭の先まで稲光しているような面構えになる。それでいて、普段は買い物してても釣銭を貰うのを忘れたりする。妙なものだ。
ヤクザの仕事を国が法律で奪い、自分たちが競輪場や競馬場を経営、宝くじも禁止しながら特定の銀行にさせる。矛盾だらけだが現実だ。こうした許認可には必ず裏があり、目こぼし料としてヤクザならぬ警官がカスリを取る。悪いことを助長するようなところが警察にはあり、どうも世の中は一筋縄ではいかない。時代が変り、子供のあそびだったパチンコが朝鮮人たちの手で遊戯となり堂々とパチンコ屋が乱立するようになり、これまた警察が介入し、警察とパチンコ屋の癒着を見る。さらに、パチスロなるものまで登場し、賭博行為はエスカレート、こうした賭博行為の横行の裏でヤクザ、正確に言えば博徒が生活の基盤を失った。ヤクザには二種類あり博徒と香具師、これはテキヤとも呼ばれタカマチで物を販売する。つまり行商人、タカマチと言うのは市で、全国の市日のカレンダーを売っているところもある。世田谷のボロ市なども大きなタカマチだ。
勝比古さんのモグリ雀荘もそれなりの面倒な借金取立ての作業があった。それでも客は入れ替わりながらも来て繁盛していた。そのマージャンの部屋にはガラスの箱に入れられた蛇がとぐろを巻いていた。青大将だという。それを勝比古さんは平気な顔で触っていたが、とても気持ちが悪くてさわれなかった。ある日、それが逃げ出して騒ぎになったが、二、三日したら、腹を大きくして台所のところで動かないのを見つけた。ネズミでも食ったのだろうと、吉田家は平気な顔、商売の神様だと、時折お神酒を飲ませていた。
勝比古さんのお父さんは昔ボクシングの選手だったそうで、グラブをつけた写真が何枚もあった。プロの選手だったというが、寡黙な人でめったに笑い顔を見せなかった。目が小さくて細かったが、女房はその逆で大きな目の人だった。勝比古さんはお母さんに似て目が大きかったが姉二人は父親に似ていた。
ある晩、ドリアンの店で皿の割れる音がして、客が怒鳴っていた。ドアを開けて、おかあさんが、「お父さん交番に行ってきてください、お客さんが乱暴しているんです」と声をかけた。お父さんは小柄だったが、頑丈そうな身体を起こして、直ぐにでかけようとした。木戸を開けて出ようとするのに、「おじさん、やっつけちゃいなヨ」と声をかけたが、情けないような顔を作って、そのまま交番へと走って行った。
上馬メトロで見た西部劇のようにはいかないのだと、半分わかって半分、面白くなかった。だって、おじさんはボクシングの選手だったんだろ、それなのになんたることかと、世間知らずの小学生は思ったのだ。おじさんの走る影に、ラジオからバッテンボーの曲が流れた。これは腰抜け二丁拳銃でボブ・ホープが歌ったが、ラジオから流れるたのはダイナ・ショアの甘い声だった。ボブは喜劇俳優として有名だった。この人は長生きで百歳で死んだ。バッテンボーはボタンとボウ(リボン)だ。が、こどもにはバッテンボーに聞こえた。ダイナも77まで生きた。
博打は賭博と言う。賭博は博技と賭技に分かれる、博技は花札、マージャン、トランプなど自分が本気になってやる技、賭技は自分はしない、つまり競輪、競馬など自分は馬や自転車に乗って本気になって走るのではない。走る選手の一番、二番を当てるものを指す。両方一緒にして賭博行為という。床屋の国太の親爺がやっていたチンチロリンは博技で、国が博打を禁止したので違法行為になるが、ヤクザという商売があり、昔はこれで渡世していた人種がいた。彼等は賭場を開いて、そのカスリ、つまり掛け金の中から一定割合を開催料としてハネて残りを当てた人に分配する。一回ごとに計算をするため、相当に数字に強くないと勤まらないが、大学なんて行かない人がこれをやる。普段はぼんやりしているように見えても、博打場に入るといきなり顔つきが変わるような人もいた。神経が足の先から頭の先まで稲光しているような面構えになる。それでいて、普段は買い物してても釣銭を貰うのを忘れたりする。妙なものだ。
ヤクザの仕事を国が法律で奪い、自分たちが競輪場や競馬場を経営、宝くじも禁止しながら特定の銀行にさせる。矛盾だらけだが現実だ。こうした許認可には必ず裏があり、目こぼし料としてヤクザならぬ警官がカスリを取る。悪いことを助長するようなところが警察にはあり、どうも世の中は一筋縄ではいかない。時代が変り、子供のあそびだったパチンコが朝鮮人たちの手で遊戯となり堂々とパチンコ屋が乱立するようになり、これまた警察が介入し、警察とパチンコ屋の癒着を見る。さらに、パチスロなるものまで登場し、賭博行為はエスカレート、こうした賭博行為の横行の裏でヤクザ、正確に言えば博徒が生活の基盤を失った。ヤクザには二種類あり博徒と香具師、これはテキヤとも呼ばれタカマチで物を販売する。つまり行商人、タカマチと言うのは市で、全国の市日のカレンダーを売っているところもある。世田谷のボロ市なども大きなタカマチだ。
勝比古さんのモグリ雀荘もそれなりの面倒な借金取立ての作業があった。それでも客は入れ替わりながらも来て繁盛していた。そのマージャンの部屋にはガラスの箱に入れられた蛇がとぐろを巻いていた。青大将だという。それを勝比古さんは平気な顔で触っていたが、とても気持ちが悪くてさわれなかった。ある日、それが逃げ出して騒ぎになったが、二、三日したら、腹を大きくして台所のところで動かないのを見つけた。ネズミでも食ったのだろうと、吉田家は平気な顔、商売の神様だと、時折お神酒を飲ませていた。
勝比古さんのお父さんは昔ボクシングの選手だったそうで、グラブをつけた写真が何枚もあった。プロの選手だったというが、寡黙な人でめったに笑い顔を見せなかった。目が小さくて細かったが、女房はその逆で大きな目の人だった。勝比古さんはお母さんに似て目が大きかったが姉二人は父親に似ていた。
ある晩、ドリアンの店で皿の割れる音がして、客が怒鳴っていた。ドアを開けて、おかあさんが、「お父さん交番に行ってきてください、お客さんが乱暴しているんです」と声をかけた。お父さんは小柄だったが、頑丈そうな身体を起こして、直ぐにでかけようとした。木戸を開けて出ようとするのに、「おじさん、やっつけちゃいなヨ」と声をかけたが、情けないような顔を作って、そのまま交番へと走って行った。
上馬メトロで見た西部劇のようにはいかないのだと、半分わかって半分、面白くなかった。だって、おじさんはボクシングの選手だったんだろ、それなのになんたることかと、世間知らずの小学生は思ったのだ。おじさんの走る影に、ラジオからバッテンボーの曲が流れた。これは腰抜け二丁拳銃でボブ・ホープが歌ったが、ラジオから流れるたのはダイナ・ショアの甘い声だった。ボブは喜劇俳優として有名だった。この人は長生きで百歳で死んだ。バッテンボーはボタンとボウ(リボン)だ。が、こどもにはバッテンボーに聞こえた。ダイナも77まで生きた。
2011-04-22
上馬の思い出17
酒場ドリアンは上馬の文化的象徴のように思えた。家にいても食うものもロクになかったので、方々の家に顔をだした。中でも松の木精米店では正月のお供えのデカイのを作るので、鏡開きが楽しみだった。自分の家のは小さく、ほんの申しわけ程度、ところが松の木精米店のはでかい、また、この家の人たちは食べ物が豊富だからそんなものを食べようともしない。が、鏡開きだけは祝うので、ひびの充分に入った大判のお供えを包丁や金槌で叩いたり割ったりと忙しい。そして、優しいお母さんがしるこを作ってくれた。松の木精米店のお母さんは品の良い人だった。末っ子のクニオさんを可愛がっていた。また、この子が実に子供こどもしていて愛らしかった。背がひょろひょろっとしていて、足が長く弱そうにみえたが、しっかりした子だった。
松の木精米店の横丁、和泉屋パン屋の間にリヤカーを何台も並べていた。昔は米をリヤカーで配達した。自転車で引っ張るのだから、それは大変な力がいる。昔は糖尿病などかかる者がいない。朝から晩まで人力で頑張るから栄養を蓄積するひまがなかった。昨今は自動車の普及率と糖尿病患者の増加率の曲線が等しい。それだけ、内燃機関に依存し歩くことが少なくなった。だから病気になる、もっと足腰を鍛えなければいけない。子供のころは毎朝学校に徒歩通学、足腰は嫌でも鍛えられた。学校に通うことで丈夫になる。
ひょろひょろのクニオさんも、酒場ドリアンで梅酒を飲んで酔っ払った。酒場に入り込んだのは国太タケシ、松の木精米店のヒロシ、クニオ、生駒タケヒサ、それと私に勝比古さんだ。クニオさんの兄貴のヒロシさんはお母さんに叱られたそうだ。子供の癖に大人の真似をして酒を飲んで、その上、クニオさんにまで飲ませてと、だから、もうドリアンには行かないと外人の子供の風貌のヒロシさんが言った。
でも、私はドリアンに毎晩いた。ここには文化があったからだ。ドリアンの店はカウンターだけ、が、奥に部屋があり、そこでは毎日マージャンが開かれていた。上馬には雀荘がなかったように思う。毎晩牌をかき混ぜる音がして、チーだのポンだの掛け声がかかった。卓は一つしかなく、負けた者が出て、待ち人がそこにはいる。頭をポマードで固めたアニイたちが卓の廻りに何人もいた。そこにギターがあり、アコーデオンもあった。時折、待ち人の客がギターをかき鳴らしていた。
壁には鳩時計があり鎖を引いてゼンマイを巻いた。毎、正時刻に鳩が飛び出すのが面白くて真剣に見たもんだ。
レコードでよく聞いたのは「上海帰りのリル」、日本国家が欧米の真似をして植民地を作り、多くの日本人を送りだした。そんな戦争の被害者がリルだった。そんなことは無論知らないが津村謙のベルベットボイスに痺れた。実にいい声で、これ以上の美声は後に黒人歌手のナット・キング・コールだけだった。
この津村謙は早死にした。富山県の産、江口夜詩(えぐちよし)に師事、昭和18年テイチクからデビューするも戦時中で不発、徴兵され昭和21年に再スタートするも不遇、それが昭和26年の「上海帰りのリル」で大ヒット、映画にもなり水島道太郎、香川京子、森茂久弥が出演するなか、津村も唄っている。この人は昭和36年、マージャンで遅く帰り、杉並区の自宅車庫の中で寝込み一酸化炭素中毒で死んだ。人生は何があるかわからないものだ。我々はそうした危険のなかをなんとかすり抜けて、今日を迎えたのだが、ああでもないこうでもないと不平と不満の中で棲息してやしまいか、もっと生きてることをありがたいと思うべき。
さて、こうした酒場ドリアンの雰囲気の中で毎晩を過ごしたから、差し詰めのんべいになったと思うでしょ、ところが酒とは無縁の生活をいまだに続けている。毎晩酒場に通っていて覚えたのが流行歌、「湯の町エレジー」、マージャンの順番の待ち人がギターを手にすると必ず弾いた。
この曲は東京産の近江俊郎が歌った。作曲は古賀政男、この曲は霧島昇用に用意されたが、古賀が近江を使った。近江の兄は大蔵映画(新東宝)を作った貢、近江は骨っぽいところがあり、武蔵野音楽学校で教授と対立し中退、タイヘイレコードを振り出しに方々転々、ポリドールで幾つもヒット、ところが酒席で社長と喧嘩して、飛び出し古賀を拝み倒して門下生となる。昭和21年に「悲しき竹笛」で奈良光枝とデユエットしヒット、翌年、昔の仲間米山正夫がシベリアから復員。抑留中に作曲した「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。
そして近江が昭和23年に大ヒットさせたのが、「湯の町エレジー」全国津々浦々まで響いた。そして、上馬の酒場ドリアンの隠れ雀荘で、ポマード兄いがさかんに奏でるほど。近江は73歳で没。
松の木精米店の横丁、和泉屋パン屋の間にリヤカーを何台も並べていた。昔は米をリヤカーで配達した。自転車で引っ張るのだから、それは大変な力がいる。昔は糖尿病などかかる者がいない。朝から晩まで人力で頑張るから栄養を蓄積するひまがなかった。昨今は自動車の普及率と糖尿病患者の増加率の曲線が等しい。それだけ、内燃機関に依存し歩くことが少なくなった。だから病気になる、もっと足腰を鍛えなければいけない。子供のころは毎朝学校に徒歩通学、足腰は嫌でも鍛えられた。学校に通うことで丈夫になる。
ひょろひょろのクニオさんも、酒場ドリアンで梅酒を飲んで酔っ払った。酒場に入り込んだのは国太タケシ、松の木精米店のヒロシ、クニオ、生駒タケヒサ、それと私に勝比古さんだ。クニオさんの兄貴のヒロシさんはお母さんに叱られたそうだ。子供の癖に大人の真似をして酒を飲んで、その上、クニオさんにまで飲ませてと、だから、もうドリアンには行かないと外人の子供の風貌のヒロシさんが言った。
でも、私はドリアンに毎晩いた。ここには文化があったからだ。ドリアンの店はカウンターだけ、が、奥に部屋があり、そこでは毎日マージャンが開かれていた。上馬には雀荘がなかったように思う。毎晩牌をかき混ぜる音がして、チーだのポンだの掛け声がかかった。卓は一つしかなく、負けた者が出て、待ち人がそこにはいる。頭をポマードで固めたアニイたちが卓の廻りに何人もいた。そこにギターがあり、アコーデオンもあった。時折、待ち人の客がギターをかき鳴らしていた。
壁には鳩時計があり鎖を引いてゼンマイを巻いた。毎、正時刻に鳩が飛び出すのが面白くて真剣に見たもんだ。
レコードでよく聞いたのは「上海帰りのリル」、日本国家が欧米の真似をして植民地を作り、多くの日本人を送りだした。そんな戦争の被害者がリルだった。そんなことは無論知らないが津村謙のベルベットボイスに痺れた。実にいい声で、これ以上の美声は後に黒人歌手のナット・キング・コールだけだった。
この津村謙は早死にした。富山県の産、江口夜詩(えぐちよし)に師事、昭和18年テイチクからデビューするも戦時中で不発、徴兵され昭和21年に再スタートするも不遇、それが昭和26年の「上海帰りのリル」で大ヒット、映画にもなり水島道太郎、香川京子、森茂久弥が出演するなか、津村も唄っている。この人は昭和36年、マージャンで遅く帰り、杉並区の自宅車庫の中で寝込み一酸化炭素中毒で死んだ。人生は何があるかわからないものだ。我々はそうした危険のなかをなんとかすり抜けて、今日を迎えたのだが、ああでもないこうでもないと不平と不満の中で棲息してやしまいか、もっと生きてることをありがたいと思うべき。
さて、こうした酒場ドリアンの雰囲気の中で毎晩を過ごしたから、差し詰めのんべいになったと思うでしょ、ところが酒とは無縁の生活をいまだに続けている。毎晩酒場に通っていて覚えたのが流行歌、「湯の町エレジー」、マージャンの順番の待ち人がギターを手にすると必ず弾いた。
この曲は東京産の近江俊郎が歌った。作曲は古賀政男、この曲は霧島昇用に用意されたが、古賀が近江を使った。近江の兄は大蔵映画(新東宝)を作った貢、近江は骨っぽいところがあり、武蔵野音楽学校で教授と対立し中退、タイヘイレコードを振り出しに方々転々、ポリドールで幾つもヒット、ところが酒席で社長と喧嘩して、飛び出し古賀を拝み倒して門下生となる。昭和21年に「悲しき竹笛」で奈良光枝とデユエットしヒット、翌年、昔の仲間米山正夫がシベリアから復員。抑留中に作曲した「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。
そして近江が昭和23年に大ヒットさせたのが、「湯の町エレジー」全国津々浦々まで響いた。そして、上馬の酒場ドリアンの隠れ雀荘で、ポマード兄いがさかんに奏でるほど。近江は73歳で没。
2011-04-21
上馬の思い出16
ドリアンは果物の名前、とても臭い食べ物だが根強いファンがいる。個性の強さに魅かれるのだろう。酒場ドリアンの勝比古さんの兄さんもなんとか比古と言った。海幸・山幸の海彦・山彦も本当の名は比古だそうだ。男は昔は比古をつけたと吉田家は言う。
勝比古さんの母親は少々ならずくたびれた風情だった。どこか身体が悪かったのかもしれないが、大層言葉の綺麗な人だった。言葉は教養を表すから大事だ。でも、三茶近辺の悪ガキにはそんな洒落たのはいなかった。自分勝手に親が使う言葉をそのまま使った。私の祖母は新潟県長岡の出だった。高等女学校に行ったのが自慢で、時折、スコットランド民謡などを唄っていた。女学校で習ったんだと得意げだったが、女学校すら知らない悪ガキに、それを吹聴しなければならない境遇境涯だった。
祖母は長岡の資産家の娘だったそうだ。親戚もそう言っていたので、本当なのかもしれないが、私の家は貧乏神の御殿のようなもので、神様が居ついて離れなかった。なにしろ御殿で社だから、神様が住んでいて当然だった。世の中自体が戦後の混乱で、食うのが精一杯で、時折洩らす祖母の愚痴を聞いて、銀シャリの握り飯を運んだくらいだ。自分より人を喜ばせたいと本気で思っていた。今ではそんな気にはならない、他人に自分が食ったことのないものを貢ぐ気にはなれはしない。自分の胃袋に収めてしまう。それが本心なのだが、あの子供の時はどうしてそんな気になったのか、今でも不思議だが、そうした純真な心を子供は誰でも持つのかもしれない。
勝比古さんの母親も繕いものをしながらスコットランド民謡を歌っていた。昔は洗濯機などなかったから母親は洗濯物と戦っていたものだ。それを拡げたりたたんだり、そして破れ目、ほどけ目を繕っていた。そんな仕種がどこの家でも当たり前の光景だった。
勝比古さんの母親に、「おばさんも女学校に行ったの」と歌を聴いて訊いた。針仕事の手を止めて、「どうして判ったの」「だって、スコットランド民謡は女学校に行かなきゃ習わないでしょ」
おばさんの顔が西日が射したように紅潮した。「ええ、楽しかったわ、でも遠い昔になってしまった」と、針仕事の手を動かしながら涙ぐんでいるように見えた。悪いことを訊いたのかなと思った。そして、また、歌を細い声で唄いはじめた。人は悲しいとき、嬉しいときに歌を唄い気をまぎらせる。歌にそんな力があるのを知ったのは、それからずっと後、悪ガキが人生の落とし穴に落ちてからだった。
勝比古さんの母親は少々ならずくたびれた風情だった。どこか身体が悪かったのかもしれないが、大層言葉の綺麗な人だった。言葉は教養を表すから大事だ。でも、三茶近辺の悪ガキにはそんな洒落たのはいなかった。自分勝手に親が使う言葉をそのまま使った。私の祖母は新潟県長岡の出だった。高等女学校に行ったのが自慢で、時折、スコットランド民謡などを唄っていた。女学校で習ったんだと得意げだったが、女学校すら知らない悪ガキに、それを吹聴しなければならない境遇境涯だった。
祖母は長岡の資産家の娘だったそうだ。親戚もそう言っていたので、本当なのかもしれないが、私の家は貧乏神の御殿のようなもので、神様が居ついて離れなかった。なにしろ御殿で社だから、神様が住んでいて当然だった。世の中自体が戦後の混乱で、食うのが精一杯で、時折洩らす祖母の愚痴を聞いて、銀シャリの握り飯を運んだくらいだ。自分より人を喜ばせたいと本気で思っていた。今ではそんな気にはならない、他人に自分が食ったことのないものを貢ぐ気にはなれはしない。自分の胃袋に収めてしまう。それが本心なのだが、あの子供の時はどうしてそんな気になったのか、今でも不思議だが、そうした純真な心を子供は誰でも持つのかもしれない。
勝比古さんの母親も繕いものをしながらスコットランド民謡を歌っていた。昔は洗濯機などなかったから母親は洗濯物と戦っていたものだ。それを拡げたりたたんだり、そして破れ目、ほどけ目を繕っていた。そんな仕種がどこの家でも当たり前の光景だった。
勝比古さんの母親に、「おばさんも女学校に行ったの」と歌を聴いて訊いた。針仕事の手を止めて、「どうして判ったの」「だって、スコットランド民謡は女学校に行かなきゃ習わないでしょ」
おばさんの顔が西日が射したように紅潮した。「ええ、楽しかったわ、でも遠い昔になってしまった」と、針仕事の手を動かしながら涙ぐんでいるように見えた。悪いことを訊いたのかなと思った。そして、また、歌を細い声で唄いはじめた。人は悲しいとき、嬉しいときに歌を唄い気をまぎらせる。歌にそんな力があるのを知ったのは、それからずっと後、悪ガキが人生の落とし穴に落ちてからだった。
2011-04-20
上馬の思い出15
生駒さんの裏に原っぱがあり、そこで三角ベースの野球をやって遊んだ。テニスボールを手で打って走るだけの遊びだが、いっぱし野球をしているつもりだった。その土地は小島屋のものだったようで、ある日売られてしまった。我々のグランド、それを凸凹グランドと呼んだが無くなってしまった。その後、高野という人が家を建てて住んでいた。
まだ、その凸凹グランドがあるころ、斜め前に増田という病院勤務医が開業した。耳鼻科だったと思うが、その医師が薬ビンを荒縄で縛って持ち込んできた。その医師が新築中の家の裏手にそれがあるのを、国太さんのタケシさんが見つけて、工事現場の板にそれを並べパチンコでそれを射的だ。西部劇の真似だ、なかなかあたるもんじゃない。毎日、それをやっていたら、ある日、その医師に見つかりトンカチを持って我々悪ガキを追い回した。
無論、捕まるようなドジはいるはずもなく、蜘蛛の子を散らすがごとくにトンズラをきめこんだ。そして改正道路に医師の似顔絵を書いて、トンカチを持って追いかける図を大書、また、マンガの巧い子がいた。
玉電の電車通りの向こう側、駒中の同期生、千田さんの家のも少し上馬停留所寄りにドリアンという酒場があった。ここは吉田という人が経営していた。その下の息子に勝比古(かつひこ)というのがいて、この子が抜群にマンガが上手だった。少年という雑誌が光文社から発刊されていて、その中に手塚治虫が「鉄腕アトム」を連載しだした。昭和27年のことだ。我々が三年生になった時で、この勝比古さんが子供とは思えないマンガを描いた。
手塚そっくりの線を描き、ことにランプという登場人物などは手塚より巧かった。こうした才能を持った人物が登場するから、後世おそるべしの言葉がある。改正道路にローセキで描くマンガも大人が足を止めるほど。
将来はマンガ家になりたいと言っていた。ところが人生はどう展開するかがわからない所で、この子がマンガ家になったかどうかは判らない。というのも私が引っ越したのもあるが、家族が瓦解してしまったからだ。
それは、少しく後年の話で、そのころは至極平和な家庭だった。母親がドリアンという酒場を経営していたが、カウンターしかない小さな店だった。そこに日中入り込み、西部劇のバーのように、カウンターにウイスキーグラスを滑らせて送るが、なかなか目の前にピタリとは止らない。蓄音機を廻してレコードをかけた。「津村謙の上海帰りのリル」、この作曲家が後に「お富さん」を作った渡久地政信、無論、その当時はそんなことは知らないが、この曲は大流行した、何枚もレコードをかけているうちに、酒を飲もうと言い出し、棚にあった梅酒をウイスキーグラスで飲んだ。皆、顔を赤くして電車通りを渡り、上馬メトロの前で歩けなくなった。酒が足にきたのだ。
皆、赤い顔をしてふうふう言っていると、近所のオバサンが来て、「あら、このこらお酒飲んで赤い顔してるよ、しょうがないねえ」と嘆いた。そんなことはどうでもいい、ともかく空がぐるぐる回って何だかしらないけど楽しかった。大人はこんなことをして毎日遊んでいるんだなと思うと、早く大人になりたいと心底思ったもんだ。
まだ、その凸凹グランドがあるころ、斜め前に増田という病院勤務医が開業した。耳鼻科だったと思うが、その医師が薬ビンを荒縄で縛って持ち込んできた。その医師が新築中の家の裏手にそれがあるのを、国太さんのタケシさんが見つけて、工事現場の板にそれを並べパチンコでそれを射的だ。西部劇の真似だ、なかなかあたるもんじゃない。毎日、それをやっていたら、ある日、その医師に見つかりトンカチを持って我々悪ガキを追い回した。
無論、捕まるようなドジはいるはずもなく、蜘蛛の子を散らすがごとくにトンズラをきめこんだ。そして改正道路に医師の似顔絵を書いて、トンカチを持って追いかける図を大書、また、マンガの巧い子がいた。
玉電の電車通りの向こう側、駒中の同期生、千田さんの家のも少し上馬停留所寄りにドリアンという酒場があった。ここは吉田という人が経営していた。その下の息子に勝比古(かつひこ)というのがいて、この子が抜群にマンガが上手だった。少年という雑誌が光文社から発刊されていて、その中に手塚治虫が「鉄腕アトム」を連載しだした。昭和27年のことだ。我々が三年生になった時で、この勝比古さんが子供とは思えないマンガを描いた。
手塚そっくりの線を描き、ことにランプという登場人物などは手塚より巧かった。こうした才能を持った人物が登場するから、後世おそるべしの言葉がある。改正道路にローセキで描くマンガも大人が足を止めるほど。
将来はマンガ家になりたいと言っていた。ところが人生はどう展開するかがわからない所で、この子がマンガ家になったかどうかは判らない。というのも私が引っ越したのもあるが、家族が瓦解してしまったからだ。
それは、少しく後年の話で、そのころは至極平和な家庭だった。母親がドリアンという酒場を経営していたが、カウンターしかない小さな店だった。そこに日中入り込み、西部劇のバーのように、カウンターにウイスキーグラスを滑らせて送るが、なかなか目の前にピタリとは止らない。蓄音機を廻してレコードをかけた。「津村謙の上海帰りのリル」、この作曲家が後に「お富さん」を作った渡久地政信、無論、その当時はそんなことは知らないが、この曲は大流行した、何枚もレコードをかけているうちに、酒を飲もうと言い出し、棚にあった梅酒をウイスキーグラスで飲んだ。皆、顔を赤くして電車通りを渡り、上馬メトロの前で歩けなくなった。酒が足にきたのだ。
皆、赤い顔をしてふうふう言っていると、近所のオバサンが来て、「あら、このこらお酒飲んで赤い顔してるよ、しょうがないねえ」と嘆いた。そんなことはどうでもいい、ともかく空がぐるぐる回って何だかしらないけど楽しかった。大人はこんなことをして毎日遊んでいるんだなと思うと、早く大人になりたいと心底思ったもんだ。
2011-04-19
上馬の思い出14
駒留神社の鳥居は大きかった。見あげるような高さで立派だったが、この中のご神体は石だと知ってがっかりした。後年、釈迦の舎利を分骨して方々に塔を建てたが、その分骨はルビーだったと知った時、駒留神社もそれに則ったものだと悟った。先人の智恵は確かなものだった。駒留神社のお祭りは十月の十四、十五だったか、まだ東京は暖かくランニングシャツでお神輿を担いだ。悪ガキが担ぎ賃の握り飯欲しさに、神輿の担ぎ棒にしがみついた。飯は銀シャリだった。普段家では麦の入った飯しか食えなかった。
改正道路の谷の所に駒留神社はあったが、その近くの三角に道路が弦巻と駒中に分れるところに修理工場があり、そこが神輿の置き場になり宮元と書かれてあった。半紙に近所の有志が寄付をしたのが張り出されてあり、それにハーレーの辻井さんの名があった。
小学校に入る前、昭和24年のことで、食糧事情が悪く、改正道路に上馬駅から生駒さんの家の前まで俵に入ったさつま芋が山積みにされた。配給と言って食糧は米屋に行くと配られた。ともかく毎日腹がへっていて、そのさつま芋の俵に手を突っ込み中の芋を何本か失敬して熱海湯の前で食った。まだ、熱海湯は爆弾で破壊されたままだった。
アメリカが風呂屋を工場と間違えて爆弾を落としたのだ。駒中の近くに高射砲陣地があった。そこも見に行ったことがあったが、高射砲は取り払われてタダの原っぱだった。
さつま芋を失敬して生で食っていたが、美味くはなかった。食いきれないで家に持ち帰ったら、盗むんじゃないとしかられたが、茹でて食べたら美味かった。何でも茹でなきゃダメだと知った。
その歳の十月の駒留神社のお祭りに宮元まで神輿を担ぎに行った。近所の誰かが銀シャリが出ると言ったからだ。担ぎながら酒屋の前にくると、「酒屋のケチンボ、塩まいておくれ
と怒鳴った。その怒鳴るのが痛快だった。世話役の大人たちは酒屋の主人に詫びていた。
町内を一回りすると臨時社務所の神輿置き場で担ぎ賃の握り飯が出た。やっぱり銀シャリだった。
松の木精米店のヒロシさんが「やっぱり銀シャリだ」と言いながら食べていた。私はそれを持って家に走って帰った。祖母が「嫌な時代だね、銀シャリが食べられないご時世は情けないと言っていたからだ。息せき切って家に戻り、祖母に銀シャリを差し出した。
「おばあちゃん食べなよ、今神輿を担いでもらったんだ、銀シャリだよ」
差し出すと涙を流しながら、「いいよ、お前がお食べ」と横を向いて袖で涙をぬぐった。
「せっかく持ってきたんだから、おばあさん食べてよ」
そう言葉をつなぐと、「ありがとう」といって唇をにぎりめしにつけて、「あとはお前がお食べ」と言った。面白くなかった。外に出て改正道路の縁石に腰を下ろしてにぎりめしを食べた。美味くなかった、年歯もいかぬ子供から、そうされれば今の私たちでも同じようにしただろう。でも、その時は面白くなかった。空は抜けるように青く、そして高かった。
改正道路の谷の所に駒留神社はあったが、その近くの三角に道路が弦巻と駒中に分れるところに修理工場があり、そこが神輿の置き場になり宮元と書かれてあった。半紙に近所の有志が寄付をしたのが張り出されてあり、それにハーレーの辻井さんの名があった。
小学校に入る前、昭和24年のことで、食糧事情が悪く、改正道路に上馬駅から生駒さんの家の前まで俵に入ったさつま芋が山積みにされた。配給と言って食糧は米屋に行くと配られた。ともかく毎日腹がへっていて、そのさつま芋の俵に手を突っ込み中の芋を何本か失敬して熱海湯の前で食った。まだ、熱海湯は爆弾で破壊されたままだった。
アメリカが風呂屋を工場と間違えて爆弾を落としたのだ。駒中の近くに高射砲陣地があった。そこも見に行ったことがあったが、高射砲は取り払われてタダの原っぱだった。
さつま芋を失敬して生で食っていたが、美味くはなかった。食いきれないで家に持ち帰ったら、盗むんじゃないとしかられたが、茹でて食べたら美味かった。何でも茹でなきゃダメだと知った。
その歳の十月の駒留神社のお祭りに宮元まで神輿を担ぎに行った。近所の誰かが銀シャリが出ると言ったからだ。担ぎながら酒屋の前にくると、「酒屋のケチンボ、塩まいておくれ
と怒鳴った。その怒鳴るのが痛快だった。世話役の大人たちは酒屋の主人に詫びていた。
町内を一回りすると臨時社務所の神輿置き場で担ぎ賃の握り飯が出た。やっぱり銀シャリだった。
松の木精米店のヒロシさんが「やっぱり銀シャリだ」と言いながら食べていた。私はそれを持って家に走って帰った。祖母が「嫌な時代だね、銀シャリが食べられないご時世は情けないと言っていたからだ。息せき切って家に戻り、祖母に銀シャリを差し出した。
「おばあちゃん食べなよ、今神輿を担いでもらったんだ、銀シャリだよ」
差し出すと涙を流しながら、「いいよ、お前がお食べ」と横を向いて袖で涙をぬぐった。
「せっかく持ってきたんだから、おばあさん食べてよ」
そう言葉をつなぐと、「ありがとう」といって唇をにぎりめしにつけて、「あとはお前がお食べ」と言った。面白くなかった。外に出て改正道路の縁石に腰を下ろしてにぎりめしを食べた。美味くなかった、年歯もいかぬ子供から、そうされれば今の私たちでも同じようにしただろう。でも、その時は面白くなかった。空は抜けるように青く、そして高かった。
2011-04-18
上馬の思い出13
改正道路を若林の方にだらだらとバケツを持って降りていくと、丁度谷になったところに蛇崩川があった。駒留神社の手前にあたる。両岸は土で川幅もかなりあるように思えたが、今行ってみると狭いので驚く。もっとも今は暗渠になっているので、往時の面影は全くない。ここにバケツを持って流れに入り込み、土手の川面近くの穴に手をつっこむとアメリカザリガニが両手のはさみを拡げて威嚇してくるが、遠慮も会釈もなく、どんどんバケツに突っ込む。日本ザリガニは小さく、こいつらに脅かされて小さくなっていた。丁度進駐軍に追いまくられた日本人のようなものだ。
アーチャンはその大きなアメリカザリガニを選んでとって、家に持ち帰って煮て食った。海老と同じ味だったという。あんな美味いものがタダで山ほどとれたんだから、いい時代だったよとしみじみ。
私は日本ザリガニをとって洗面器で飼っていた。えさになにをするかで困ったが煮干を砕いてやった。暫くすると赤ん坊のエビガニが沢山出てきた。ちっこくって可愛かった。少し大きくなって、駒留神社の前にひょうたんのような池があり、そこに放した。大きくなったらまた遊ぼうと小さな声で言った。
アメリカザリガニは赤くて大きく、その中でも特に大きいのをマッカチと呼んだ。アーチャンも同じようにマッカチと言っていたから、皆がそう言っていたのかもしれない。マッカチは偉そうに大きなはさみを振上げる。持ち上げて腹を見ると、尻尾の内側に丸い玉があり、それをマッカチのちんぼこだと言う。それを押すと痛がるのか、余計にはさみを振上げた。面白くて何度もやったが、やられたアメリカザリガニは困った小僧だと嘆いていたのかも知れない。
ひょうたん池には亀がいた。結構大きかった。大人の手のひらより大きかった。ある日をれをとって生駒さんの家に行ったら、神様の御使いだから返してやらなければいけないと、お酒を飲まして、また池に返してやった。昔の人は神様のいることを信じていたのだ。
でも、駒留神社に神様はいないのを知っていた。
毎日のように蛇崩川とひょうたん池をうろうろしているうちに、駒留神社の神主の子供と仲良しになった。なんでも、この神社のほかにも神社を守っていて、神主の父親は忙しいんだという。丁度その日は父親が帰ってくるのが遅い日だから、ご神体を拝ませてやるという。喜んで社殿にあがり、奥のほうに連れてってもらった。階段の奥に三方に乗った白木の箱があり、その蓋を開けた。覗き込んだが、子供のげんこ程の大きさの石が入っているだけだった。がっかりした。あんなもののためにわに口を鳴らして拍手を打ったのかと思うと急に馬鹿らしくなった。神主の子供は偉そうに、「いいものを見ただろう」と言ったので、「うん」とだけ応えて家に急いで帰り、祖母にご神体は石だぞと告げたら、「そういうことは言うもんじゃない」と叱られた。「でも、馬鹿馬鹿しいだろ、あんなものを拝むなんて」と更に足すと、「皆知ってるんだよ、でも、神様は皆の一人ひとりの心のなかにあるもんで、ご神体が石だろうと木だろうと、何でもいいんだよ、信ずる力のある人にとって、形はなんでもいいもんだ」それでも納得できなかった。大人は馬鹿だと思ったが、この歳になってそれが判るようになった。
アーチャンはその大きなアメリカザリガニを選んでとって、家に持ち帰って煮て食った。海老と同じ味だったという。あんな美味いものがタダで山ほどとれたんだから、いい時代だったよとしみじみ。
私は日本ザリガニをとって洗面器で飼っていた。えさになにをするかで困ったが煮干を砕いてやった。暫くすると赤ん坊のエビガニが沢山出てきた。ちっこくって可愛かった。少し大きくなって、駒留神社の前にひょうたんのような池があり、そこに放した。大きくなったらまた遊ぼうと小さな声で言った。
アメリカザリガニは赤くて大きく、その中でも特に大きいのをマッカチと呼んだ。アーチャンも同じようにマッカチと言っていたから、皆がそう言っていたのかもしれない。マッカチは偉そうに大きなはさみを振上げる。持ち上げて腹を見ると、尻尾の内側に丸い玉があり、それをマッカチのちんぼこだと言う。それを押すと痛がるのか、余計にはさみを振上げた。面白くて何度もやったが、やられたアメリカザリガニは困った小僧だと嘆いていたのかも知れない。
ひょうたん池には亀がいた。結構大きかった。大人の手のひらより大きかった。ある日をれをとって生駒さんの家に行ったら、神様の御使いだから返してやらなければいけないと、お酒を飲まして、また池に返してやった。昔の人は神様のいることを信じていたのだ。
でも、駒留神社に神様はいないのを知っていた。
毎日のように蛇崩川とひょうたん池をうろうろしているうちに、駒留神社の神主の子供と仲良しになった。なんでも、この神社のほかにも神社を守っていて、神主の父親は忙しいんだという。丁度その日は父親が帰ってくるのが遅い日だから、ご神体を拝ませてやるという。喜んで社殿にあがり、奥のほうに連れてってもらった。階段の奥に三方に乗った白木の箱があり、その蓋を開けた。覗き込んだが、子供のげんこ程の大きさの石が入っているだけだった。がっかりした。あんなもののためにわに口を鳴らして拍手を打ったのかと思うと急に馬鹿らしくなった。神主の子供は偉そうに、「いいものを見ただろう」と言ったので、「うん」とだけ応えて家に急いで帰り、祖母にご神体は石だぞと告げたら、「そういうことは言うもんじゃない」と叱られた。「でも、馬鹿馬鹿しいだろ、あんなものを拝むなんて」と更に足すと、「皆知ってるんだよ、でも、神様は皆の一人ひとりの心のなかにあるもんで、ご神体が石だろうと木だろうと、何でもいいんだよ、信ずる力のある人にとって、形はなんでもいいもんだ」それでも納得できなかった。大人は馬鹿だと思ったが、この歳になってそれが判るようになった。
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