生駒さんの裏に原っぱがあり、そこで三角ベースの野球をやって遊んだ。テニスボールを手で打って走るだけの遊びだが、いっぱし野球をしているつもりだった。その土地は小島屋のものだったようで、ある日売られてしまった。我々のグランド、それを凸凹グランドと呼んだが無くなってしまった。その後、高野という人が家を建てて住んでいた。
まだ、その凸凹グランドがあるころ、斜め前に増田という病院勤務医が開業した。耳鼻科だったと思うが、その医師が薬ビンを荒縄で縛って持ち込んできた。その医師が新築中の家の裏手にそれがあるのを、国太さんのタケシさんが見つけて、工事現場の板にそれを並べパチンコでそれを射的だ。西部劇の真似だ、なかなかあたるもんじゃない。毎日、それをやっていたら、ある日、その医師に見つかりトンカチを持って我々悪ガキを追い回した。
無論、捕まるようなドジはいるはずもなく、蜘蛛の子を散らすがごとくにトンズラをきめこんだ。そして改正道路に医師の似顔絵を書いて、トンカチを持って追いかける図を大書、また、マンガの巧い子がいた。
玉電の電車通りの向こう側、駒中の同期生、千田さんの家のも少し上馬停留所寄りにドリアンという酒場があった。ここは吉田という人が経営していた。その下の息子に勝比古(かつひこ)というのがいて、この子が抜群にマンガが上手だった。少年という雑誌が光文社から発刊されていて、その中に手塚治虫が「鉄腕アトム」を連載しだした。昭和27年のことだ。我々が三年生になった時で、この勝比古さんが子供とは思えないマンガを描いた。
手塚そっくりの線を描き、ことにランプという登場人物などは手塚より巧かった。こうした才能を持った人物が登場するから、後世おそるべしの言葉がある。改正道路にローセキで描くマンガも大人が足を止めるほど。
将来はマンガ家になりたいと言っていた。ところが人生はどう展開するかがわからない所で、この子がマンガ家になったかどうかは判らない。というのも私が引っ越したのもあるが、家族が瓦解してしまったからだ。
それは、少しく後年の話で、そのころは至極平和な家庭だった。母親がドリアンという酒場を経営していたが、カウンターしかない小さな店だった。そこに日中入り込み、西部劇のバーのように、カウンターにウイスキーグラスを滑らせて送るが、なかなか目の前にピタリとは止らない。蓄音機を廻してレコードをかけた。「津村謙の上海帰りのリル」、この作曲家が後に「お富さん」を作った渡久地政信、無論、その当時はそんなことは知らないが、この曲は大流行した、何枚もレコードをかけているうちに、酒を飲もうと言い出し、棚にあった梅酒をウイスキーグラスで飲んだ。皆、顔を赤くして電車通りを渡り、上馬メトロの前で歩けなくなった。酒が足にきたのだ。
皆、赤い顔をしてふうふう言っていると、近所のオバサンが来て、「あら、このこらお酒飲んで赤い顔してるよ、しょうがないねえ」と嘆いた。そんなことはどうでもいい、ともかく空がぐるぐる回って何だかしらないけど楽しかった。大人はこんなことをして毎日遊んでいるんだなと思うと、早く大人になりたいと心底思ったもんだ。
2011-04-20
2011-04-19
上馬の思い出14
駒留神社の鳥居は大きかった。見あげるような高さで立派だったが、この中のご神体は石だと知ってがっかりした。後年、釈迦の舎利を分骨して方々に塔を建てたが、その分骨はルビーだったと知った時、駒留神社もそれに則ったものだと悟った。先人の智恵は確かなものだった。駒留神社のお祭りは十月の十四、十五だったか、まだ東京は暖かくランニングシャツでお神輿を担いだ。悪ガキが担ぎ賃の握り飯欲しさに、神輿の担ぎ棒にしがみついた。飯は銀シャリだった。普段家では麦の入った飯しか食えなかった。
改正道路の谷の所に駒留神社はあったが、その近くの三角に道路が弦巻と駒中に分れるところに修理工場があり、そこが神輿の置き場になり宮元と書かれてあった。半紙に近所の有志が寄付をしたのが張り出されてあり、それにハーレーの辻井さんの名があった。
小学校に入る前、昭和24年のことで、食糧事情が悪く、改正道路に上馬駅から生駒さんの家の前まで俵に入ったさつま芋が山積みにされた。配給と言って食糧は米屋に行くと配られた。ともかく毎日腹がへっていて、そのさつま芋の俵に手を突っ込み中の芋を何本か失敬して熱海湯の前で食った。まだ、熱海湯は爆弾で破壊されたままだった。
アメリカが風呂屋を工場と間違えて爆弾を落としたのだ。駒中の近くに高射砲陣地があった。そこも見に行ったことがあったが、高射砲は取り払われてタダの原っぱだった。
さつま芋を失敬して生で食っていたが、美味くはなかった。食いきれないで家に持ち帰ったら、盗むんじゃないとしかられたが、茹でて食べたら美味かった。何でも茹でなきゃダメだと知った。
その歳の十月の駒留神社のお祭りに宮元まで神輿を担ぎに行った。近所の誰かが銀シャリが出ると言ったからだ。担ぎながら酒屋の前にくると、「酒屋のケチンボ、塩まいておくれ
と怒鳴った。その怒鳴るのが痛快だった。世話役の大人たちは酒屋の主人に詫びていた。
町内を一回りすると臨時社務所の神輿置き場で担ぎ賃の握り飯が出た。やっぱり銀シャリだった。
松の木精米店のヒロシさんが「やっぱり銀シャリだ」と言いながら食べていた。私はそれを持って家に走って帰った。祖母が「嫌な時代だね、銀シャリが食べられないご時世は情けないと言っていたからだ。息せき切って家に戻り、祖母に銀シャリを差し出した。
「おばあちゃん食べなよ、今神輿を担いでもらったんだ、銀シャリだよ」
差し出すと涙を流しながら、「いいよ、お前がお食べ」と横を向いて袖で涙をぬぐった。
「せっかく持ってきたんだから、おばあさん食べてよ」
そう言葉をつなぐと、「ありがとう」といって唇をにぎりめしにつけて、「あとはお前がお食べ」と言った。面白くなかった。外に出て改正道路の縁石に腰を下ろしてにぎりめしを食べた。美味くなかった、年歯もいかぬ子供から、そうされれば今の私たちでも同じようにしただろう。でも、その時は面白くなかった。空は抜けるように青く、そして高かった。
改正道路の谷の所に駒留神社はあったが、その近くの三角に道路が弦巻と駒中に分れるところに修理工場があり、そこが神輿の置き場になり宮元と書かれてあった。半紙に近所の有志が寄付をしたのが張り出されてあり、それにハーレーの辻井さんの名があった。
小学校に入る前、昭和24年のことで、食糧事情が悪く、改正道路に上馬駅から生駒さんの家の前まで俵に入ったさつま芋が山積みにされた。配給と言って食糧は米屋に行くと配られた。ともかく毎日腹がへっていて、そのさつま芋の俵に手を突っ込み中の芋を何本か失敬して熱海湯の前で食った。まだ、熱海湯は爆弾で破壊されたままだった。
アメリカが風呂屋を工場と間違えて爆弾を落としたのだ。駒中の近くに高射砲陣地があった。そこも見に行ったことがあったが、高射砲は取り払われてタダの原っぱだった。
さつま芋を失敬して生で食っていたが、美味くはなかった。食いきれないで家に持ち帰ったら、盗むんじゃないとしかられたが、茹でて食べたら美味かった。何でも茹でなきゃダメだと知った。
その歳の十月の駒留神社のお祭りに宮元まで神輿を担ぎに行った。近所の誰かが銀シャリが出ると言ったからだ。担ぎながら酒屋の前にくると、「酒屋のケチンボ、塩まいておくれ
と怒鳴った。その怒鳴るのが痛快だった。世話役の大人たちは酒屋の主人に詫びていた。
町内を一回りすると臨時社務所の神輿置き場で担ぎ賃の握り飯が出た。やっぱり銀シャリだった。
松の木精米店のヒロシさんが「やっぱり銀シャリだ」と言いながら食べていた。私はそれを持って家に走って帰った。祖母が「嫌な時代だね、銀シャリが食べられないご時世は情けないと言っていたからだ。息せき切って家に戻り、祖母に銀シャリを差し出した。
「おばあちゃん食べなよ、今神輿を担いでもらったんだ、銀シャリだよ」
差し出すと涙を流しながら、「いいよ、お前がお食べ」と横を向いて袖で涙をぬぐった。
「せっかく持ってきたんだから、おばあさん食べてよ」
そう言葉をつなぐと、「ありがとう」といって唇をにぎりめしにつけて、「あとはお前がお食べ」と言った。面白くなかった。外に出て改正道路の縁石に腰を下ろしてにぎりめしを食べた。美味くなかった、年歯もいかぬ子供から、そうされれば今の私たちでも同じようにしただろう。でも、その時は面白くなかった。空は抜けるように青く、そして高かった。
2011-04-18
上馬の思い出13
改正道路を若林の方にだらだらとバケツを持って降りていくと、丁度谷になったところに蛇崩川があった。駒留神社の手前にあたる。両岸は土で川幅もかなりあるように思えたが、今行ってみると狭いので驚く。もっとも今は暗渠になっているので、往時の面影は全くない。ここにバケツを持って流れに入り込み、土手の川面近くの穴に手をつっこむとアメリカザリガニが両手のはさみを拡げて威嚇してくるが、遠慮も会釈もなく、どんどんバケツに突っ込む。日本ザリガニは小さく、こいつらに脅かされて小さくなっていた。丁度進駐軍に追いまくられた日本人のようなものだ。
アーチャンはその大きなアメリカザリガニを選んでとって、家に持ち帰って煮て食った。海老と同じ味だったという。あんな美味いものがタダで山ほどとれたんだから、いい時代だったよとしみじみ。
私は日本ザリガニをとって洗面器で飼っていた。えさになにをするかで困ったが煮干を砕いてやった。暫くすると赤ん坊のエビガニが沢山出てきた。ちっこくって可愛かった。少し大きくなって、駒留神社の前にひょうたんのような池があり、そこに放した。大きくなったらまた遊ぼうと小さな声で言った。
アメリカザリガニは赤くて大きく、その中でも特に大きいのをマッカチと呼んだ。アーチャンも同じようにマッカチと言っていたから、皆がそう言っていたのかもしれない。マッカチは偉そうに大きなはさみを振上げる。持ち上げて腹を見ると、尻尾の内側に丸い玉があり、それをマッカチのちんぼこだと言う。それを押すと痛がるのか、余計にはさみを振上げた。面白くて何度もやったが、やられたアメリカザリガニは困った小僧だと嘆いていたのかも知れない。
ひょうたん池には亀がいた。結構大きかった。大人の手のひらより大きかった。ある日をれをとって生駒さんの家に行ったら、神様の御使いだから返してやらなければいけないと、お酒を飲まして、また池に返してやった。昔の人は神様のいることを信じていたのだ。
でも、駒留神社に神様はいないのを知っていた。
毎日のように蛇崩川とひょうたん池をうろうろしているうちに、駒留神社の神主の子供と仲良しになった。なんでも、この神社のほかにも神社を守っていて、神主の父親は忙しいんだという。丁度その日は父親が帰ってくるのが遅い日だから、ご神体を拝ませてやるという。喜んで社殿にあがり、奥のほうに連れてってもらった。階段の奥に三方に乗った白木の箱があり、その蓋を開けた。覗き込んだが、子供のげんこ程の大きさの石が入っているだけだった。がっかりした。あんなもののためにわに口を鳴らして拍手を打ったのかと思うと急に馬鹿らしくなった。神主の子供は偉そうに、「いいものを見ただろう」と言ったので、「うん」とだけ応えて家に急いで帰り、祖母にご神体は石だぞと告げたら、「そういうことは言うもんじゃない」と叱られた。「でも、馬鹿馬鹿しいだろ、あんなものを拝むなんて」と更に足すと、「皆知ってるんだよ、でも、神様は皆の一人ひとりの心のなかにあるもんで、ご神体が石だろうと木だろうと、何でもいいんだよ、信ずる力のある人にとって、形はなんでもいいもんだ」それでも納得できなかった。大人は馬鹿だと思ったが、この歳になってそれが判るようになった。
アーチャンはその大きなアメリカザリガニを選んでとって、家に持ち帰って煮て食った。海老と同じ味だったという。あんな美味いものがタダで山ほどとれたんだから、いい時代だったよとしみじみ。
私は日本ザリガニをとって洗面器で飼っていた。えさになにをするかで困ったが煮干を砕いてやった。暫くすると赤ん坊のエビガニが沢山出てきた。ちっこくって可愛かった。少し大きくなって、駒留神社の前にひょうたんのような池があり、そこに放した。大きくなったらまた遊ぼうと小さな声で言った。
アメリカザリガニは赤くて大きく、その中でも特に大きいのをマッカチと呼んだ。アーチャンも同じようにマッカチと言っていたから、皆がそう言っていたのかもしれない。マッカチは偉そうに大きなはさみを振上げる。持ち上げて腹を見ると、尻尾の内側に丸い玉があり、それをマッカチのちんぼこだと言う。それを押すと痛がるのか、余計にはさみを振上げた。面白くて何度もやったが、やられたアメリカザリガニは困った小僧だと嘆いていたのかも知れない。
ひょうたん池には亀がいた。結構大きかった。大人の手のひらより大きかった。ある日をれをとって生駒さんの家に行ったら、神様の御使いだから返してやらなければいけないと、お酒を飲まして、また池に返してやった。昔の人は神様のいることを信じていたのだ。
でも、駒留神社に神様はいないのを知っていた。
毎日のように蛇崩川とひょうたん池をうろうろしているうちに、駒留神社の神主の子供と仲良しになった。なんでも、この神社のほかにも神社を守っていて、神主の父親は忙しいんだという。丁度その日は父親が帰ってくるのが遅い日だから、ご神体を拝ませてやるという。喜んで社殿にあがり、奥のほうに連れてってもらった。階段の奥に三方に乗った白木の箱があり、その蓋を開けた。覗き込んだが、子供のげんこ程の大きさの石が入っているだけだった。がっかりした。あんなもののためにわに口を鳴らして拍手を打ったのかと思うと急に馬鹿らしくなった。神主の子供は偉そうに、「いいものを見ただろう」と言ったので、「うん」とだけ応えて家に急いで帰り、祖母にご神体は石だぞと告げたら、「そういうことは言うもんじゃない」と叱られた。「でも、馬鹿馬鹿しいだろ、あんなものを拝むなんて」と更に足すと、「皆知ってるんだよ、でも、神様は皆の一人ひとりの心のなかにあるもんで、ご神体が石だろうと木だろうと、何でもいいんだよ、信ずる力のある人にとって、形はなんでもいいもんだ」それでも納得できなかった。大人は馬鹿だと思ったが、この歳になってそれが判るようになった。
2011-04-17
中里の思い出6
少年探偵団ならぬ老人探偵団がウロウロと三茶あたりを徘徊、ウロウロよりヨタヨタ、オロオロの方が正しいのかも、宇田川君と仲が良かったのが生駒君、染物屋の次男、この人の家には文化があった。それも江戸の名残の、講談・落語・浪曲の日本の伝統話芸などは、生駒君の家で自然と身についた。もっとも、染物自体が江戸の風を示すもの、当然のことだったのだろう。
その生駒君と宇田川君が渋谷に切手を買いに行くというので付いていったことがある。中学に入った頃に切手ブームがあり、それに興味を持ったが貧乏人には無縁の代物、すぐに飽きたというか買えなくて脱落した。後年、これは切手商が金集めの手段として生み出したものだと悟った。生きて行くには金が必要になるが、あまりこれにこだわると守銭奴となり、人から奇人変人のそしりを受ける。
切手が幾らで売買されているかを示す冊子があり、売りもしないのに、これで幾ら儲かったと得意そうに話す中学生もいた。
成人してコイン商と知り合いになったが、昔は皆、切手商だったそうだ。ところが切手が売買できないことを素人が知って、それが瓦解してコイン商に転じた。秋葉原のシントク電気の上に貸しホールがあり、そこで交換会が開かれていた。オリンピックの千円玉が一万円で売れた。大儲けをした人が出たの触れ込みがあり、連れて行ってもらったが、そこもダマシの世界のようだった。外国人の顔も見えた。
小学生にそんな世界があるとは知らないのだが、金がないから切手の蒐集が出来なかっただけだが、蒐集家が財を成した話を聞かないことからも、後年知ったダマシ・詐欺師の手口だったことは間違いない。秋葉原のコイン交換会を開いていた男は、銀が大相場になったとき、百円玉を溶かして大儲けをした。無論これは犯罪ではあるが、そんなことはおかまいなしでやる奴ばらが世の中には紳士面して横行している。そのころ滝本君という駒中の同期生と逢ったことがある。エノケンに苦労させられたと話していた。エノケンは仇名で、本名は忘れたが、上馬駅の駒沢寄りで板金屋の倅だ。父親は鼻筋の通った面長で、曲げ物に出てくるようなイナセな感じの美男子だった。かっぱからげて三度笠の似合う人だなと思っていた。エノケンはせせこましい感じのとっぽい少年だったが、人生誰しも落とし穴が待ち受ける大人の世界、女・酒・バクチの三悪のうちのどれとどれに足を突っ込んで抜けなくなったのか、金に窮して友人を踏みつけたようだ。そのことを滝本君が言ったのだろうが詳しくは語らなかった。
金は便利なようで扱いが難しく、この使い方や概念について日本人は子供に教えないが中国人は金銭感覚について厳しくしこむ。どれが良くてどれが悪いわけでもないが、人生の並木道を踏み迷うことのないように最低限の知識は持つべき。そうした誘惑にも負けず、落とし穴にも落ち込まずになんとかこの歳まできたが、いやあ御同輩、簡単容易な道ではありませんでしたな、お互いに。
人生は良いことばかりではなく、悪いことばかりでもないが、どんな歳になっても希望とか生きることに飽きてはいけないと格言にもありますぞ。森進一って歌手がいて、泣き節といわれるけど、ディック・ミネの人生の並木道を歌わせると抜群の味を出す。苦労の度合いが大きかっただけに、歌にこめる哀感が人を打つのだろう。宇田川君の家の近くには飯塚新太郎君、島田源太郎君などがいた。その島田君も数年前に亡くなった。いつもにこにこした少年だった。
その生駒君と宇田川君が渋谷に切手を買いに行くというので付いていったことがある。中学に入った頃に切手ブームがあり、それに興味を持ったが貧乏人には無縁の代物、すぐに飽きたというか買えなくて脱落した。後年、これは切手商が金集めの手段として生み出したものだと悟った。生きて行くには金が必要になるが、あまりこれにこだわると守銭奴となり、人から奇人変人のそしりを受ける。
切手が幾らで売買されているかを示す冊子があり、売りもしないのに、これで幾ら儲かったと得意そうに話す中学生もいた。
成人してコイン商と知り合いになったが、昔は皆、切手商だったそうだ。ところが切手が売買できないことを素人が知って、それが瓦解してコイン商に転じた。秋葉原のシントク電気の上に貸しホールがあり、そこで交換会が開かれていた。オリンピックの千円玉が一万円で売れた。大儲けをした人が出たの触れ込みがあり、連れて行ってもらったが、そこもダマシの世界のようだった。外国人の顔も見えた。
小学生にそんな世界があるとは知らないのだが、金がないから切手の蒐集が出来なかっただけだが、蒐集家が財を成した話を聞かないことからも、後年知ったダマシ・詐欺師の手口だったことは間違いない。秋葉原のコイン交換会を開いていた男は、銀が大相場になったとき、百円玉を溶かして大儲けをした。無論これは犯罪ではあるが、そんなことはおかまいなしでやる奴ばらが世の中には紳士面して横行している。そのころ滝本君という駒中の同期生と逢ったことがある。エノケンに苦労させられたと話していた。エノケンは仇名で、本名は忘れたが、上馬駅の駒沢寄りで板金屋の倅だ。父親は鼻筋の通った面長で、曲げ物に出てくるようなイナセな感じの美男子だった。かっぱからげて三度笠の似合う人だなと思っていた。エノケンはせせこましい感じのとっぽい少年だったが、人生誰しも落とし穴が待ち受ける大人の世界、女・酒・バクチの三悪のうちのどれとどれに足を突っ込んで抜けなくなったのか、金に窮して友人を踏みつけたようだ。そのことを滝本君が言ったのだろうが詳しくは語らなかった。
金は便利なようで扱いが難しく、この使い方や概念について日本人は子供に教えないが中国人は金銭感覚について厳しくしこむ。どれが良くてどれが悪いわけでもないが、人生の並木道を踏み迷うことのないように最低限の知識は持つべき。そうした誘惑にも負けず、落とし穴にも落ち込まずになんとかこの歳まできたが、いやあ御同輩、簡単容易な道ではありませんでしたな、お互いに。
人生は良いことばかりではなく、悪いことばかりでもないが、どんな歳になっても希望とか生きることに飽きてはいけないと格言にもありますぞ。森進一って歌手がいて、泣き節といわれるけど、ディック・ミネの人生の並木道を歌わせると抜群の味を出す。苦労の度合いが大きかっただけに、歌にこめる哀感が人を打つのだろう。宇田川君の家の近くには飯塚新太郎君、島田源太郎君などがいた。その島田君も数年前に亡くなった。いつもにこにこした少年だった。
2011-04-16
中里の思い出5
中里から上馬に向かう専用軌道の右手は崖になっていた。その上り坂を電車が進むとすぐ右手の高い所には犬舎があり、大きなシェパードが何匹もいた、警察犬の訓練をしていたと言う。その隣が大川さんの家で、目が大きく丸顔で色白、まるで少女雑誌に載る蕗谷虹児の挿絵のようだった。
季節が廻ってくると、また、あの花に逢えると人は心待ちにする。桜がそうだ。花は桜木、人は武士と歌われるように、散り際の潔さを言うが、人も花のようなものだ。年年歳歳花あい似たり、歳歳年々人また同じからずというが、同期会を開くのは、その人に逢いたい、あの人と話してみたいという願望が足を運ばせる。
大川さんは挿絵画家の描く可憐で楚々とした雰囲気があった。その大川さんは長じて女史美術大学に進学された。同期会で逢ったとき、以前と同じ雰囲気で、人は変らないものだと遠くから眺めた。
次の会で逢ったとき、最近耳が遠くなったのと言っておられた、ほどなくして訃報を聞いた。人は突然散る、それも何の前触れもなく。美少女の大川さんは久子さんと言われた。蕗谷虹児の絵をみるたびに大川さんを思い出す。あの大川さんの花には二度と会えないけど、挿絵はいつでもみることができる。蕗谷虹児は新潟県新発田の産、十二歳で二十七の母を亡くす、美人として有名な人、貧苦のうち新潟市の印刷会社につとめ、夜間画学校に通い、新潟市長に才を見出され十四歳で日本画家尾竹に弟子入り、放浪の後、東京に出て知人の紹介で日米図案社に入社、そこで竹久夢二と知り合う。それが機運を得て一流挿絵家の名を得た。「花嫁人形」の作詞でも知られるが作詞家が間に合わなかったので、急遽蕗谷が走り書きしたものを採用、これが大当たり、さらに戦後の混乱の時、この歌がアメリカで流行し多額な印税が入り込み、貧乏生活の蕗谷を助けたという。人は何が待ち受けるかわからないもの。
この大川さんの家の近くに須永君、佐藤君、小沼君が居住していた。小沼君は現在でも住んでおられる。地球が回るように我々も時代を回っている。その回転から放り出される者、しがみついていられるものに分れる。小沼君は回転するコマの中心におられたのだろう。今でも中里、須永君は神奈川の津久井湖のほうに行かれたが、その後が判明しない。きっとどこかの空の下で旧友を懐かしんでおられることだろう。
変る時代、変る世の中、でも人情だけは変って欲しくはないもの。故人を偲び先人を尊ぶという素朴ではあるが大事なものを。
花嫁人形
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮(はなよめごりょう)は なぜ泣くのだろ
文金島田(ぶんきんしまだ)に 髪(かみ)結(ゆ)いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿(か)の子の 振袖(ふりそで)着てる
泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙(なみだ)で鹿の子の 赤い紅(べに)にじむ
泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装(ちよがみいしょう)
季節が廻ってくると、また、あの花に逢えると人は心待ちにする。桜がそうだ。花は桜木、人は武士と歌われるように、散り際の潔さを言うが、人も花のようなものだ。年年歳歳花あい似たり、歳歳年々人また同じからずというが、同期会を開くのは、その人に逢いたい、あの人と話してみたいという願望が足を運ばせる。
大川さんは挿絵画家の描く可憐で楚々とした雰囲気があった。その大川さんは長じて女史美術大学に進学された。同期会で逢ったとき、以前と同じ雰囲気で、人は変らないものだと遠くから眺めた。
次の会で逢ったとき、最近耳が遠くなったのと言っておられた、ほどなくして訃報を聞いた。人は突然散る、それも何の前触れもなく。美少女の大川さんは久子さんと言われた。蕗谷虹児の絵をみるたびに大川さんを思い出す。あの大川さんの花には二度と会えないけど、挿絵はいつでもみることができる。蕗谷虹児は新潟県新発田の産、十二歳で二十七の母を亡くす、美人として有名な人、貧苦のうち新潟市の印刷会社につとめ、夜間画学校に通い、新潟市長に才を見出され十四歳で日本画家尾竹に弟子入り、放浪の後、東京に出て知人の紹介で日米図案社に入社、そこで竹久夢二と知り合う。それが機運を得て一流挿絵家の名を得た。「花嫁人形」の作詞でも知られるが作詞家が間に合わなかったので、急遽蕗谷が走り書きしたものを採用、これが大当たり、さらに戦後の混乱の時、この歌がアメリカで流行し多額な印税が入り込み、貧乏生活の蕗谷を助けたという。人は何が待ち受けるかわからないもの。
この大川さんの家の近くに須永君、佐藤君、小沼君が居住していた。小沼君は現在でも住んでおられる。地球が回るように我々も時代を回っている。その回転から放り出される者、しがみついていられるものに分れる。小沼君は回転するコマの中心におられたのだろう。今でも中里、須永君は神奈川の津久井湖のほうに行かれたが、その後が判明しない。きっとどこかの空の下で旧友を懐かしんでおられることだろう。
変る時代、変る世の中、でも人情だけは変って欲しくはないもの。故人を偲び先人を尊ぶという素朴ではあるが大事なものを。
花嫁人形
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮(はなよめごりょう)は なぜ泣くのだろ
文金島田(ぶんきんしまだ)に 髪(かみ)結(ゆ)いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿(か)の子の 振袖(ふりそで)着てる
泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙(なみだ)で鹿の子の 赤い紅(べに)にじむ
泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装(ちよがみいしょう)
2011-04-15
中里の思い出4
商店街を抜けると民家が列なり、やがて宇田川君の所に行き着く。宇田川園という造園家で地番のひと区画を所有しておられた。大きな家では堀口さんも大きかった。キューピー人形のような大きな目の女の子で、家に入るには鉄扉があり、門柱も大きく立派でたまげたもんだ。宇田川君の植木が立ち並ぶのを横目に三茶小に通ったが、セセコマシイ自分の家と違って、どうしたらこんな大きな屋敷をもてるのかと不思議に思った。そして、その不思議は六十年経っても解けない謎、あいも変わらぬ狭い家で呻吟しているのも妙。貧乏人は生涯変る事がないのかもしれない。
宇田川君の一族もどう滑って転んだのか、その土地を手放されたそうだ。お兄さんが長く世田谷区議会議員をされていた。もっとも、今の日本の税制では三代続く金持ちはいないそうだ。一億国民細分化され、皆貧乏人になっちまう。これも妙な話だ。
この宇田川君の家の近くに高砂湯という銭湯があった。上馬の話でも記したが熱海湯ができるまでは高砂湯にでかけた。石川さんの家の前を抜けて、曽根君の家の角を曲がって行った。曽根君の家の前角に大きな楠が生えている。
アーチャンが言った。「この木は六十年は経っている」「アーチャン、おれたちが子供の頃も大木だったよ、あれから六十年も経ったから、この木は百年は超えているよ」「そうか、そうかもしれない」
アーチャンは自分の歳を忘れている。年取ってくると昨日のことは今日になりゃ忘れる。ところが子供の頃のことは、昨日のように思い出す。もう、六十年も経っているのに。人間てのは不思議だ。まして、その場所に行けば、ありあり、まざまざと思い浮かべるけど、あの可愛い少女の大川さんは逢いたくとも逢えない所に行ってしまわれた。
黒人霊歌に「オールド・ブラック・ジョー」というのがある。我も行かん、はや、老いたれば、かすかに我を呼ぶ…
まだ、呼ばれる前にしなければならないことがある、六十年前のことどもを忘れないうちに記さねばならない。私たちの子供の頃の三茶はこんな時代、こんな町でしたと、それが我々年寄りの務めなのだ。
だから、少年探偵団の歌を唄いながら三茶界隈を歩いている。駒中の修学旅行のときだったか、大里君と生駒君が少年探偵団の替え歌を歌って歩いていた。ぼ、ぼ、ぼくらは少年愚連隊、このもと歌は勿論、ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団だが、愚連隊ってのが渋谷で幅をきかせた時代があった。それを巧みに替え歌にしたのだが、面白くて思わず笑ったことを覚えている。この少年探偵団に怪人20面相が出てきて、昨今これがK20という名の映画になった。これは江戸川乱歩の小説だが、ラジオで放送されたことがあった。昭和25年の四月からNHK第二放送で毎週金曜日に放送された。我々が丁度一年生の頃、明智探偵と小林少年、胸がドキドキしたのを思い出しただろうか。その後民放が誕生し、方々の局でも放送する人気番組、江戸川乱歩はマイナーな推理作家だったが、これで一躍桧舞台に飛び出し、光文社が少年探偵団シリーズを発刊し莫大な利を上げた。後年、乱歩が地主に土地の買い上げを迫り、困った乱歩が光文社に相談、一年分の印税前払いをしてもらい急場をしのいだ。乱歩は終生これを恩義に感じたという。
宇田川君の一族もどう滑って転んだのか、その土地を手放されたそうだ。お兄さんが長く世田谷区議会議員をされていた。もっとも、今の日本の税制では三代続く金持ちはいないそうだ。一億国民細分化され、皆貧乏人になっちまう。これも妙な話だ。
この宇田川君の家の近くに高砂湯という銭湯があった。上馬の話でも記したが熱海湯ができるまでは高砂湯にでかけた。石川さんの家の前を抜けて、曽根君の家の角を曲がって行った。曽根君の家の前角に大きな楠が生えている。
アーチャンが言った。「この木は六十年は経っている」「アーチャン、おれたちが子供の頃も大木だったよ、あれから六十年も経ったから、この木は百年は超えているよ」「そうか、そうかもしれない」
アーチャンは自分の歳を忘れている。年取ってくると昨日のことは今日になりゃ忘れる。ところが子供の頃のことは、昨日のように思い出す。もう、六十年も経っているのに。人間てのは不思議だ。まして、その場所に行けば、ありあり、まざまざと思い浮かべるけど、あの可愛い少女の大川さんは逢いたくとも逢えない所に行ってしまわれた。
黒人霊歌に「オールド・ブラック・ジョー」というのがある。我も行かん、はや、老いたれば、かすかに我を呼ぶ…
まだ、呼ばれる前にしなければならないことがある、六十年前のことどもを忘れないうちに記さねばならない。私たちの子供の頃の三茶はこんな時代、こんな町でしたと、それが我々年寄りの務めなのだ。
だから、少年探偵団の歌を唄いながら三茶界隈を歩いている。駒中の修学旅行のときだったか、大里君と生駒君が少年探偵団の替え歌を歌って歩いていた。ぼ、ぼ、ぼくらは少年愚連隊、このもと歌は勿論、ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団だが、愚連隊ってのが渋谷で幅をきかせた時代があった。それを巧みに替え歌にしたのだが、面白くて思わず笑ったことを覚えている。この少年探偵団に怪人20面相が出てきて、昨今これがK20という名の映画になった。これは江戸川乱歩の小説だが、ラジオで放送されたことがあった。昭和25年の四月からNHK第二放送で毎週金曜日に放送された。我々が丁度一年生の頃、明智探偵と小林少年、胸がドキドキしたのを思い出しただろうか。その後民放が誕生し、方々の局でも放送する人気番組、江戸川乱歩はマイナーな推理作家だったが、これで一躍桧舞台に飛び出し、光文社が少年探偵団シリーズを発刊し莫大な利を上げた。後年、乱歩が地主に土地の買い上げを迫り、困った乱歩が光文社に相談、一年分の印税前払いをしてもらい急場をしのいだ。乱歩は終生これを恩義に感じたという。
2011-04-14
中里の思い出3

原田君の八百屋はデブチン八百屋と呼ばれた。父親の体格が良かったからだ。この八百屋の店先の猿が人気者で商品のバナナを内緒で猿に食べさせたのはアーチャン。アーチャンと原田君は仲が良く、成人してからも交流があった。原田君も体格が良く少林寺拳法を習っていたという。アーチャンと路上でボクシングをして汗をかいたあと、野沢の町を歩いていた。すると三人連れが因縁をつけてきた。アーチャンが何を!って言う間に、原田君が一人の襟首を摑んだかと思うと投げ飛ばした。続く二人目も同様に宙に浮いた。それを見た三人目は逃げ出した。原田君は三人ぐらいは屁でもなく投げ飛ばす。四人だとちょっと困る程度。
この原田君が三茶小の五年のとき、横山先生に廊下に立たされた。何か悪ふざけでもしたのだろう。横山先生の名は横山隆一で、漫画家と同姓同名、我々が六年生になるとき、教育委員会に転じられた。視聴覚の担当をされた。授業にも録音機などを導入し、それが役立つかの実験をされたこともあった。
その原田君が廊下から消えた。横山先生は青くなった。皆で手分けして探したが何処にもいない。学校の外だろうと見当をつけそれぞれが探しに行った。結局、横山先生が見つけたのだが、諸君、原田君は何処に居たと思う? 三茶の映画館に入り込んでいたのだ。
我々悪ガキは金なんてなくとも映画館に入り込む手立ては知っているのだ。それから、原田君もアーチャンも廊下には立たされなくなった。先生が懲りて教室の中に立たせた。昔はこうした体罰は日常茶飯事、誰もそれが悪いとも思わなかった。廊下に立たされてもめげない原田君は立派だった。
その原田君の八百屋を訪ねたらアパートになっていた。日本の税制が悪く、同じ土地を三代持ち続けるのが難しい。相続税が過酷だから。原田君の家はそれを耐え忍んでアパート経営で立派だ。そこで写真を撮ったが、昔我々は少年探偵団、ところが今はヨレヨレの老人探偵団、懐かしさに尻押しされてあっちでパチリ、こっちで休むと、なかなか昔のようには歩けませんヤ。
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