フタバ電気のご主人はワカセさんと言って昔は憲兵だった。長男のケンイチさんが父の憲兵手帳を持ち出して、それを眺めておそれいった。子供心に憲兵は恐ろしかった。巡査も悪い人間を捕まえるので恐ろしかったが、大人からそんなことをするとおまわりさんに連れていかれるからと言われていたのが身に染みていたのだろう。
どのみち、子供のすることだから大したことではないのだが、こうした記憶が心の底にあるから、何とか生きてこれたような気もする。
そのワカセさんに昔の仲間の憲兵が尋ねてきたことがあった。やはり目つきの鋭い人だった。ワカセさんの女房、つまりケンチャンの母はビックリするほどの美人だった。グラビアの写真でもあんな美人はいまだに見たことが無い。この美人は松の木精米店の隣の和泉屋というパンや和菓子を作る店から嫁ついできた。
このパン屋は美人美男の塊だった。私より一つ上に女の人がいたが、この人も綺麗だった。宝塚にも出れるほど、三茶小の同級生に中西ヨシオさんがいたが、この人の姉が宝塚に行かれた。その人より和泉屋姉妹は美人ぞろいだった。
人生はチョットした縁、つまづく石も縁の端なんて言い方もあるけど、和泉屋姉妹が芸能界に縁があればきっとピンクレディーよりも凄かったろう。
その美人のワカセさんのかみさんは美人薄命で若くして亡くなった。背が高くてすらっとしていて、今でもその容姿を思い浮かべることができる。
玉電通りを上馬の改正道路から三茶に向かって記すと、角が小島屋、国太床屋、根岸酒屋、自転車屋、上馬メトロ(映画館)、松の木精米店、そして和泉屋となる。
小島屋は呉服店、娘さんが同級生だった。カヨちゃんという名だったと思う。夏になると団扇に浴衣で隣の国太さんとの間の通路で夕涼みをしながら線香花火をしていた。大人しい女の子だった。
国太さんの家にはタケシさんという一つ上の人がいて、この人は運動神経抜群で空中回転、つまり歌舞伎で言えばトンボウをきることができた。弟のタモツさんも同様に機敏。物静かだが、なかなかきかない兄弟だった。でも、好んで喧嘩をするような人ではなかった。国太さんは小金井に引っ越された。床屋の親爺さんは恰幅のいい人、人付き合いもよく如才ない、もっとも床屋で愛想のないのは好まれないが。
床屋の親爺は黙って頭を刈るタイプと何だか訳のわからないとりとめのない話をする人もいる。国太の親爺さんは後者で、ある日、浜畑賢吉さんと同級の高原さんのお父さんが国太床屋に行ったと思いなさい。
「旦那、最近面白いことを私が始めましてん、結構、これが楽しいんでネ」
「何ですか、それは」
「ええ、旦那もご存知でしょ、チンチロリン」
「それは知らないな」
「丼ばちにサイコロを入れてチンチロリンて音がしてね、それで勝負するんで」
「ホー、それがおもしろいんですか」
「面白いもなにも、病み付きになりますよ、どうです旦那も」
「いやあ、それは結構ですよ」
「そうですか、そりゃ残念ですな、ところで旦那のご商売は?」
「え、うん、警察官です」
「だは、今のはご内密に願います」
嘘のような本当の話だ。子供のころ聞いた話だがいまだに忘れない。
商店街の人たちが仮装行列ならぬトラックの荷台に菊人形ならぬ人間人形で、街中を流して歩いたことがあった。上馬には駒沢寄りに神谷という布団屋さんがあった、その娘さんが一級下で駒中で共に学んだ。利発な娘さんだった。眼がきらきらと輝いていた。野沢の商店街に庄司布団店があり、その主人が菊人形ならぬ人間人形で、お富さんの与三郎を扮してトラックの上で見得を切った。顔は三木のり平が眼鏡を外したようだった。
それでも結構義理の拍手を貰っていた。辻辻に知り合いでもいたのだろう。そのトラック行列も遠く霞んで消えた。あの頃の元気な商店主たちも皆滅びたことだろう。遠く霞んだトラックのように、二度と戻らないのがあの頃。
2011-04-07
2011-04-06
上馬の思い出7
子供だけに毎日何か面白いことはないかと探した。お祭りの露天商も楽しかったが銭がないとつまらない。商店街の催しの演芸はタダだけに始まる前から終るまでしがみついて見物した。
隣のフタバ電気のご主人が拡声器の設置からマイクのテストなどをしていた。「本日は晴天なり、ただいまマイクのテスト中」昔から変わらない音声試験、それを遠くで聞いて腕で○を作って知らせた。いっぱし役に立っている気分になれた。
SPレコードが回転し春日八郎のお富さんを繰り返し流した。針は鉄製だった。春日八郎は福島県会津坂下町の産、東洋音楽学校から江口夜詩(よし)に師事し昭和27年に、『赤いランプの終列車』で登場、昭和29年に飛ばしたのが「お富さん」、これは山崎正が作詞、作曲は渡久地政信、沖縄の産、最初歌手志望だったがキング(講談社)に移籍し作曲家として上海帰りのリルで爆発的ヒット、ディレクターの机の引き出しにしまいこまれたお富さんに作曲、これが空前の大ホームラン、春日八郎を知らないものはいないほどにさせた。その春日は67歳で死んだ。
生駒さんは春日八郎、三橋美智也のファンで、よく鼻歌を唄っていた。商店街の演芸に出た芸人で今でも覚えているのが暁伸とミスハワイ、これは夫婦漫才、売れないので易者に見てもらうと改名しろ、それで暁伸、それから当たりだすが、1951年、砂川捨丸・中村春代一座のアメリカ巡業に加えられ、立ち寄り先のハワイで見たフラやハワイアン・ミュージックからヒントを得て、独特の浪漫リズムを創案、帰国後コンビ名も『暁伸・ミスハワイ』に改めた。因みに、凱旋巡業では英単語混じりの浪曲漫才で売れ出すが、伸が喉を傷め大声を出せなくなったため、苦肉の策として、合いの手役のハワイが前にしゃしゃり出るスタイルに転向。ど派手なムームーに金髪パーマのカツラで、ヘチマ型のギロをこすり上げ、「行け!」、「いい声で歌わんかい!」と、伸をけしかけながら舞台狭しと立ち回り、甲高い声で「アイヤー、アイヤー」(ハワイ語で「さあ、行くぞ」の意味)を連発したところ、これが大受けを取るようになった。
恰幅の良いハワイが腰を振りつつ右往左往すれば、伸がその容姿を「♪立てばポストで、座ればだるま…」とこき下ろしながら、やおら「奥さん、明日も雨でンな」等と客いじりに移る、ペーソス溢れる芸風で一世を風靡した。オチは伸が「寝ぐらへ帰るダンプカー…」で締めた。
これは文句なしに面白かった。後年テレビに出るようになり、やはり誰が見ても面白い芸だと納得、暁が持つギターはアメリカ・テネシー州ナッシュビルのギブソン、世界のアーティスト垂涎の代物。
隣のフタバ電気のご主人が拡声器の設置からマイクのテストなどをしていた。「本日は晴天なり、ただいまマイクのテスト中」昔から変わらない音声試験、それを遠くで聞いて腕で○を作って知らせた。いっぱし役に立っている気分になれた。
SPレコードが回転し春日八郎のお富さんを繰り返し流した。針は鉄製だった。春日八郎は福島県会津坂下町の産、東洋音楽学校から江口夜詩(よし)に師事し昭和27年に、『赤いランプの終列車』で登場、昭和29年に飛ばしたのが「お富さん」、これは山崎正が作詞、作曲は渡久地政信、沖縄の産、最初歌手志望だったがキング(講談社)に移籍し作曲家として上海帰りのリルで爆発的ヒット、ディレクターの机の引き出しにしまいこまれたお富さんに作曲、これが空前の大ホームラン、春日八郎を知らないものはいないほどにさせた。その春日は67歳で死んだ。
生駒さんは春日八郎、三橋美智也のファンで、よく鼻歌を唄っていた。商店街の演芸に出た芸人で今でも覚えているのが暁伸とミスハワイ、これは夫婦漫才、売れないので易者に見てもらうと改名しろ、それで暁伸、それから当たりだすが、1951年、砂川捨丸・中村春代一座のアメリカ巡業に加えられ、立ち寄り先のハワイで見たフラやハワイアン・ミュージックからヒントを得て、独特の浪漫リズムを創案、帰国後コンビ名も『暁伸・ミスハワイ』に改めた。因みに、凱旋巡業では英単語混じりの浪曲漫才で売れ出すが、伸が喉を傷め大声を出せなくなったため、苦肉の策として、合いの手役のハワイが前にしゃしゃり出るスタイルに転向。ど派手なムームーに金髪パーマのカツラで、ヘチマ型のギロをこすり上げ、「行け!」、「いい声で歌わんかい!」と、伸をけしかけながら舞台狭しと立ち回り、甲高い声で「アイヤー、アイヤー」(ハワイ語で「さあ、行くぞ」の意味)を連発したところ、これが大受けを取るようになった。
恰幅の良いハワイが腰を振りつつ右往左往すれば、伸がその容姿を「♪立てばポストで、座ればだるま…」とこき下ろしながら、やおら「奥さん、明日も雨でンな」等と客いじりに移る、ペーソス溢れる芸風で一世を風靡した。オチは伸が「寝ぐらへ帰るダンプカー…」で締めた。
これは文句なしに面白かった。後年テレビに出るようになり、やはり誰が見ても面白い芸だと納得、暁が持つギターはアメリカ・テネシー州ナッシュビルのギブソン、世界のアーティスト垂涎の代物。
2011-04-05
上馬の思い出6
私の家は二軒長屋の二階建て、遠く瀬田まで眺めることができた。上馬の玉電停留所から6つ先の駅になる。一区間400㍍としても2キロも先だ。西日の当たる家で夕陽が富士山を照らし瀬田の森を黒々と映し出す。悪魔のような木だと思っていたもんだ。
隣の長屋には加藤さんという技工士がいた。慶応を出たと言っていたから慶応大学に歯学部があり技工師を養成したのだろう。
戦争で医師も歯科医師も不足して、技工師を短期養成して歯科医になった。あぶない歯科医の誕生だが、国家がそれを認めた。八戸に来て同様に衛生兵が外科医になったのを見た、あぶない医者だが結構はやっていた。世の中が落ち着くとその外科医もはやらなくなった。
私が生まれたのは昭和18年、小学校入学は昭和25年朝鮮動乱勃発の新聞を見た。何のことかわからなかった。
駒沢小学校によちよち通ったが、徒歩通学が辛くて玉電に無賃乗車をしてとっ捕まった話を書いたが、学校は楽しかった。子供の数が私たちから急激に増える、学校の施設が狭隘で生徒が入りきらない。どうしたかと言うと二部授業で、午前に登校するものと午後から登校するものに分れ、教室の有効活用。定時制授業のようなもの。
子供の頭は混乱する。近くの女の子が午後からの授業なのに、熱海湯の角を曲がって学校に行こうとする。生駒さんの家で遊んでいて、それを見つけて、大声で今日は午後からだよと教えたが、すたすたと歩いて行った。小さな身体に荷物が大きかった。
暫くするとヨタヨタしながら帰ってきた。その女の子は暫くして亡くなった。渡辺先生が葬式に行った話を子どもたちに聞かせた。空襲で死なずに生き残り、学校に行って死んでしまった。人生は何があるのかさっぱりわからないものだ。
右隣がフタバ電気で電気屋さん、お祭りがあると改正道路の歩道に小屋がけして商店街が芸人を集めた。芸人は商店街に買われたのだ。
その俄か小屋は近くのとび職、横溝さんが丸太を巧みに荒縄で縛って組み立てた。観客は改正道路に溢れて見るのだが、我々洟垂れは舞台の下に陣取って聞いていた。生意気にこの芸人は面白くないなどの批評をしていた。
その中には落語家の小金馬がいて、下手な腹話術などをしたもんだ、それが大看板の金馬を継いだ。もっともテレビ時代でNHKのお笑い三人組に出て名が売れ出した。生駒さんは小金馬をみて、こいつの兄弟子に凄いのがいたと教えてくれた。それが戦後間もなく一斉風靡した三遊亭 歌笑、笑いの水爆なんて珍奇な名前の持ち主、この人は進駐軍のジープにひかれてあっけなく死んだ。爆笑王の名を欲しいままにした。三平なんてのは大したことがない。この歌笑が創作した綴り方教室が柳亭痴楽に伝わり、これまた大ブームを呼んだ。この人の恋の山手線は傑作、上野をあとに池袋、走る電車は内回り、私は近頃外回り、彼女は綺麗なうウグイス芸者、ニッポリ笑ったあのエクボ、タバタを売っても命懸け、思うはあの子の事ばかり、我が胸の内コマゴメと、愛のスガモへ伝えたい、オオツカなびっくり度胸を定め、彼女に会いにイケブクロ、行けば男がメジロ押し、そんな女は駄目だよと、タカタノババァや新大久保のおじさん達の意見でも、シンジク聞いてはいられません、ヨヨギになったら家を出て、ハラジュク減ったとシブヤ顔、彼女に会えればエビス顔、親父が生きててメグロい内は、私もいくらかゴウタンダ、オオサキ真っ暗恋の鳥、彼女に贈るプレゼント、どんなシナガワ良いのやら、タマチィも宙に踊るよな、色良い返事をハママツチョウ、その事ばかりがシンバシで、誰に悩みをユウラクチョウ、思った私がすっトンキョウ、何だカンダの行き違い、彼女はとうにアキハバラ、ほんとにオカチな事ばかり、ヤマテは消えゆく恋でした、痴楽綴り方教室、この原型を作った歌笑のは豚の親子のキャベツ畑の夢、この人の活躍の頃を知らないがラジオで世間を大いに沸かせたという。生駒さんは良く知っていて、その解説はわかりやすく今でも覚えている。ラジオもNHKしかなく民放の開始は昭和26年12月東京放送が第一声を発した。
隣の長屋には加藤さんという技工士がいた。慶応を出たと言っていたから慶応大学に歯学部があり技工師を養成したのだろう。
戦争で医師も歯科医師も不足して、技工師を短期養成して歯科医になった。あぶない歯科医の誕生だが、国家がそれを認めた。八戸に来て同様に衛生兵が外科医になったのを見た、あぶない医者だが結構はやっていた。世の中が落ち着くとその外科医もはやらなくなった。
私が生まれたのは昭和18年、小学校入学は昭和25年朝鮮動乱勃発の新聞を見た。何のことかわからなかった。
駒沢小学校によちよち通ったが、徒歩通学が辛くて玉電に無賃乗車をしてとっ捕まった話を書いたが、学校は楽しかった。子供の数が私たちから急激に増える、学校の施設が狭隘で生徒が入りきらない。どうしたかと言うと二部授業で、午前に登校するものと午後から登校するものに分れ、教室の有効活用。定時制授業のようなもの。
子供の頭は混乱する。近くの女の子が午後からの授業なのに、熱海湯の角を曲がって学校に行こうとする。生駒さんの家で遊んでいて、それを見つけて、大声で今日は午後からだよと教えたが、すたすたと歩いて行った。小さな身体に荷物が大きかった。
暫くするとヨタヨタしながら帰ってきた。その女の子は暫くして亡くなった。渡辺先生が葬式に行った話を子どもたちに聞かせた。空襲で死なずに生き残り、学校に行って死んでしまった。人生は何があるのかさっぱりわからないものだ。
右隣がフタバ電気で電気屋さん、お祭りがあると改正道路の歩道に小屋がけして商店街が芸人を集めた。芸人は商店街に買われたのだ。
その俄か小屋は近くのとび職、横溝さんが丸太を巧みに荒縄で縛って組み立てた。観客は改正道路に溢れて見るのだが、我々洟垂れは舞台の下に陣取って聞いていた。生意気にこの芸人は面白くないなどの批評をしていた。
その中には落語家の小金馬がいて、下手な腹話術などをしたもんだ、それが大看板の金馬を継いだ。もっともテレビ時代でNHKのお笑い三人組に出て名が売れ出した。生駒さんは小金馬をみて、こいつの兄弟子に凄いのがいたと教えてくれた。それが戦後間もなく一斉風靡した三遊亭 歌笑、笑いの水爆なんて珍奇な名前の持ち主、この人は進駐軍のジープにひかれてあっけなく死んだ。爆笑王の名を欲しいままにした。三平なんてのは大したことがない。この歌笑が創作した綴り方教室が柳亭痴楽に伝わり、これまた大ブームを呼んだ。この人の恋の山手線は傑作、上野をあとに池袋、走る電車は内回り、私は近頃外回り、彼女は綺麗なうウグイス芸者、ニッポリ笑ったあのエクボ、タバタを売っても命懸け、思うはあの子の事ばかり、我が胸の内コマゴメと、愛のスガモへ伝えたい、オオツカなびっくり度胸を定め、彼女に会いにイケブクロ、行けば男がメジロ押し、そんな女は駄目だよと、タカタノババァや新大久保のおじさん達の意見でも、シンジク聞いてはいられません、ヨヨギになったら家を出て、ハラジュク減ったとシブヤ顔、彼女に会えればエビス顔、親父が生きててメグロい内は、私もいくらかゴウタンダ、オオサキ真っ暗恋の鳥、彼女に贈るプレゼント、どんなシナガワ良いのやら、タマチィも宙に踊るよな、色良い返事をハママツチョウ、その事ばかりがシンバシで、誰に悩みをユウラクチョウ、思った私がすっトンキョウ、何だカンダの行き違い、彼女はとうにアキハバラ、ほんとにオカチな事ばかり、ヤマテは消えゆく恋でした、痴楽綴り方教室、この原型を作った歌笑のは豚の親子のキャベツ畑の夢、この人の活躍の頃を知らないがラジオで世間を大いに沸かせたという。生駒さんは良く知っていて、その解説はわかりやすく今でも覚えている。ラジオもNHKしかなく民放の開始は昭和26年12月東京放送が第一声を発した。
2011-04-04
上馬の思い出5
美空ひばり2
美空ひばりを世に出したのが川田晴久、この人は52歳で亡くなった。昔は短命な人が多く、六十歳になると皆で長寿を祝ったものだ。上馬には横溝という地主がおられ、生駒さんの路地を入った先に大きな家を持っておられた。
そこの御爺さんが還暦になってお祝いをしたと聞いた。六十の御爺さんはどんな人かと垣根から覗いたことがあった。
広い縁側で陽光を浴びて背中の丸まった赤いチャンチャンコを着た人が座っていた。我々はその歳をとっくに過ぎた。いまだにそういう境涯には恵まれていないのは有難いような情けのないような気もする。あくせくしながら死んでしまうのだろう。
その横溝さんのご隠居の家作に三茶小の横山先生が居住されていたことがある。この先生に三、四。五年の三年間を教えていただいた。背の高い物腰の柔らかい人で、顎を撫でる癖がおありだった。三茶小の徽章は横山先生が考案されたもの。先生は没したが徽章はいまでも燦然と輝いている。
あの頃の六十歳は戦争も潜り関東大震災もかわして、ようよう六十を迎えたの感慨があったのだろう。我々世代は戦後の混乱の中でもがきながら生きてきた。それがいまだに抜けないのか、どうも品格に欠ける世代のような気がする。
さて、川田晴久のことだが、脊椎カリエスで動けなくなり、三島でお灸でそれを治療中に戦争が終り、こうしちゃいられないと芸能界に復帰、復員してきた兵隊の頭には慰問にきた浪花節が残っていて、戦後しばらくは浪花節全盛、これを巧みに取り入れてギターを抱えてのボーイズ、この向こうをはったのがガールズ、これがかしまし娘、ひばりは一本で売れる芸人、一人では売れないのは二人で一組として売れる。売れる売れないというのは興行先に使ってもらえるか否か、それで売れる売れないとなる。りんごも一個幾らと一山幾らの差だ。二人でも売れないのがボーイズ、ガールズとなる。
川田晴久が属していたあきれたぼーいずには坊屋三郎、益田喜頓がいた。これが解散して川田晴久とミルクブラザースになり戦争が激化、川田もお灸に明け暮れたが、ギター抱えてダイナブラザースで復活、それに美空を加えたとなる。美空ひばりは母親が売り出そうとのど自慢にも出演させるが鐘がならない。戦後一大ブームを巻き起こした笠置シズコのブギ、これを美空が歌ったのが子供らしくないと酷評、実力はあれど審査員など一部の大人が足を引っ張った。
ところが川田は実力のある者が世の中に出るのは当然と、世間の批評をどこ吹く風、美空を舞台に引き上げた。それを美空は終生恩義に感じた。川田は時代の波に乗った人、美空は時代を作った人、この差は歴然としている。
美空ひばりを世に出したのが川田晴久、この人は52歳で亡くなった。昔は短命な人が多く、六十歳になると皆で長寿を祝ったものだ。上馬には横溝という地主がおられ、生駒さんの路地を入った先に大きな家を持っておられた。
そこの御爺さんが還暦になってお祝いをしたと聞いた。六十の御爺さんはどんな人かと垣根から覗いたことがあった。
広い縁側で陽光を浴びて背中の丸まった赤いチャンチャンコを着た人が座っていた。我々はその歳をとっくに過ぎた。いまだにそういう境涯には恵まれていないのは有難いような情けのないような気もする。あくせくしながら死んでしまうのだろう。
その横溝さんのご隠居の家作に三茶小の横山先生が居住されていたことがある。この先生に三、四。五年の三年間を教えていただいた。背の高い物腰の柔らかい人で、顎を撫でる癖がおありだった。三茶小の徽章は横山先生が考案されたもの。先生は没したが徽章はいまでも燦然と輝いている。
あの頃の六十歳は戦争も潜り関東大震災もかわして、ようよう六十を迎えたの感慨があったのだろう。我々世代は戦後の混乱の中でもがきながら生きてきた。それがいまだに抜けないのか、どうも品格に欠ける世代のような気がする。
さて、川田晴久のことだが、脊椎カリエスで動けなくなり、三島でお灸でそれを治療中に戦争が終り、こうしちゃいられないと芸能界に復帰、復員してきた兵隊の頭には慰問にきた浪花節が残っていて、戦後しばらくは浪花節全盛、これを巧みに取り入れてギターを抱えてのボーイズ、この向こうをはったのがガールズ、これがかしまし娘、ひばりは一本で売れる芸人、一人では売れないのは二人で一組として売れる。売れる売れないというのは興行先に使ってもらえるか否か、それで売れる売れないとなる。りんごも一個幾らと一山幾らの差だ。二人でも売れないのがボーイズ、ガールズとなる。
川田晴久が属していたあきれたぼーいずには坊屋三郎、益田喜頓がいた。これが解散して川田晴久とミルクブラザースになり戦争が激化、川田もお灸に明け暮れたが、ギター抱えてダイナブラザースで復活、それに美空を加えたとなる。美空ひばりは母親が売り出そうとのど自慢にも出演させるが鐘がならない。戦後一大ブームを巻き起こした笠置シズコのブギ、これを美空が歌ったのが子供らしくないと酷評、実力はあれど審査員など一部の大人が足を引っ張った。
ところが川田は実力のある者が世の中に出るのは当然と、世間の批評をどこ吹く風、美空を舞台に引き上げた。それを美空は終生恩義に感じた。川田は時代の波に乗った人、美空は時代を作った人、この差は歴然としている。
2011-04-03
上馬の思い出4
美空ひばり
昭和12年横浜生まれの美空ひばりが売れ出したのは昭和23年、川田晴久が横浜国際劇場公演に使ったのが初め。川田晴久は川田義雄と名乗り、吉本興業であきれたぼーいずに参加、この人は東京根津の印刷屋の倅、テノールの美声、ぼーいずというのは楽器を持って登場し、こ洒落た文句を随所に入れて笑いをとるボードビリアン(寄席芸人)、伝統の落語・浪曲とは違うアチャラカで浅草がこの本場。
こうした芸能に詳しかったのが生駒さん、彼の家には講談全集があり、その面白さにひき込まれた。生駒さんの家は染物屋で熱海湯の前にあり、大きな家だった。染物は天日に曝すため、雨が苦手、そのため雨になると染物の反物をしまいこむ、それが屋根つきのひっぱりこみ。
学校の渡り廊下のようなもので、雨天でも遊べるガキ共の遊び場になった。生駒さんの店には長いカウンターがあり、そこに反物を拡げて染め具合を調べていた。大きなガラス戸があり、下半分が曇りガラスになっていた。
生駒さんの家には伝統の文化の臭いがあった。染物は着物、講談全集は芸能、また、道中差しが一本あった。これは幕末に武士ではない博徒や旅をする素人も持ったそうだ。大刀ほど長くなく脇差より長いものだ。
同様に刀があったのは米屋の松の木精米店、ここは中村さんと言う豪商の家、玉電通りにあった。いつもにこにこした痩せたお父さん、それから頭に丸い饅頭を載せた髪型のお母さん、この人は優しい人だった。見ている私らガキ共にも、「うちのクニオちゃんと遊んでくれてありがとう」と声をかけてくれた。
生活にゆとりがあったからだろう。実に品のいい笑顔の絶えない人だった。そんな中村さんのお父さんが亡くなった。
長男は青山学院に行っていたエイチャン、姉がソノコさん、ヒロシさんとクニオさんと4人兄弟だった。エイチャンはラグビーの選手だった。敏捷な体つきでいつもラグビーボールを抱えていた。私らには凄い兄貴分に見えたもんだ。
生駒さんのひっぱりこみの隣が白鳥さんの裏にあたり、空き地になっていた。晴れるとそこで何ということなしに遊んだ。
痩せたひょろひょろしたクルミの木が一本生えていた。三角ベースで野球をしたのを思い出す。毎日遊ぶのが仕事だった。自分のことしか考えていない。誰しも子供は皆同じだ。時代がどのように移ろうとも、自分のことだけ考えている時間は楽しいもんだ。長じて学校や勉強、就職に仕事と面倒なことが波のように襲ってくる。
それも定年退職した今となると、昔のあの子供の頃と同じで自分のことだけ考えていればいい。少し違うのは、あの頃は銭がなくても面白かったが、今は銭がないと時間つぶしができない。でも、これも発想の転換で図書館やゲートボールで遊べば、銭なくしても楽しめる、でも大きく違うのは木登りが出来ない、走れないと肉体の衰えが我が身の歳を教える。めっきり皺と白髪が増えたもんだ。
エイチャンにねだって空き地でラグビーボールを蹴ってもらった。蹴れば改正道路まで飛ぶといわれた。拾いに行くからと渋るエイチャンに更にねだった。
エイチャンが蹴った。ボールはすぐに見えなくなった。生駒さんの屋根を飛び越えた。皆でボールを探しに行った。熱海湯の前にボールはあった。
エイチャンはぼくらの英雄になった。エイチャンは美男子で鼻筋の通った人、弟のヒロシさんも白人のような鼻筋が高かった。一番下のクニオさんも男前だった。一人娘のソノコさんも宵闇に咲く月見草のような風情があった。
中村一族、松の木精米店、いつも玄米を精米するさらさらという音が店内に響いて活況を示していた。
それが小泉総理の時に規制緩和で誰でもが米と酒を売ることができるようになり、酒屋と米屋は金持ちの代名詞から廃業店へと変えさせられた。
世の中は悪くなっているのではないのだろうか。
我々は孫子に誇れる町を引き渡しているのだろうか。
生駒さんのタケちゃんは芸能に詳しかった。兄さんがいてカズオさんと言った。中学に入って猛勉強し青山高校に進学した。タケちゃんの家にある画報で世の中のことが少しずつ判った。美空ひばりのことも川田晴久のことも教えてもらった。
川田晴久の「地球の上に朝が来る」は浪曲の文句を真似したんだと言われて、ヘー、浪曲の三味線がギターにとびっくりした。ラジオから流れる川田の声に耳を傾けた。
蜂ぶどう酒が提供のラジオの時間をエーイ楽しみにと言う文句に、なるほどタケちゃんが言う通り、これは浪花節だと思った。
昭和12年横浜生まれの美空ひばりが売れ出したのは昭和23年、川田晴久が横浜国際劇場公演に使ったのが初め。川田晴久は川田義雄と名乗り、吉本興業であきれたぼーいずに参加、この人は東京根津の印刷屋の倅、テノールの美声、ぼーいずというのは楽器を持って登場し、こ洒落た文句を随所に入れて笑いをとるボードビリアン(寄席芸人)、伝統の落語・浪曲とは違うアチャラカで浅草がこの本場。
こうした芸能に詳しかったのが生駒さん、彼の家には講談全集があり、その面白さにひき込まれた。生駒さんの家は染物屋で熱海湯の前にあり、大きな家だった。染物は天日に曝すため、雨が苦手、そのため雨になると染物の反物をしまいこむ、それが屋根つきのひっぱりこみ。
学校の渡り廊下のようなもので、雨天でも遊べるガキ共の遊び場になった。生駒さんの店には長いカウンターがあり、そこに反物を拡げて染め具合を調べていた。大きなガラス戸があり、下半分が曇りガラスになっていた。
生駒さんの家には伝統の文化の臭いがあった。染物は着物、講談全集は芸能、また、道中差しが一本あった。これは幕末に武士ではない博徒や旅をする素人も持ったそうだ。大刀ほど長くなく脇差より長いものだ。
同様に刀があったのは米屋の松の木精米店、ここは中村さんと言う豪商の家、玉電通りにあった。いつもにこにこした痩せたお父さん、それから頭に丸い饅頭を載せた髪型のお母さん、この人は優しい人だった。見ている私らガキ共にも、「うちのクニオちゃんと遊んでくれてありがとう」と声をかけてくれた。
生活にゆとりがあったからだろう。実に品のいい笑顔の絶えない人だった。そんな中村さんのお父さんが亡くなった。
長男は青山学院に行っていたエイチャン、姉がソノコさん、ヒロシさんとクニオさんと4人兄弟だった。エイチャンはラグビーの選手だった。敏捷な体つきでいつもラグビーボールを抱えていた。私らには凄い兄貴分に見えたもんだ。
生駒さんのひっぱりこみの隣が白鳥さんの裏にあたり、空き地になっていた。晴れるとそこで何ということなしに遊んだ。
痩せたひょろひょろしたクルミの木が一本生えていた。三角ベースで野球をしたのを思い出す。毎日遊ぶのが仕事だった。自分のことしか考えていない。誰しも子供は皆同じだ。時代がどのように移ろうとも、自分のことだけ考えている時間は楽しいもんだ。長じて学校や勉強、就職に仕事と面倒なことが波のように襲ってくる。
それも定年退職した今となると、昔のあの子供の頃と同じで自分のことだけ考えていればいい。少し違うのは、あの頃は銭がなくても面白かったが、今は銭がないと時間つぶしができない。でも、これも発想の転換で図書館やゲートボールで遊べば、銭なくしても楽しめる、でも大きく違うのは木登りが出来ない、走れないと肉体の衰えが我が身の歳を教える。めっきり皺と白髪が増えたもんだ。
エイチャンにねだって空き地でラグビーボールを蹴ってもらった。蹴れば改正道路まで飛ぶといわれた。拾いに行くからと渋るエイチャンに更にねだった。
エイチャンが蹴った。ボールはすぐに見えなくなった。生駒さんの屋根を飛び越えた。皆でボールを探しに行った。熱海湯の前にボールはあった。
エイチャンはぼくらの英雄になった。エイチャンは美男子で鼻筋の通った人、弟のヒロシさんも白人のような鼻筋が高かった。一番下のクニオさんも男前だった。一人娘のソノコさんも宵闇に咲く月見草のような風情があった。
中村一族、松の木精米店、いつも玄米を精米するさらさらという音が店内に響いて活況を示していた。
それが小泉総理の時に規制緩和で誰でもが米と酒を売ることができるようになり、酒屋と米屋は金持ちの代名詞から廃業店へと変えさせられた。
世の中は悪くなっているのではないのだろうか。
我々は孫子に誇れる町を引き渡しているのだろうか。
生駒さんのタケちゃんは芸能に詳しかった。兄さんがいてカズオさんと言った。中学に入って猛勉強し青山高校に進学した。タケちゃんの家にある画報で世の中のことが少しずつ判った。美空ひばりのことも川田晴久のことも教えてもらった。
川田晴久の「地球の上に朝が来る」は浪曲の文句を真似したんだと言われて、ヘー、浪曲の三味線がギターにとびっくりした。ラジオから流れる川田の声に耳を傾けた。
蜂ぶどう酒が提供のラジオの時間をエーイ楽しみにと言う文句に、なるほどタケちゃんが言う通り、これは浪花節だと思った。
2011-04-02
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