ラジオに齧りついていた頃、東京放送で竹脇昌作ってアナウンサーが独特な語り口で「東京ダイヤル」のパーソナリティーをしていた。これに痺れたのが生駒君、竹脇は渋谷のパンテオンの地下に10円で観れるニュースだけを見せる映画館があり、同じフィルムを何度も見た。そのニュースのアナに竹脇がでると、途端に観衆がどっと沸く。それほど絶大な人気を得た人。
この人の倅が竹脇無我、温厚な感じで森繁と親子競演のテレビが人気になった。この無我氏は鬱病を患いしばらく仕事を休んでいた。親の昌作氏は48歳で自殺された。体調が思わしくなく、マダムキラーと呼ばれた看板番組も芥川隆行と交替、復帰も考えていたが、無収入で税金が支払えずそれを苦にしたと言われる。
インターネットで竹脇昌作の声を探した。あった、名調子を共に味わっていただきます。生駒君が見てくれると嬉しいのだが…。
あの埃くさい駒中の渡り廊下ですれ違うたびに「東京ダイヤル、竹脇昌作です」と言い合ったのを思い出す。
ラジオなしに中学時代を語れない。ラジオこそ世間を繋ぐ一筋道、いいことも悪いこともラジオから学んだ。エルビスの歌もダイアナのポールアンカも、皆、このラジオから飛び出してきた。音声だけだったが、それでも充分に楽しかった。それが、昨今は映像までインターネットで見られる。長生きはするもんだ。毛利君という駒中きっての秀才がいた。人品骨柄まことに供わった人、新宿高校から東大、そして朝日新聞、柳君が中学の時代に毛利君が書いた作文を見せてくれた。それは立派なもので大学生でも書けるだろうかと思うほど、まことに秀才の名に恥じぬ人、多くの同級生の女子の心をときめかせた。
色男で優秀、それも人も羨むような一流会社、さぞかしおもしろおかしい人生を送ったと思うが、世の中は不思議、ソ連が崩壊したとき、前途を悲観して自殺された。余りに頭のいい人物の考えることは凡人には理解しがたい。
中学生のとき、毛利君と擦れ違った。後ろに護衛の菊池君がついていた。「オイ、毛利」と声をかえたら、菊池君が割って入り、「毛利さんと言え、毛利さんと」と凄んだ。何を言っているのかと顔を見ていると、毛利君が「いいんだ、こいつはいいんだ」と声をかけた。菊池君は不承不承、渋面をつくったがそれきりだった。あんなに慕われていた毛利君が死んだ。牧山君は葬儀に出たという。惜しい人材だった。
2011-06-13
2011-06-12
駒中の話15
中根君と一年生の時同じクラスだった。少し向こう気の強い子で負けん気を見せる。それでも決して嫌な印象を与えることはなかった。綿貫真也君という中学校の脇にある都営住宅に住む子が級長、その子はハキハキとして利発、運動神経も良く200メートル走で良い成績を出した。三軒茶屋の仲見世に天麩羅屋があり、そこに中村君という一塁手がいた。この子は名手で帝京高校へ進学、その後がどうなったかを野球の原君に訊いてもサッパリだ。にこっとすると正に破顔一笑で、この笑顔に勝てる者はいなかった。狭い店の二階から顔を出し、仲見世を歩く人を眺め、友達に手を振った。
三茶を通ると中村君の店とおぼしきあたりに立つが、本当にここだったかと疑問になる。時間は流れ、確かに居た中村君の消息もわからない。戦後間もなくの頃、NHKのラジオが「尋ね人の時間」を放送、陸軍○○部隊の▲さんをご存知の方は…と流れていた。
戦争もなかったが、一度離れ離れになると、なかなか逢えないものだ。この様な放送があればとも思うが、インターネットがその役を果せそうな気にもなるが、それは無理。年寄りはインターネットをしない。
そうすると、このもどかしさは我々どまりかも、というのは、若い子は達者にパソコンを操作、ブログを利用し知りたい情報を手に入れることだろう。
三茶商店街の天麩羅屋の倅、中村文夫さんをご存知の方は連絡願いますで、直ぐに消息が知れることだろう。わからないからこそ、恋しいのかも知れない。逢ったとて、何を語らなければならぬのでもないが、とにかく逢いたい気持ちが先に出る。おかしなものだ。
三茶の商店街で油にまみれて働いた親たち、あんなに賑やかだった仲見世も中村君の店が見えなくなって寂れてきた。
葛飾区に立石というところがあり、駅前商店街が鉄路の左右にあるが、仲見世の方はすっかり灯が消えたようになった。まるで三茶のようだと嘆いている。
さて、中根君の家は世田谷通りの若林交差点の近くだったような気がする。柳文房具店の裏手だったようだが、アーチャン、土屋さんい訊いてもわからないという。柳君夫婦に訊けばわかるのだが、最近は顔出しをしていない。柳君は駒中の同窓会の幹事をされており、その同窓会は来年開かれるという。同窓会には多くの人が集まりそうだが、そうでもない。何か企画がなければ全員がそれっと集まることは難しい。年代・世代を超えて熱くなるような仕掛というのを考案するのは難しい。
中根君の家は質屋を営業していた。「お金の中根」だ。中根君は性能のいい写真機を持っていた。林間学校で日光に行ったとき、綿貫君と中根君と共に写真におさまったことがあった。その写真も持っているはずだが、度重なる転居で見当たらない。確かにあったのだが、今はない。まるで三茶仲見世の商店街だ。
中村君は綿貫君の名をメンカン・シンセイと読んで「この人は中国人だと思った」と語ったことがあった。中学一年生だもの、こうした間違いもある。その中根君も亡くなったという。四十代とも聞こえてきた。
三茶を通ると中村君の店とおぼしきあたりに立つが、本当にここだったかと疑問になる。時間は流れ、確かに居た中村君の消息もわからない。戦後間もなくの頃、NHKのラジオが「尋ね人の時間」を放送、陸軍○○部隊の▲さんをご存知の方は…と流れていた。
戦争もなかったが、一度離れ離れになると、なかなか逢えないものだ。この様な放送があればとも思うが、インターネットがその役を果せそうな気にもなるが、それは無理。年寄りはインターネットをしない。
そうすると、このもどかしさは我々どまりかも、というのは、若い子は達者にパソコンを操作、ブログを利用し知りたい情報を手に入れることだろう。
三茶商店街の天麩羅屋の倅、中村文夫さんをご存知の方は連絡願いますで、直ぐに消息が知れることだろう。わからないからこそ、恋しいのかも知れない。逢ったとて、何を語らなければならぬのでもないが、とにかく逢いたい気持ちが先に出る。おかしなものだ。
三茶の商店街で油にまみれて働いた親たち、あんなに賑やかだった仲見世も中村君の店が見えなくなって寂れてきた。
葛飾区に立石というところがあり、駅前商店街が鉄路の左右にあるが、仲見世の方はすっかり灯が消えたようになった。まるで三茶のようだと嘆いている。
さて、中根君の家は世田谷通りの若林交差点の近くだったような気がする。柳文房具店の裏手だったようだが、アーチャン、土屋さんい訊いてもわからないという。柳君夫婦に訊けばわかるのだが、最近は顔出しをしていない。柳君は駒中の同窓会の幹事をされており、その同窓会は来年開かれるという。同窓会には多くの人が集まりそうだが、そうでもない。何か企画がなければ全員がそれっと集まることは難しい。年代・世代を超えて熱くなるような仕掛というのを考案するのは難しい。
中根君の家は質屋を営業していた。「お金の中根」だ。中根君は性能のいい写真機を持っていた。林間学校で日光に行ったとき、綿貫君と中根君と共に写真におさまったことがあった。その写真も持っているはずだが、度重なる転居で見当たらない。確かにあったのだが、今はない。まるで三茶仲見世の商店街だ。
中村君は綿貫君の名をメンカン・シンセイと読んで「この人は中国人だと思った」と語ったことがあった。中学一年生だもの、こうした間違いもある。その中根君も亡くなったという。四十代とも聞こえてきた。
2011-06-11
三茶小の話16
裏門の近くに森戸さんの家があり、そこはお医者さん、その近くに凸型レンズを使って金属に文字を掘り込む作業場があった。朝板に並べた凸レンズと金属板をしっかり固定し、日の出ている間、それを並べている。酸で処理をするのか、いつも、その工場からは水が流れ出ていた。
森戸さんは同じクラス、大人しい子でいつも居るのか居ないのかがわからないほど。それでも勉強になるとハキハキと答えていた。あんじみよこという珍しい名前の子がいて、その子の家は中野君の家から改正道路を少し下ったところにあり、前が竹内鉄工所。生垣のある大きな家だった。
6年生の時、雪が降って体操の授業に雪合戦をした。あんじさんは雪を固めて玉を作った。それを男の子が投げ合ったのだが、あのころは結構寒く、地球温暖化などは夢のまた夢、こうした嘆きが来るとは少しも知らない。寒かったけどあの頃は楽しかった。暖房も火鉢しかなかったけど、子供は風の子で手袋もせずにはしゃいで廻った。
及川さんという子がキスノ君の家の近くにいて、この子の笑顔がとても可愛いかった。最近八千草薫っていう往年の女優が、健康食品のCMに出ているが、この女優の笑顔に及川さんが重なる。随分と逢っていないけど、変らぬ笑顔を見せていることだろう。キスノ君が死んだことをアーチャンに伝えてもらった。
友達が死ぬのは淋しいことだ。まして、死んで半年も経って知ったのはより淋しいものだ。生きていると何時でも逢えるような気になるけど、何時でも逢えるは何時も逢えないでもある。
同期会のチャンスを逃すことなく、逢っておきたい人との会話を楽しみたいものだ。あれがどうして、これがこうなってと、記録にも残らない記憶だけが頼りの話を。
キスノ君が生きてる頃、同期会の連絡で電話すると女房が出て、ひとくさり最近の出来事を批判がましく言う。聞くのに疲れを感ずるほどだが、死んでから電話したら、「あんないい人はいなかった」と、変われば変るもの。
女房と喧嘩ばかりしている人も、死ぬといい人になれる。もっとも死ねば仏になれる。仏ほっとけ、神かまうなって俚諺もある。死んでからいい人なんて言われないように、生きているうちから女房に孝行を尽くすべきかな。
森戸さんは同じクラス、大人しい子でいつも居るのか居ないのかがわからないほど。それでも勉強になるとハキハキと答えていた。あんじみよこという珍しい名前の子がいて、その子の家は中野君の家から改正道路を少し下ったところにあり、前が竹内鉄工所。生垣のある大きな家だった。
6年生の時、雪が降って体操の授業に雪合戦をした。あんじさんは雪を固めて玉を作った。それを男の子が投げ合ったのだが、あのころは結構寒く、地球温暖化などは夢のまた夢、こうした嘆きが来るとは少しも知らない。寒かったけどあの頃は楽しかった。暖房も火鉢しかなかったけど、子供は風の子で手袋もせずにはしゃいで廻った。
及川さんという子がキスノ君の家の近くにいて、この子の笑顔がとても可愛いかった。最近八千草薫っていう往年の女優が、健康食品のCMに出ているが、この女優の笑顔に及川さんが重なる。随分と逢っていないけど、変らぬ笑顔を見せていることだろう。キスノ君が死んだことをアーチャンに伝えてもらった。
友達が死ぬのは淋しいことだ。まして、死んで半年も経って知ったのはより淋しいものだ。生きていると何時でも逢えるような気になるけど、何時でも逢えるは何時も逢えないでもある。
同期会のチャンスを逃すことなく、逢っておきたい人との会話を楽しみたいものだ。あれがどうして、これがこうなってと、記録にも残らない記憶だけが頼りの話を。
キスノ君が生きてる頃、同期会の連絡で電話すると女房が出て、ひとくさり最近の出来事を批判がましく言う。聞くのに疲れを感ずるほどだが、死んでから電話したら、「あんないい人はいなかった」と、変われば変るもの。
女房と喧嘩ばかりしている人も、死ぬといい人になれる。もっとも死ねば仏になれる。仏ほっとけ、神かまうなって俚諺もある。死んでからいい人なんて言われないように、生きているうちから女房に孝行を尽くすべきかな。
2011-06-10
駒中の話14
真中パンの前側に角田米屋があり、そこの次男坊にみっちゃんという笑顔の綺麗な子がいて、一年生の時同じクラスだった。この子は何となく外人ぽかった。そこでロバート・ミッチャムとあだ名をつけた。本人もいたく気にいっていた。そのロバート・ミッチャムが大当たりの映画に出た。それが「眼下の敵」、この映画をみてからすっかり潜水艦映画のとりこになった。ショーンコネリーの「レッドオクトーバー」も良かったが、「眼下の敵」の構成にはかなわない。爆雷を落とす水兵がヘマをして指を切断、「これで除隊ができるな、ところで職業は何?」「時計の修理工です」のフレーズに残酷さが出ている。戦争なんてないほうがいい。市民が否応なしに狩り出される。そして防具もつけずに殺しあうのだ。
この映画は1958年、みっちゃんのミッチャムの頃は、撮影中。
生駒さんにみっちゃんのことをミッチャムに似ているかと聞いたことがあった。本人が傍にいたので生駒さんは似ているといったが、雰囲気はピッタリだと思う。
その駆逐艦の艦長をミッチャムは好演、歴史に残る名作となった。米屋のみっちゃんはその後どうしたのだろうか。ロバート・ミッチャムの名を聞くと米屋のみっちゃんを思い出す。人なつっこい笑顔のみっちゃん、笑うと眼が細くなって、それが可愛らしさを際立たせた。
昔は映画を見るには映画館に行くしかなかった。それがビデオが出て借りて家で見れるようになった。ところがDVDになり、一枚100円で借りられる。それもHDDに入れられて、2テラのHDDには300本入る。これにこって1000本をHDDを買い足し、DVDを借り足しして達成。
もちろん「眼下の敵」も入っている。みっちゃんとは逢えないがミッチャムとは取り出せばいつもの顔で好演する。DVDは面白いものだ。頭マシッロになったが、いい時代を迎えられた。上馬にメトロという映画館があったが、今は駐車場、そこにあったのは映写機と椅子、映画のフィルムは借りていた。
1000本のフィルムを持っていると言ったら、その当時の人々は信用するだろうか、でも、本当のことだ。
プレスリーはマイケルジャクソンの上を行っていたんだとつくずく思う、今はインターネットの時代、ハウンドドッグの腰の振り方を当時の映像で確かめることができる。昔は写真でしか確認できなかったが、今は動画だ。時代の変遷、面白い世の中になった。類推・憶測など不要、知りたいことがいつでも手にできるが、エルビス・プレスリーは42歳で死んだ。名誉と金を手にしても、この時代の変遷を知らずに死んだ。もっとも、酒もやらずにタバコものまず百まで生きたバカも居るという諺もあり、まずいもの食って嫌々長生きするのと、美味い物たらふく食って直ぐ死ぬのとどちらがいいかは判断しだい。
それにつけても、インターネット、「ビーバップルーラ」のジーン・ビンセントが片足不自由だったとは知らなかった。あの頃インターネットがあれば、牧山君も私も寝る間を惜しんでエルビスを追いかけたろう。また、ヒット曲も山ほどあった。いい男で全米の姉ちゃんたちがキャアキャア言ったのもわかる。
この映画は1958年、みっちゃんのミッチャムの頃は、撮影中。
生駒さんにみっちゃんのことをミッチャムに似ているかと聞いたことがあった。本人が傍にいたので生駒さんは似ているといったが、雰囲気はピッタリだと思う。
その駆逐艦の艦長をミッチャムは好演、歴史に残る名作となった。米屋のみっちゃんはその後どうしたのだろうか。ロバート・ミッチャムの名を聞くと米屋のみっちゃんを思い出す。人なつっこい笑顔のみっちゃん、笑うと眼が細くなって、それが可愛らしさを際立たせた。
昔は映画を見るには映画館に行くしかなかった。それがビデオが出て借りて家で見れるようになった。ところがDVDになり、一枚100円で借りられる。それもHDDに入れられて、2テラのHDDには300本入る。これにこって1000本をHDDを買い足し、DVDを借り足しして達成。
もちろん「眼下の敵」も入っている。みっちゃんとは逢えないがミッチャムとは取り出せばいつもの顔で好演する。DVDは面白いものだ。頭マシッロになったが、いい時代を迎えられた。上馬にメトロという映画館があったが、今は駐車場、そこにあったのは映写機と椅子、映画のフィルムは借りていた。
1000本のフィルムを持っていると言ったら、その当時の人々は信用するだろうか、でも、本当のことだ。
プレスリーはマイケルジャクソンの上を行っていたんだとつくずく思う、今はインターネットの時代、ハウンドドッグの腰の振り方を当時の映像で確かめることができる。昔は写真でしか確認できなかったが、今は動画だ。時代の変遷、面白い世の中になった。類推・憶測など不要、知りたいことがいつでも手にできるが、エルビス・プレスリーは42歳で死んだ。名誉と金を手にしても、この時代の変遷を知らずに死んだ。もっとも、酒もやらずにタバコものまず百まで生きたバカも居るという諺もあり、まずいもの食って嫌々長生きするのと、美味い物たらふく食って直ぐ死ぬのとどちらがいいかは判断しだい。
それにつけても、インターネット、「ビーバップルーラ」のジーン・ビンセントが片足不自由だったとは知らなかった。あの頃インターネットがあれば、牧山君も私も寝る間を惜しんでエルビスを追いかけたろう。また、ヒット曲も山ほどあった。いい男で全米の姉ちゃんたちがキャアキャア言ったのもわかる。
2011-06-09
駒中の話13
磯崎みどりさんという沈まない太陽のような人がいる。こうした存在感のある人をたまにみかける。気さくで面倒見がよく他人のことでも放っておけない、いわゆる下町気質というのか肝っ玉かあさんというのか、ともかく女としては最高の部類に属する。
磯崎さんい元気をお出しヨと言われ背中をポンと叩かれれば、嫌なことや気になることなど途端に飛んで行ってしまう。
テレビの世界なら京塚昌子さんの役割だ。ともかくこせこせしない。人一倍嬉しがりやで、人情にもろい。三茶育ちという言葉があれば、この人こそ、それに相応しいだろう。この人は熱海湯の裏手におられた。近くには粕谷君、松成君などがいた。駒小に通学しておられ、小学校のころから存在感があった。中学生になっても、男の生徒が弱い者いじめをしているのを見ると、つかつかと寄って「いじめるんじゃないヨ」と平気で言う度胸のある人。
だからと言ってでしゃばることもない、つつましやかなところもあり、硬軟使い分けるというか、理不尽なことを眼にすると我慢ができないというのか、下町の人情を地で行く人。
同期会でも遠くにいても、ああ、おられると思うだけでほっとさせるものをお持ちだ。これを人間の徳といわずに何と表現するのだろうか。
東急のバスの車掌を務められた。昨今のバスはワンマン、むくつけき男が気の利かない案内をムスっとして車内に流す。昔は美人の車掌が大勢いたもんだ。今は時代が悪くなった。大井町にお住まいで、ここも下町、幾つになっても雀百まで踊り忘れずで、磯崎さんの沈まない太陽は周囲を明るく照らしているのだろう。
大井町、磯崎なんて名前を聞くと直ぐに思い出される。しばらくお逢いしていない。同期会というのは普段逢いたいなと思う人と声をかわすところに良いところがある。別段特別に伝えなければならないこともないのだが、どうしてる? 元気?なんて、とりとめのない話に無沙汰を詫びる気持ちがこめられている。
上馬停留所から真中に向かい、右側に平河屋というそばやがある。そこを右に折れると二股に道、それを左にとると伏黒さんの板金屋があった。そこの娘さんが三年生のとき同じクラス、同期会に彼女は遅れてきて、松井ちえさんと逢った。そのとき彼女は抱きついて泣いた。気のいい人なのだろう。松井さんは彼女の家から四、5軒先、幼馴染なのだ。松井さんいは弟がいて、剣道をやっていた。なかなか敏捷で、先の頼もしい子だったが、そのうち剣道はしなくなったそうだ。伏黒さんの家の近くからは引っ越した。それゆえ彼女は逢えて嬉しかったのだろう。人情の風はこうした、ふとした折に吹くもので、それがまた嬉しいものだ。
茶々若が担任だった二年生の遠足で、バスの中で宮沢さんがプレスリーのラブミーテンダーを歌った。煌めいた眼の賢い子だったが、その後をどうすごされたかを知らない。三年間押し込められた駒中をそれぞれが信ずる方向に飛び出していった。放された鳩か、猟犬のように、そして、今は人生の最終コーナー、どれもこれも懐かしく、あれもこれも知らないことだらけだ。
磯崎さんい元気をお出しヨと言われ背中をポンと叩かれれば、嫌なことや気になることなど途端に飛んで行ってしまう。
テレビの世界なら京塚昌子さんの役割だ。ともかくこせこせしない。人一倍嬉しがりやで、人情にもろい。三茶育ちという言葉があれば、この人こそ、それに相応しいだろう。この人は熱海湯の裏手におられた。近くには粕谷君、松成君などがいた。駒小に通学しておられ、小学校のころから存在感があった。中学生になっても、男の生徒が弱い者いじめをしているのを見ると、つかつかと寄って「いじめるんじゃないヨ」と平気で言う度胸のある人。
だからと言ってでしゃばることもない、つつましやかなところもあり、硬軟使い分けるというか、理不尽なことを眼にすると我慢ができないというのか、下町の人情を地で行く人。
同期会でも遠くにいても、ああ、おられると思うだけでほっとさせるものをお持ちだ。これを人間の徳といわずに何と表現するのだろうか。
東急のバスの車掌を務められた。昨今のバスはワンマン、むくつけき男が気の利かない案内をムスっとして車内に流す。昔は美人の車掌が大勢いたもんだ。今は時代が悪くなった。大井町にお住まいで、ここも下町、幾つになっても雀百まで踊り忘れずで、磯崎さんの沈まない太陽は周囲を明るく照らしているのだろう。
大井町、磯崎なんて名前を聞くと直ぐに思い出される。しばらくお逢いしていない。同期会というのは普段逢いたいなと思う人と声をかわすところに良いところがある。別段特別に伝えなければならないこともないのだが、どうしてる? 元気?なんて、とりとめのない話に無沙汰を詫びる気持ちがこめられている。
上馬停留所から真中に向かい、右側に平河屋というそばやがある。そこを右に折れると二股に道、それを左にとると伏黒さんの板金屋があった。そこの娘さんが三年生のとき同じクラス、同期会に彼女は遅れてきて、松井ちえさんと逢った。そのとき彼女は抱きついて泣いた。気のいい人なのだろう。松井さんは彼女の家から四、5軒先、幼馴染なのだ。松井さんいは弟がいて、剣道をやっていた。なかなか敏捷で、先の頼もしい子だったが、そのうち剣道はしなくなったそうだ。伏黒さんの家の近くからは引っ越した。それゆえ彼女は逢えて嬉しかったのだろう。人情の風はこうした、ふとした折に吹くもので、それがまた嬉しいものだ。
茶々若が担任だった二年生の遠足で、バスの中で宮沢さんがプレスリーのラブミーテンダーを歌った。煌めいた眼の賢い子だったが、その後をどうすごされたかを知らない。三年間押し込められた駒中をそれぞれが信ずる方向に飛び出していった。放された鳩か、猟犬のように、そして、今は人生の最終コーナー、どれもこれも懐かしく、あれもこれも知らないことだらけだ。
2011-06-08
駒中の話12
三年生の時、牧山君の担任は辻先生、数学の教師で指導熱心、いつも物事を正しく見ておられた。生徒の能力をいかに高めるかに苦心をされていたように見えた。三年生の時、私の担任は大国先生、このクラスに庄子君がいた。数学の得意な人で試験が終ると早速辻先生のところに行き、自分の採点結果を訊いていた。私は数学も得意でなう、気後れしながら庄子君に誘われるまま職員室に向かった。
得手不得手を見定め、それを伸ばす努力を庄子君はされ、横浜国立大の造船に進み、自衛隊に入られ大佐まで昇進したのを見た。それは同期会で知ったのだが、その後は知らない。オームのサリン事件の時だった。庄子君の父君も海軍に行かれた。戦争で亡くなり美人の母親と祖母に育てられた。立派な屋敷で長押に槍がかかっていた。
学問で身を立てる、この言葉を見るたび庄子君を思い出す。自身の得手を伸ばし、それを持って世に出て、駆逐艦を設計し、それを海に浮かべた。造船技師としては最高な栄誉。
若い頃から自分の才能を信じまっしぐらにそれに向かった庄子君は立派だった。
そして、数学好きな生徒を育てられた辻先生の教育熱心に脱帽する。この先生も戸田先生と同じく生徒に気配り目配り心配りをされた。
学校は楽しくはなかったが、こうした先生を見ることができたのは幸せであった。だから卒業しても、戸田先生にお目にかかったとき、先生は立派な先生でしたと礼の言葉が言えた。これもありがたいことだ。
人生は多くの人に支えられてある。自分一人で勝手にやってきたような気になるが、それは間違いだ。その世話になった一人ひとりに私たちはありがとうの感謝の言葉を伝えることができたのだろうか。
先生方もご高齢におなりで、同期会にお呼びすることを憚るようになった。しかし、ありがとうの言葉は伝えなくてはならない。それが直接口から出ずとも、文章につづればそれでもいい。嫌な教師も確かにいたが、それはサラリーマン教師で、心から生徒のことを考えていない。それを敏感に中学生が感じていたのだ。
高安軍治君は眼のクリクリとした利発そうな子で、いつも笑顔を絶やさなかった。この人はどういう不遇の風の下にいたのか、天理教の教会におられた。中学を卒業して四年目だかに、秋葉原に友人とでかけたことがあった。そのとき不二家だと思うが喫茶店に入った。背の伸びた高安君が銀のお盆を持っていらっしゃいませと客を迎えていた。すると、高安君がそこの勘定を代払いしてくれた。つまり高安君におごってもらった。それっきり、あれから五十年も経って、借りがそのまま残っている。去年、土屋さんに高安君の住所を教えてもらいはがきを書いた。借金が残っているので、おごってお返しをしたいので連絡下さいと。しかし、妙なことをされるのではなかろうかと警戒したのか、返事はなかった。これもまた借りになったままだ。
小さな親切が忘れられないのだ。高安君とて高給をとっていた訳もなく、たまたま顔見知りが入店し、気をつかって金まで使ったわけだが、それが今でも心に残る借金となった。
得手不得手を見定め、それを伸ばす努力を庄子君はされ、横浜国立大の造船に進み、自衛隊に入られ大佐まで昇進したのを見た。それは同期会で知ったのだが、その後は知らない。オームのサリン事件の時だった。庄子君の父君も海軍に行かれた。戦争で亡くなり美人の母親と祖母に育てられた。立派な屋敷で長押に槍がかかっていた。
学問で身を立てる、この言葉を見るたび庄子君を思い出す。自身の得手を伸ばし、それを持って世に出て、駆逐艦を設計し、それを海に浮かべた。造船技師としては最高な栄誉。
若い頃から自分の才能を信じまっしぐらにそれに向かった庄子君は立派だった。
そして、数学好きな生徒を育てられた辻先生の教育熱心に脱帽する。この先生も戸田先生と同じく生徒に気配り目配り心配りをされた。
学校は楽しくはなかったが、こうした先生を見ることができたのは幸せであった。だから卒業しても、戸田先生にお目にかかったとき、先生は立派な先生でしたと礼の言葉が言えた。これもありがたいことだ。
人生は多くの人に支えられてある。自分一人で勝手にやってきたような気になるが、それは間違いだ。その世話になった一人ひとりに私たちはありがとうの感謝の言葉を伝えることができたのだろうか。
先生方もご高齢におなりで、同期会にお呼びすることを憚るようになった。しかし、ありがとうの言葉は伝えなくてはならない。それが直接口から出ずとも、文章につづればそれでもいい。嫌な教師も確かにいたが、それはサラリーマン教師で、心から生徒のことを考えていない。それを敏感に中学生が感じていたのだ。
高安軍治君は眼のクリクリとした利発そうな子で、いつも笑顔を絶やさなかった。この人はどういう不遇の風の下にいたのか、天理教の教会におられた。中学を卒業して四年目だかに、秋葉原に友人とでかけたことがあった。そのとき不二家だと思うが喫茶店に入った。背の伸びた高安君が銀のお盆を持っていらっしゃいませと客を迎えていた。すると、高安君がそこの勘定を代払いしてくれた。つまり高安君におごってもらった。それっきり、あれから五十年も経って、借りがそのまま残っている。去年、土屋さんに高安君の住所を教えてもらいはがきを書いた。借金が残っているので、おごってお返しをしたいので連絡下さいと。しかし、妙なことをされるのではなかろうかと警戒したのか、返事はなかった。これもまた借りになったままだ。
小さな親切が忘れられないのだ。高安君とて高給をとっていた訳もなく、たまたま顔見知りが入店し、気をつかって金まで使ったわけだが、それが今でも心に残る借金となった。
2011-06-07
駒中の話11
ヤマコウは石原裕次郎が大好きで、レコードを買ってきては一日中それを聞いていた。電蓄などは高くて手が出ない、それをヤマコウは持っていた。レコードも何枚も買い込んでくるのだから、ヤマコウは小遣いを豊富に持っていたのだろう。
電気以外のことは余り興味を示さず、放課後は陸上競技に汗を流した。ヤマコウは英語の時間が嫌いでいつも大人しくしていた。ヤマコウと同じクラスになったのは二年生の時、英語の教師は茶々若だった。小柄で青山学院の英文科を出てきた。発音をうるさく教える教師、この頃英語の動詞の不規則変化を習っていた。
同じクラスに牧山君がいた。この人の人間としての大きさには、今でも敬服する。何がどうしたというのではないが、ともかく物の見方が正しく、細かなことより幹を見ろと教えるタイプ、それも説教臭くなく、いかにも親切にこうではないのかなと諭すタイプ。
長いこと生きてきて、知り合いが総理大臣になったのも見た。それは小泉総理、この人は人物的には牧山君の半分にも満たない。が、時世時節でするすると登った。この人より人物的には秘書の飯島勲氏のほうが大きい。物事の筋目を通す眼力を備えておられる。しかし、飯島氏にどんなに力があっても、首相の座はめぐってこない。
牧山君も立脚する足場が違っていれば、この人は大物になったことだろう、それも歴史の一ページに名を残すような大きな仕事をされたことだろう。しかし、世の中はどんなに力量があろうとも、その発揮する場を間違えればあたら、その才、人物の大きさを発揮できずに終るもんだ。
生涯に二人と出会わぬ人物の大きさを持つ牧山君は第一生命に骨を埋められた。が、まだ人生が終ったわけではないので、どこかの時代が彼を要求しないとも限らない。惜しい人材だ。今回の震災復興などの大役をふれば、彼は目覚しい仕事をしたろう。ところが時の政府は牧山君の存在をしらない。有能な人材を野に埋もれさすのももったいない。
この牧山テルオ君は恰幅がよく、背も高く人品骨柄とも申し分ない。
中学の頃からそうで、そのことを「テル・フトール・フトール」と私が囃していた。
告げるという英語のテル・トールド・トールドを揶揄したものだが、ヤマコウが茶々若に指された。テルの活用を言え、すかさずヤマコウが答えた。「テル・フトール・フトール」。
声が小さかったので茶々若はワマコウを誉めた。「やればできる」
授業が終ってヤマコウが私を見てニヤリと笑った。
牧山君もヤマコウを見ていた。ヤマコウは石原裕次郎が大好き、牧山君は成績優秀、高校から慶応に進学するほど、エルビス・プレスリーがいいと熱をこめる。なんたって真剣に唄っているからいい、丁度プレスリーが飛び出してきたころ、牧山君が予言したように、エルビスは世界のエルビスにジャンプアップした。
牧山君を思い出すとエルビスがついて来る。エルビスの歌を聞くと牧山君を思い出す。私にとっては切っても切れない仲に思える。
電気以外のことは余り興味を示さず、放課後は陸上競技に汗を流した。ヤマコウは英語の時間が嫌いでいつも大人しくしていた。ヤマコウと同じクラスになったのは二年生の時、英語の教師は茶々若だった。小柄で青山学院の英文科を出てきた。発音をうるさく教える教師、この頃英語の動詞の不規則変化を習っていた。
同じクラスに牧山君がいた。この人の人間としての大きさには、今でも敬服する。何がどうしたというのではないが、ともかく物の見方が正しく、細かなことより幹を見ろと教えるタイプ、それも説教臭くなく、いかにも親切にこうではないのかなと諭すタイプ。
長いこと生きてきて、知り合いが総理大臣になったのも見た。それは小泉総理、この人は人物的には牧山君の半分にも満たない。が、時世時節でするすると登った。この人より人物的には秘書の飯島勲氏のほうが大きい。物事の筋目を通す眼力を備えておられる。しかし、飯島氏にどんなに力があっても、首相の座はめぐってこない。
牧山君も立脚する足場が違っていれば、この人は大物になったことだろう、それも歴史の一ページに名を残すような大きな仕事をされたことだろう。しかし、世の中はどんなに力量があろうとも、その発揮する場を間違えればあたら、その才、人物の大きさを発揮できずに終るもんだ。
生涯に二人と出会わぬ人物の大きさを持つ牧山君は第一生命に骨を埋められた。が、まだ人生が終ったわけではないので、どこかの時代が彼を要求しないとも限らない。惜しい人材だ。今回の震災復興などの大役をふれば、彼は目覚しい仕事をしたろう。ところが時の政府は牧山君の存在をしらない。有能な人材を野に埋もれさすのももったいない。
この牧山テルオ君は恰幅がよく、背も高く人品骨柄とも申し分ない。
中学の頃からそうで、そのことを「テル・フトール・フトール」と私が囃していた。
告げるという英語のテル・トールド・トールドを揶揄したものだが、ヤマコウが茶々若に指された。テルの活用を言え、すかさずヤマコウが答えた。「テル・フトール・フトール」。
声が小さかったので茶々若はワマコウを誉めた。「やればできる」
授業が終ってヤマコウが私を見てニヤリと笑った。
牧山君もヤマコウを見ていた。ヤマコウは石原裕次郎が大好き、牧山君は成績優秀、高校から慶応に進学するほど、エルビス・プレスリーがいいと熱をこめる。なんたって真剣に唄っているからいい、丁度プレスリーが飛び出してきたころ、牧山君が予言したように、エルビスは世界のエルビスにジャンプアップした。
牧山君を思い出すとエルビスがついて来る。エルビスの歌を聞くと牧山君を思い出す。私にとっては切っても切れない仲に思える。
登録:
投稿 (Atom)