裏門の近くに森戸さんの家があり、そこはお医者さん、その近くに凸型レンズを使って金属に文字を掘り込む作業場があった。朝板に並べた凸レンズと金属板をしっかり固定し、日の出ている間、それを並べている。酸で処理をするのか、いつも、その工場からは水が流れ出ていた。
森戸さんは同じクラス、大人しい子でいつも居るのか居ないのかがわからないほど。それでも勉強になるとハキハキと答えていた。あんじみよこという珍しい名前の子がいて、その子の家は中野君の家から改正道路を少し下ったところにあり、前が竹内鉄工所。生垣のある大きな家だった。
6年生の時、雪が降って体操の授業に雪合戦をした。あんじさんは雪を固めて玉を作った。それを男の子が投げ合ったのだが、あのころは結構寒く、地球温暖化などは夢のまた夢、こうした嘆きが来るとは少しも知らない。寒かったけどあの頃は楽しかった。暖房も火鉢しかなかったけど、子供は風の子で手袋もせずにはしゃいで廻った。
及川さんという子がキスノ君の家の近くにいて、この子の笑顔がとても可愛いかった。最近八千草薫っていう往年の女優が、健康食品のCMに出ているが、この女優の笑顔に及川さんが重なる。随分と逢っていないけど、変らぬ笑顔を見せていることだろう。キスノ君が死んだことをアーチャンに伝えてもらった。
友達が死ぬのは淋しいことだ。まして、死んで半年も経って知ったのはより淋しいものだ。生きていると何時でも逢えるような気になるけど、何時でも逢えるは何時も逢えないでもある。
同期会のチャンスを逃すことなく、逢っておきたい人との会話を楽しみたいものだ。あれがどうして、これがこうなってと、記録にも残らない記憶だけが頼りの話を。
キスノ君が生きてる頃、同期会の連絡で電話すると女房が出て、ひとくさり最近の出来事を批判がましく言う。聞くのに疲れを感ずるほどだが、死んでから電話したら、「あんないい人はいなかった」と、変われば変るもの。
女房と喧嘩ばかりしている人も、死ぬといい人になれる。もっとも死ねば仏になれる。仏ほっとけ、神かまうなって俚諺もある。死んでからいい人なんて言われないように、生きているうちから女房に孝行を尽くすべきかな。
2011-06-11
2011-05-24
三茶小の話15
桜井君は身体が弱く、母親が学校に行くのを手伝って、共に校門まで来た。その母親に用事のあるときは近くの友人が共に通学した。山岸君などがその任を果した。昔はこうした助け合いをしたものだ。昨今の小学生は大人の顔をみると「おはようございます」と積極的に声をかけてくる。我々の頃とは大違い、声をかけられた大人の方がどぎまぎして、思わず「お、おはよう」となる。
子供の数がめっきりと少なくなり、昔のように我が物顔で路地や横丁で遊んでいる子もいない。
改正道路の歩道は幅が広く、そこで大声をあげて「花一匁」をして遊んだ。これをやると近所の子が総出で手をつないで、横一列になり、前に蹴り出し、後ろに退(すさ)る。
「勝って嬉しい花一匁」「まけて口惜しい花一匁」これは本当は悲しい歌なのだそうだ。女の子を花に見立てて、女衒に買われる。まけては安くしての意、勝っては買って嬉しいと読み変えるという。
そんなことは勿論知らず、道子ちゃんが欲しい、キエちゃんが欲しい、相談しようでジャンケン決着、どうということのない遊びだが、仲間にとった人をとられたりと際限がない。そのうちに夕暮れ時となり、親に「ご飯だよ」と呼ばれ、一人へり、二人消える。
大平さんのキエちゃんがこの花一匁が好きで、よく遊んだものだ。夏の夕暮れ、空に暮れ残りの夕焼けが赤く、遠くに一番星が見えるころ、最後に残った子供も食事のために家を目指す。どこにもある光景、それが今は何処にも見られなくなってしまった。
筝曲を上手とした桜井君は高校生のときに亡くなったという。短い生涯だったが、三茶小の卒業式での、あの見事な演奏はあの夏の夕暮れ、遠く一番星をみるような、いつまでも心に滲みて残っています。もっと、桜井君と話をしてみたかった、もっと優しい気持ちで友達になってみたかったと後悔は先に立たず。
子供の数がめっきりと少なくなり、昔のように我が物顔で路地や横丁で遊んでいる子もいない。
改正道路の歩道は幅が広く、そこで大声をあげて「花一匁」をして遊んだ。これをやると近所の子が総出で手をつないで、横一列になり、前に蹴り出し、後ろに退(すさ)る。
「勝って嬉しい花一匁」「まけて口惜しい花一匁」これは本当は悲しい歌なのだそうだ。女の子を花に見立てて、女衒に買われる。まけては安くしての意、勝っては買って嬉しいと読み変えるという。
そんなことは勿論知らず、道子ちゃんが欲しい、キエちゃんが欲しい、相談しようでジャンケン決着、どうということのない遊びだが、仲間にとった人をとられたりと際限がない。そのうちに夕暮れ時となり、親に「ご飯だよ」と呼ばれ、一人へり、二人消える。
大平さんのキエちゃんがこの花一匁が好きで、よく遊んだものだ。夏の夕暮れ、空に暮れ残りの夕焼けが赤く、遠くに一番星が見えるころ、最後に残った子供も食事のために家を目指す。どこにもある光景、それが今は何処にも見られなくなってしまった。
筝曲を上手とした桜井君は高校生のときに亡くなったという。短い生涯だったが、三茶小の卒業式での、あの見事な演奏はあの夏の夕暮れ、遠く一番星をみるような、いつまでも心に滲みて残っています。もっと、桜井君と話をしてみたかった、もっと優しい気持ちで友達になってみたかったと後悔は先に立たず。
2011-05-23
三茶小の話14
桜井君という身体に障害のある子がいた。三軒茶屋の大和銀行近くで母親が三味線を教えていたそうだ。桜井君は筝曲を勉強、そして晴れの舞台が我々の卒業式の日にあった。桜井君が琴を演奏してくれた。日頃は身体が弱いせいもあり、運動などはせずいつも校庭の隅にいた。それがこの日は和服を着込みお辞儀をして琴の前で、その日頃の修練の冴えをみせた。我々は感動し惜しみの無い拍手をいつまでも続けた。桜井君は照れながらも笑顔を絶やさなかった。
駒中に行っても桜井君はいつも静かで大人しかった。琴の練習してるのと訊くと、ニヤリと笑うだけで言葉を発しなかった。駒中の卒業式では桜井君の手練の技は披露されなかった。駒中の先生は桜井君が琴の名手だということを知らなかったのかもしれない。
三茶小は五組しかなかったから、先生の眼も届き、駒中は十クラスもあったので、それができなかったのかも、でも、駒中の先生にはそうした優しさが欠如していたようにも思える。学芸会がなかった。講堂もなかったので学芸会もないと短絡すれば理解ができないわけでもないが、図書館を新設するより講堂の方が先だったような気にもなる。無論、教育委員会が決めることで駒中の職員がどうこうできる問題ではないのだが、それにつけても三茶小での桜井君の筝曲演奏はいつまでも心に残った。
その桜井君とは二言三言、こちらから一方的に話をしただけで、彼も若くして亡くなったそうだ。もっと色々と話をしてみたかった。ニヤリと片頬で笑う仕種が今でも心に残っている。私のクラスに長岡レイコさんがいた。この人はいつも居るんだか居ないんだかわからないような静かな人、ある日他校の先生が社会科を教えに来た。三茶小の職員も詰めかけその授業を参観していた。
その先生が気になることを作文にしろと命じ、長岡さんが自宅近くの下水の話を書き、それを発表した。すると堂々と言葉を巧みにつなぎ、主語と述語の脈絡もしっかりして、わかりやすい話だった。不断はあんなに存在の薄い人がと驚いたことがあった。人は何か事があると、その表には現れない能力を示すもの、桜井君の筝曲も長岡さんの発表も実に素晴らしいものだった。その長岡さんにも中学を卒業して一度も会ったことがない。こうして振り返ってみると、中学卒業しサヨナラの言葉も交わすことなく一度も会わない人が多数いることに驚く。
真中の停留所の前に真中パンがあり、その娘さんが中学で同期、黒目のクリクリとした人、話すときにエクボができる綱島さん、名前も忘れてしまったが、同じクラスの松井チエさんの仲の良い友達、その真中パンも今はなく、松井さんも遠くに移転、同期会でお逢いしたのも、もう十年も前になるだろうか、それにつけても、あの駒中の空の下でサヨナラした人たちは今でも元気でいるのだろうか。
駒中に行っても桜井君はいつも静かで大人しかった。琴の練習してるのと訊くと、ニヤリと笑うだけで言葉を発しなかった。駒中の卒業式では桜井君の手練の技は披露されなかった。駒中の先生は桜井君が琴の名手だということを知らなかったのかもしれない。
三茶小は五組しかなかったから、先生の眼も届き、駒中は十クラスもあったので、それができなかったのかも、でも、駒中の先生にはそうした優しさが欠如していたようにも思える。学芸会がなかった。講堂もなかったので学芸会もないと短絡すれば理解ができないわけでもないが、図書館を新設するより講堂の方が先だったような気にもなる。無論、教育委員会が決めることで駒中の職員がどうこうできる問題ではないのだが、それにつけても三茶小での桜井君の筝曲演奏はいつまでも心に残った。
その桜井君とは二言三言、こちらから一方的に話をしただけで、彼も若くして亡くなったそうだ。もっと色々と話をしてみたかった。ニヤリと片頬で笑う仕種が今でも心に残っている。私のクラスに長岡レイコさんがいた。この人はいつも居るんだか居ないんだかわからないような静かな人、ある日他校の先生が社会科を教えに来た。三茶小の職員も詰めかけその授業を参観していた。
その先生が気になることを作文にしろと命じ、長岡さんが自宅近くの下水の話を書き、それを発表した。すると堂々と言葉を巧みにつなぎ、主語と述語の脈絡もしっかりして、わかりやすい話だった。不断はあんなに存在の薄い人がと驚いたことがあった。人は何か事があると、その表には現れない能力を示すもの、桜井君の筝曲も長岡さんの発表も実に素晴らしいものだった。その長岡さんにも中学を卒業して一度も会ったことがない。こうして振り返ってみると、中学卒業しサヨナラの言葉も交わすことなく一度も会わない人が多数いることに驚く。
真中の停留所の前に真中パンがあり、その娘さんが中学で同期、黒目のクリクリとした人、話すときにエクボができる綱島さん、名前も忘れてしまったが、同じクラスの松井チエさんの仲の良い友達、その真中パンも今はなく、松井さんも遠くに移転、同期会でお逢いしたのも、もう十年も前になるだろうか、それにつけても、あの駒中の空の下でサヨナラした人たちは今でも元気でいるのだろうか。
2011-05-22
三茶小の話13
島本さんの隣に座っていた川名君がねずらしくクラス会に出席してきた。そして島本さんが来ないのかと訊いて、がっかりしたように、来ないなら来なければよかったと現金なもの。心の中でいつまでも島本さんのことを思い続けていたのだろう。彼にとっては小学校の思い出は特別なもので、それも級友の誰彼ではなく、島本さん一筋というのがおかしい。たしかに明るいフランス人形のような島本さんではあったが、その他の思い出はなかったのかな。
ラジオが身近な友達だった我々の世代はNHKが主ではあったが、民放の開始によりCMソングにも触れることになった。民間放送はNHKと異なり聴取料をとらないため、広告を流し、それを財源とした。昭和二十六年四月二十一日、民間放送が誕生、東京はJOKRのラジオ東京、JOQRの日本文化放送、大阪は新日本放送と続々、買ってくださいではなく、買うことで満足が得られる、幸せになれることを印象づける工夫が必要、耳ざわりがよく、聞いているうちに口ずさみ、知らず知らずに、その商品名が頭に入りこみ、思わずその商品に手が伸びるような歌、それをつくろうと決め、作詞家、作曲家をあたりはじめ、敗戦でうちひしがれた人々に希望を与えた「りんごの唄」、当然、この作詞をしたサトウ・ハチローにも作詞を依頼、作曲も方々に手を伸ばし、文豪芥川龍之介の三男、也寸志に依頼と、電通の手は八方に伸び、NHKにないコマーシャルソングが、東京や大阪の大都会と同じように田舎にも流れ、民間放送が都会と田舎の文化の差を埋めた。
作詞サトウハチロー、作曲芥川也寸志の「エンゼルはいつでも」、だァれもいないと思っていても、どこかでどこかでエンゼルは、いつでもいつでもながめてる、ちゃんとちゃんとちゃちゃぁーんとながめてる。
おなじお菓子の歌には、お菓子の好きなパリ娘、ふたり揃えばいそいそと、角の菓子屋へポンジュール、選る間も遅しエクエール、腰も掛けずにむしゃむしゃと、喰べて口拭くパリ娘。これはCMソングではないが西条八十の作詞、洒落た楽曲で作曲は東京本郷産の橋本国彦、芥川也寸志の師匠、朝日新聞が募集した作詞に曲をつけ広く唄われた「朝はどこから」の作曲でも知られる。
森永の広告ではあったが、ラジオからこの曲が流れると、なぜかほっとした気分になったものだ。歌には力があると幼いながらに思ったものだ。小学生たちもラジオ放送のテーマ曲などを口ずさんでいた。「赤胴鈴之助」などは今でも唄える。子供の頃のことは良く思い出せるが、昨日の晩に何を食べたかは思い出せない。
ラジオが身近な友達だった我々の世代はNHKが主ではあったが、民放の開始によりCMソングにも触れることになった。民間放送はNHKと異なり聴取料をとらないため、広告を流し、それを財源とした。昭和二十六年四月二十一日、民間放送が誕生、東京はJOKRのラジオ東京、JOQRの日本文化放送、大阪は新日本放送と続々、買ってくださいではなく、買うことで満足が得られる、幸せになれることを印象づける工夫が必要、耳ざわりがよく、聞いているうちに口ずさみ、知らず知らずに、その商品名が頭に入りこみ、思わずその商品に手が伸びるような歌、それをつくろうと決め、作詞家、作曲家をあたりはじめ、敗戦でうちひしがれた人々に希望を与えた「りんごの唄」、当然、この作詞をしたサトウ・ハチローにも作詞を依頼、作曲も方々に手を伸ばし、文豪芥川龍之介の三男、也寸志に依頼と、電通の手は八方に伸び、NHKにないコマーシャルソングが、東京や大阪の大都会と同じように田舎にも流れ、民間放送が都会と田舎の文化の差を埋めた。
作詞サトウハチロー、作曲芥川也寸志の「エンゼルはいつでも」、だァれもいないと思っていても、どこかでどこかでエンゼルは、いつでもいつでもながめてる、ちゃんとちゃんとちゃちゃぁーんとながめてる。
おなじお菓子の歌には、お菓子の好きなパリ娘、ふたり揃えばいそいそと、角の菓子屋へポンジュール、選る間も遅しエクエール、腰も掛けずにむしゃむしゃと、喰べて口拭くパリ娘。これはCMソングではないが西条八十の作詞、洒落た楽曲で作曲は東京本郷産の橋本国彦、芥川也寸志の師匠、朝日新聞が募集した作詞に曲をつけ広く唄われた「朝はどこから」の作曲でも知られる。
森永の広告ではあったが、ラジオからこの曲が流れると、なぜかほっとした気分になったものだ。歌には力があると幼いながらに思ったものだ。小学生たちもラジオ放送のテーマ曲などを口ずさんでいた。「赤胴鈴之助」などは今でも唄える。子供の頃のことは良く思い出せるが、昨日の晩に何を食べたかは思い出せない。
2011-05-21
三茶小の話12
隣のクラスに北川マチコさんというフランス人形のような子がいた。その子の瞳がいつも潤んでいるような何処となく切なく、胸をしめつけるような訴えるものがあった。服装もいかにも裕福な家庭の子のような気品をも備えていた。一度も会話をしたことがなく、中学校へ進学しても遠くからだけ眺めていた。お父さんを事故で亡くされたが、端正な風姿は変ることが無かった。後年、この瞳と同じ絵を見つけたことがあり、北川さんの眼だとしみじみ感じ入った。
その絵は挿絵画家として一世を風靡(ふうび・風が草木をなびかすように、その時代の大勢の人々をなびき従わせる)した竹久夢二、岡山県の産、この人の代表作の黒猫を抱いた女性の絵、「長崎屋」の眼がしれだった。この絵の有名なことは論をまたぬが、作者は愛する女性を病魔に奪われ、その容姿を絵にとどめたと言われる。同期会でもおみかけしたが、その後体調を崩したような話も聞こえてきたが、元気でいつかお眼にかかりたいもの。
5組にもフランス人形のような愛らしい子がいて、島本康子さんと言った。世田谷通りの薬局の娘さんで、薬店の名は雄飛堂、素晴らしい名前だ。この子と並んで座りたくて皆が席替えを楽しみにした。その隣の席に川名君が決まり羨望の眼差しを一身に浴びた。その川名君に2000年という年が来る頃、ぼくたちは57歳になるんだと、私が得意そうに喋ったのは隣の席の島本さんに自分の利口を示したかったのだろう。勿論、川名君も島本さんも呆気にとられた顔、そして島本さんが「私の父より年寄りよ」と言って、言い出した私も驚いた。そんな年寄りになるんだと、想像もできなかったが、その年寄り十も余計に生きてしまった。
自分の長生きに驚嘆する。私は二十歳で結核を患い入院し、間もなく死ぬのだろうなと覚悟した。肺に穴が開いて電信柱の間の距離が休まないと歩けなかった。入院して薬を全部棄てて、呑んだふりをしてひたすら眠った。入院費が払えなくて脱走、それからあっちにぶつかりこっちで転んで、人並み以上の辛酸をなめて生きてきた。それも六十もとうに越えて、何時死んでも不足はありません。面白い人生を送らせてもらいました。あの小学生の頃、2000年の年にビックリした少年少女も、気がつけば白髪のおじいさん、おばあさん。いつの間にか年を重ねてしまいました。
同じクラスに今永ミワコさんがいて、この人は利発そうなキラキラした眼の人、おとうさんが缶詰のレッテルを描く仕事をしていた。今で言えばグラフィックデザイナーだ。この今永さんは大人しいけど、活発で自分が決めたことはサッサとこなした。後年、同期会でお会いしたとき、社交ダンスをしておられるとか、あの世界はきらびやかで、そして運動神経が発達していなければならない。音楽に合わせて軽快にステップを踏み、そして、いとも楽しげに満面に笑みを浮かべる。パートナーも大事で一人で出来ない仕事、結構大変そうだが、ご本人は楽しくてたまらないと言っておられた。
あの今永さんがね、と言うのと、やはりそうなのかなと、三つ子の魂百までで、決めたことを貫くいい面を上手に出されたのかなとも思い、たのもしいもんだと思った。今でも軽やかにステップを踏んでおられるのだろうか、今年は同期会がありそうなので、楽しみにしています。
その絵は挿絵画家として一世を風靡(ふうび・風が草木をなびかすように、その時代の大勢の人々をなびき従わせる)した竹久夢二、岡山県の産、この人の代表作の黒猫を抱いた女性の絵、「長崎屋」の眼がしれだった。この絵の有名なことは論をまたぬが、作者は愛する女性を病魔に奪われ、その容姿を絵にとどめたと言われる。同期会でもおみかけしたが、その後体調を崩したような話も聞こえてきたが、元気でいつかお眼にかかりたいもの。
5組にもフランス人形のような愛らしい子がいて、島本康子さんと言った。世田谷通りの薬局の娘さんで、薬店の名は雄飛堂、素晴らしい名前だ。この子と並んで座りたくて皆が席替えを楽しみにした。その隣の席に川名君が決まり羨望の眼差しを一身に浴びた。その川名君に2000年という年が来る頃、ぼくたちは57歳になるんだと、私が得意そうに喋ったのは隣の席の島本さんに自分の利口を示したかったのだろう。勿論、川名君も島本さんも呆気にとられた顔、そして島本さんが「私の父より年寄りよ」と言って、言い出した私も驚いた。そんな年寄りになるんだと、想像もできなかったが、その年寄り十も余計に生きてしまった。
自分の長生きに驚嘆する。私は二十歳で結核を患い入院し、間もなく死ぬのだろうなと覚悟した。肺に穴が開いて電信柱の間の距離が休まないと歩けなかった。入院して薬を全部棄てて、呑んだふりをしてひたすら眠った。入院費が払えなくて脱走、それからあっちにぶつかりこっちで転んで、人並み以上の辛酸をなめて生きてきた。それも六十もとうに越えて、何時死んでも不足はありません。面白い人生を送らせてもらいました。あの小学生の頃、2000年の年にビックリした少年少女も、気がつけば白髪のおじいさん、おばあさん。いつの間にか年を重ねてしまいました。
同じクラスに今永ミワコさんがいて、この人は利発そうなキラキラした眼の人、おとうさんが缶詰のレッテルを描く仕事をしていた。今で言えばグラフィックデザイナーだ。この今永さんは大人しいけど、活発で自分が決めたことはサッサとこなした。後年、同期会でお会いしたとき、社交ダンスをしておられるとか、あの世界はきらびやかで、そして運動神経が発達していなければならない。音楽に合わせて軽快にステップを踏み、そして、いとも楽しげに満面に笑みを浮かべる。パートナーも大事で一人で出来ない仕事、結構大変そうだが、ご本人は楽しくてたまらないと言っておられた。
あの今永さんがね、と言うのと、やはりそうなのかなと、三つ子の魂百までで、決めたことを貫くいい面を上手に出されたのかなとも思い、たのもしいもんだと思った。今でも軽やかにステップを踏んでおられるのだろうか、今年は同期会がありそうなので、楽しみにしています。
2011-05-20
三茶小の話11
6年1組の担任は神戸先生、うら若き美人女性、この人が誰と結婚するかを幼い子供たちも真剣に悩んでいたが、これまたハンサムでおしゃれな宮田先生が、その相手であると噂が噂を呼び、それはもう大変、人の結婚などどうでもいいような話だが、それはそれ、ミーチャンハーチャンの玉子だけに、ことに女の子が熱心に話題にしていた。
神戸先生は体育の時間にトレパンをはいて紺色のVネックのセーターで指導、それは溌剌としたスタイルだった。先生のまわりを生徒がとりまいて校庭を移動中に、「先生、宮田先生と結婚するの」と皆が気にしていることを訊ねた。すると先生は「子供がそんなことを気にするものじゃありません、それは私の問題です」と顔面紅潮させて力んだ。
今にしてみると妙なことを訊いたもんだと思ったが、その時は誰しも知りたい問題で、訊ねて悪いなど少しも思わなかったが、うら若い女性に唐突な質問だと詫びる気にもなるが、もう五十年以上の前の話で、これまた時効。
宮田先生は放送部の指導をされていて、効果音のレコードの使用方法などを教えていただいた。言葉が柔らかで物腰の静かな人、なかなかの紳士であられたが、少々背が低かったのがキズ、一方の神戸先生は鼻にかかった喋りかたで、どちらかと言えば少々キザったらしい。小学生にとっては初めて接する自分の家族以外の大人、それだけに興味津々、まして女性の仕事の結婚を遠く先にではあるが、身近なものとして捕らえなければならない女子にとっては大問題。ともかく学校は子供たちにとっては格好の社交場、これしかないのだから毎日ワイワイ・ガヤガヤと楽しいものだった。
小学校三年生だか四年生の頃、冬が大変に厳しく、校庭が前面凍結したことがあった。そんな中でも上級生はズック靴を上手にあやつり、凍結した校庭をまるでアイススケート場のように滑って走った。冬季五輪が開催されたころで、ゴンチャレンコなどの外人選手の名前を言い合ったことを覚えている。寒かろうが暑かろうがそんなことはおかまいなし、ともかく毎日が楽しければいい。
そんな凍結した校庭の氷を小便で溶けるかと競争した。それを横山先生に見つけられ、そんなところで小便をするなと言われ、出かかった小便が止まった。後にも先にも立小便をとがめられたのはこれだけ。その小便の後が黄色く輪になって痕跡をとどめていた。それでも、ここで小便をして先生に怒られたと指差して友達に誇った。妙なガキだ。
学校帰りに改正道路の中野さんの家の近くに一升瓶が割れてマムシが飛び出していた。マムシ酒にしたものを運んでいる途中で割れて放置したのだろう。そのマムシの尻尾を持って三茶小の戻った。それを用務員室に持ち込むと横山先生が、下に置けというので並べておいた。そのまま帰ってきたが、その後が大騒動、用務員室に来た植木先生(女)がそれを見つけただか、踏んづけたかで目を廻したという。
翌日の始業時間に植木先生が突然入室し、「悪いイタズラをするもんじゃない」と小言を言われた。皆はあっけにとられていたが、私がしでかしたことは直ぐに知れ渡った。
放送部の仕事は宮田先生から渡されるプリントを読み上げることで、給食のメニューを伝えた。カレーが何時出るのかが最大の興味、食べることしか頭になかった。自分のことだけ考えていればいい時代、だからこそ子供の頃が懐かしいのだ。
土屋さんい訊いたところ、神戸先生は今も駒中の近くに居住されているとのこと。ご主人になられた宮田先生は若くして亡くなられたという。宮田先生が演劇で、ひと房のブドウを手渡されるシーンがあり、それをいまでも覚えているが、相手役はさて、誰であったかがサッパリ思い出せない。記憶というのはかくほど左様にまだら模様。
神戸先生は体育の時間にトレパンをはいて紺色のVネックのセーターで指導、それは溌剌としたスタイルだった。先生のまわりを生徒がとりまいて校庭を移動中に、「先生、宮田先生と結婚するの」と皆が気にしていることを訊ねた。すると先生は「子供がそんなことを気にするものじゃありません、それは私の問題です」と顔面紅潮させて力んだ。
今にしてみると妙なことを訊いたもんだと思ったが、その時は誰しも知りたい問題で、訊ねて悪いなど少しも思わなかったが、うら若い女性に唐突な質問だと詫びる気にもなるが、もう五十年以上の前の話で、これまた時効。
宮田先生は放送部の指導をされていて、効果音のレコードの使用方法などを教えていただいた。言葉が柔らかで物腰の静かな人、なかなかの紳士であられたが、少々背が低かったのがキズ、一方の神戸先生は鼻にかかった喋りかたで、どちらかと言えば少々キザったらしい。小学生にとっては初めて接する自分の家族以外の大人、それだけに興味津々、まして女性の仕事の結婚を遠く先にではあるが、身近なものとして捕らえなければならない女子にとっては大問題。ともかく学校は子供たちにとっては格好の社交場、これしかないのだから毎日ワイワイ・ガヤガヤと楽しいものだった。
小学校三年生だか四年生の頃、冬が大変に厳しく、校庭が前面凍結したことがあった。そんな中でも上級生はズック靴を上手にあやつり、凍結した校庭をまるでアイススケート場のように滑って走った。冬季五輪が開催されたころで、ゴンチャレンコなどの外人選手の名前を言い合ったことを覚えている。寒かろうが暑かろうがそんなことはおかまいなし、ともかく毎日が楽しければいい。
そんな凍結した校庭の氷を小便で溶けるかと競争した。それを横山先生に見つけられ、そんなところで小便をするなと言われ、出かかった小便が止まった。後にも先にも立小便をとがめられたのはこれだけ。その小便の後が黄色く輪になって痕跡をとどめていた。それでも、ここで小便をして先生に怒られたと指差して友達に誇った。妙なガキだ。
学校帰りに改正道路の中野さんの家の近くに一升瓶が割れてマムシが飛び出していた。マムシ酒にしたものを運んでいる途中で割れて放置したのだろう。そのマムシの尻尾を持って三茶小の戻った。それを用務員室に持ち込むと横山先生が、下に置けというので並べておいた。そのまま帰ってきたが、その後が大騒動、用務員室に来た植木先生(女)がそれを見つけただか、踏んづけたかで目を廻したという。
翌日の始業時間に植木先生が突然入室し、「悪いイタズラをするもんじゃない」と小言を言われた。皆はあっけにとられていたが、私がしでかしたことは直ぐに知れ渡った。
放送部の仕事は宮田先生から渡されるプリントを読み上げることで、給食のメニューを伝えた。カレーが何時出るのかが最大の興味、食べることしか頭になかった。自分のことだけ考えていればいい時代、だからこそ子供の頃が懐かしいのだ。
土屋さんい訊いたところ、神戸先生は今も駒中の近くに居住されているとのこと。ご主人になられた宮田先生は若くして亡くなられたという。宮田先生が演劇で、ひと房のブドウを手渡されるシーンがあり、それをいまでも覚えているが、相手役はさて、誰であったかがサッパリ思い出せない。記憶というのはかくほど左様にまだら模様。
2011-05-19
三茶小の話10
板橋君は6年2組、この人のあだ名は「お富」、駒中ではこの名で通った。これを決めたのが実は私、もう五十年も前になるから時効で勘弁していただく。板橋君は神経が細かく、気配り目配りのできる人だった。駒沢中学は生徒が三校から寄せてきたので満杯、休み時間に便所に行くと列をなしている。雑談しながら自分の番、ところが板橋君は後ろに生徒が並んでいると小便が出ない。しないまま、次の人に順番を譲る。「どうしてなのかな
と本人は悩んでいたが、それは神経のせい、こまやかな事に気配りのできる人の特性、そのため始業の鈴が鳴る瞬間に便所に飛び込む。往時は用務員のおじさんが振鈴を鳴らした。
昔、お富さんというレコードが大流行したことがあった。染物屋の生駒さんは歌謡曲に詳しく春日八郎のことも良く知っていた。春日八郎は福島県会津坂下(ばんげ)町の産、東洋音楽学校卒、講談社が興したキングレコードの第一回音楽コンクールで優勝するも準専属で下積み長く食えない。同じく準専属だった妻から作曲家の江口夜詩(よし)を紹介され、毎日通い、掃除をしたり肩を揉んだりし、曲を作ってもらえるよう願い続けた。江口に「低音が出ないし、声が細い」と指摘されると、河原に出て土砂降りの中発声練習、こうした必死の努力が実り、ようやく新曲『赤いランプの終列車』を作曲してもらうことになった。『赤いランプの終列車』を吹き込んだ春日だったが、当時無名の自分が売れるわけは無いと、ヒットしなかった場合を想定して新聞社に入ろうと、履歴書まで書いていたという。曲が作られてから1年後の1952年に、『赤いランプの終列車』は発売され大ヒット。54年に「お富」さんが出て、これで春日の地位が不動に、その春日八郎に板橋君が似ているという話から「お富」になったわけ。板橋君は五十年も「お富」と呼ばれ続けてきたが、こうしたことで申しわけありません。
板橋君に似た春日八郎は67歳の我々の歳に亡くなった。歌謡界の不滅の星の一つ、あの頃は綺羅星の如くに素晴らしい男性歌手が続々登場、三橋美智也、三波春夫、村田英雄、後ろの二人は浪曲界から歌謡界へと飛び込んできた。歌謡曲全盛の素晴らしい時代、昨今の歌はさっぱりわからない。いやあ、昔は良かった。
と本人は悩んでいたが、それは神経のせい、こまやかな事に気配りのできる人の特性、そのため始業の鈴が鳴る瞬間に便所に飛び込む。往時は用務員のおじさんが振鈴を鳴らした。
昔、お富さんというレコードが大流行したことがあった。染物屋の生駒さんは歌謡曲に詳しく春日八郎のことも良く知っていた。春日八郎は福島県会津坂下(ばんげ)町の産、東洋音楽学校卒、講談社が興したキングレコードの第一回音楽コンクールで優勝するも準専属で下積み長く食えない。同じく準専属だった妻から作曲家の江口夜詩(よし)を紹介され、毎日通い、掃除をしたり肩を揉んだりし、曲を作ってもらえるよう願い続けた。江口に「低音が出ないし、声が細い」と指摘されると、河原に出て土砂降りの中発声練習、こうした必死の努力が実り、ようやく新曲『赤いランプの終列車』を作曲してもらうことになった。『赤いランプの終列車』を吹き込んだ春日だったが、当時無名の自分が売れるわけは無いと、ヒットしなかった場合を想定して新聞社に入ろうと、履歴書まで書いていたという。曲が作られてから1年後の1952年に、『赤いランプの終列車』は発売され大ヒット。54年に「お富」さんが出て、これで春日の地位が不動に、その春日八郎に板橋君が似ているという話から「お富」になったわけ。板橋君は五十年も「お富」と呼ばれ続けてきたが、こうしたことで申しわけありません。
板橋君に似た春日八郎は67歳の我々の歳に亡くなった。歌謡界の不滅の星の一つ、あの頃は綺羅星の如くに素晴らしい男性歌手が続々登場、三橋美智也、三波春夫、村田英雄、後ろの二人は浪曲界から歌謡界へと飛び込んできた。歌謡曲全盛の素晴らしい時代、昨今の歌はさっぱりわからない。いやあ、昔は良かった。
2011-05-18
三茶小の話9
裏門からまっすぐに伸びる道は宇田川君の造園植木置き場を左に見て、曽根君の家を過ぎると突き当たりになる。ここは林になっていて、大きな欅の木が何本もあった。どういうわけか、ここの木を切り倒しているのが、裏門から見えた。マサカリを振上げて木に打ち込む姿が見えて少しするとコーンと木にあたる音がした。理科の時間に習った音は一秒間に330メートル伝わるというのが実証できた。曽根君の家までは330メートルあったのだ。ダラダラとゆるい勾配ではあったが、意外に距離があるんだなと思った。
曽根君の隣に妹尾さんがいて、曽根君の家を右に曲がると石川さんの家、妹尾さんも曽根君も移転されたが、石川さんのお兄さんでも居住されているのか、変らず石川の表札をみつけたとき、おかっぱ頭で賢そうな瞳の大きい彼女の顔を懐かしく思い出した。石川さんは神戸に居住されている。ご主人が神戸製鋼に勤務されていると、それこそ二十年も前の同期会で言われていたのを思い出す。
同じ場所、同じ名前の表札を見つけても、我々の同級生の姿をそこに見出すことができない。文明堂のカステラは同じレッテルで、同じ味がするけど、同じ場所、同じ表札だけど友達はもういない。時の流れの無情を感ずるのは私だけなのだろうか。
このブログはこんな時代がありました、こんなことを見聞しましたと記録し、それを読んだ人が更に書き込むことを念頭に始めた。間もなく二ヶ月になる。俳優の浜畑賢吉さんが我々の子供の頃を記録すると、文章を書き始められた。その一助にもなればと開始、が、友人たちからのコメントはない。ところが、初めてお父さんが上馬で働いていた方からコメントを書いていただいた。上馬5丁目で生協(酒屋)をされていたとの由、同じ場所、同じ時代を過ごされた、そのお父さんも亡くなられたそうだ。土屋さんに尋ねたところ、世田谷通りの若林陸橋のそばに柳文具店があり、その近くに中野さんという方が酒屋をされていたので、おそらくその方のことではないかと教えていただいた。ここら辺の話は駒沢中学時代で書き記してみたい。
同じ場所、同じ時代を共有した人に、文明堂のカステラのような、変らぬ味を伝えられれば望外の喜び。たしかにああいう時代があり、人々はそれぞれ置かれた境遇・境涯のなかで必死に戦う、しかし、そうした庶民の戦いの記録は残らない。自分が踏みしめた土地がどういうものであったか、そして、その土地の上で事業・生活を営む、元気で懸命に、しかし、振り返ってみるとあれほど長かった時間も、ほんの短くも思えるのが人生。そして、磐石だと思っていた商売も景気と時代の波に揺られ、まるでガラス細工のようにはかないけれどキラキラと輝いていた。そんな商店が集まっていたのが三軒茶屋であり世田谷通りであった。その経営者たちが築き上げたガラス細工を並べて、その一つひとつを愛でた者もいない。
こうした庶民の時代、時代での暮らしぶりを本にしたものもない。精々、その時代を生きた人々を一堂に集めての座談会、けれどこれは思い思いに目にした事象を並べるだけで、一軒一軒の人々の暮らしが文字に現れたことはない。浜畑賢吉さんにもお伝えしたことではあるが、あの時代、この地域でたしかではあるが、振り返るともろいガラス細工の個々の暮らしぶりを世田谷教育委員会を説いて、本にされたらいかがと。
我々の時代、それも過ぎ去り、あれほどきらめいていた個々のガラス細工も砂埃と塵に埋もれる。投稿されたコメントがそれを教える。そうした個々の話を写真入りで掲載することこそ、このブログの狙いでもある。三茶小・駒中から多くの子供たちが毎年巣立つ、同じ場所、同じ長さの時間の経過、されど時代が異なり味わいもまた違う。我々が踏みしめた土地、これが何であったか、そして、我々庶民のガラス細工の人生を印刷や活字に頼らずとも、インターネットという文明の利器を活用し、伝えてみたいと念願する。時代は確かに移ろい、人々の考え方も違ってはいるが、人情だけはなくしてはいけないし、なくされないもの。文章を書ける人はドシドシ投稿されたい。書けないかたは要旨とその時代を記録した写真をお貸しいただければ文字と映像で、その人の人生を記します。
想像していただきたい。三茶のマーケットに、もろいけれどキラキラと輝いていたガラス細工の人生が幾つもあり、それを一つひとつ愛惜の念をこめて読むことができれば、どれほどあの時代を思い起こすことができるかを。これは大事なことで、インターネットを利用できないお年寄りには冊子にして手渡さなければならない使命もある。
曽根君の隣に妹尾さんがいて、曽根君の家を右に曲がると石川さんの家、妹尾さんも曽根君も移転されたが、石川さんのお兄さんでも居住されているのか、変らず石川の表札をみつけたとき、おかっぱ頭で賢そうな瞳の大きい彼女の顔を懐かしく思い出した。石川さんは神戸に居住されている。ご主人が神戸製鋼に勤務されていると、それこそ二十年も前の同期会で言われていたのを思い出す。
同じ場所、同じ名前の表札を見つけても、我々の同級生の姿をそこに見出すことができない。文明堂のカステラは同じレッテルで、同じ味がするけど、同じ場所、同じ表札だけど友達はもういない。時の流れの無情を感ずるのは私だけなのだろうか。
このブログはこんな時代がありました、こんなことを見聞しましたと記録し、それを読んだ人が更に書き込むことを念頭に始めた。間もなく二ヶ月になる。俳優の浜畑賢吉さんが我々の子供の頃を記録すると、文章を書き始められた。その一助にもなればと開始、が、友人たちからのコメントはない。ところが、初めてお父さんが上馬で働いていた方からコメントを書いていただいた。上馬5丁目で生協(酒屋)をされていたとの由、同じ場所、同じ時代を過ごされた、そのお父さんも亡くなられたそうだ。土屋さんに尋ねたところ、世田谷通りの若林陸橋のそばに柳文具店があり、その近くに中野さんという方が酒屋をされていたので、おそらくその方のことではないかと教えていただいた。ここら辺の話は駒沢中学時代で書き記してみたい。
同じ場所、同じ時代を共有した人に、文明堂のカステラのような、変らぬ味を伝えられれば望外の喜び。たしかにああいう時代があり、人々はそれぞれ置かれた境遇・境涯のなかで必死に戦う、しかし、そうした庶民の戦いの記録は残らない。自分が踏みしめた土地がどういうものであったか、そして、その土地の上で事業・生活を営む、元気で懸命に、しかし、振り返ってみるとあれほど長かった時間も、ほんの短くも思えるのが人生。そして、磐石だと思っていた商売も景気と時代の波に揺られ、まるでガラス細工のようにはかないけれどキラキラと輝いていた。そんな商店が集まっていたのが三軒茶屋であり世田谷通りであった。その経営者たちが築き上げたガラス細工を並べて、その一つひとつを愛でた者もいない。
こうした庶民の時代、時代での暮らしぶりを本にしたものもない。精々、その時代を生きた人々を一堂に集めての座談会、けれどこれは思い思いに目にした事象を並べるだけで、一軒一軒の人々の暮らしが文字に現れたことはない。浜畑賢吉さんにもお伝えしたことではあるが、あの時代、この地域でたしかではあるが、振り返るともろいガラス細工の個々の暮らしぶりを世田谷教育委員会を説いて、本にされたらいかがと。
我々の時代、それも過ぎ去り、あれほどきらめいていた個々のガラス細工も砂埃と塵に埋もれる。投稿されたコメントがそれを教える。そうした個々の話を写真入りで掲載することこそ、このブログの狙いでもある。三茶小・駒中から多くの子供たちが毎年巣立つ、同じ場所、同じ長さの時間の経過、されど時代が異なり味わいもまた違う。我々が踏みしめた土地、これが何であったか、そして、我々庶民のガラス細工の人生を印刷や活字に頼らずとも、インターネットという文明の利器を活用し、伝えてみたいと念願する。時代は確かに移ろい、人々の考え方も違ってはいるが、人情だけはなくしてはいけないし、なくされないもの。文章を書ける人はドシドシ投稿されたい。書けないかたは要旨とその時代を記録した写真をお貸しいただければ文字と映像で、その人の人生を記します。
想像していただきたい。三茶のマーケットに、もろいけれどキラキラと輝いていたガラス細工の人生が幾つもあり、それを一つひとつ愛惜の念をこめて読むことができれば、どれほどあの時代を思い起こすことができるかを。これは大事なことで、インターネットを利用できないお年寄りには冊子にして手渡さなければならない使命もある。
2011-05-15
三茶小の話8
観音堂と平和パンの十字路に三茶小の校庭門があり、そこはいつも閉まっていた。ここから帰ると近道でここを抜けようと脇の生垣の破れ目から出て、それを中西君にみつけられ、三上先生に告げ口され、叱られたことがあった。その校庭門には直線状の道路が続き、突き当たりが林になっていた。その右側に曽根君の家があった。
校門からの道路の途中に宇田川君の大きな植木置き場があり、背丈の違う植木が出番を待っていた。その道路は砂利道でニコヨンがコールタールを敷いて歩いた。その作業小屋が三茶小の近くに建てられ、その破れ目から中がのぞけた。
好奇心旺盛で中になにがあるかと瞳をこらすと、キャンバスを立てた青年が、つぎはぎのモンペを着た痩せた中年女を描いていた。モデルの中年女は視線をまっすぐに顎を引いて、尊厳なる時間を味わっているように見えた。青年は画学生でもあるのか、こんなところで仕事が終って何がしかの金を手にし、余暇をこうした絵を描く時間に費やしているのを見て、人生の難しさを感じた。
中西君は絵が上手で、子供の我々も、この人は将来、そうした道に進むことを予感させるだけの力量があった。おそらく、この青年もそうだったのだろうが、世間の経済状況からニコヨンをして身過ぎ世過ぎをしなければならなかったのだろう。その絵は決して下手ではなかった。しかし、魂を揺さぶるようなものではなかった。
同じクラスに麻生さんがいて、この子の家は丸山公園の近くだった。お父さんが絵描きで、家を訪ねたことがあった。大きなキャンバスに母子像が描かれていて、その迫力に押された。お父さんが選挙投票で三茶小に来たとき、廊下に張り出された絵に私の名前をみつけ、家に遊びに来るようにと、麻生さんに言付け、それででかけた。
麻生さんの家のアトリエは絵の具の臭いが充満して、眉が濃く口元の締まった意志の強そうなお父さんが絵について色々教えてくれた。本気で絵を勉強してみないか、教えてあげるよと言われたが、私なんかではなく中西君が相応しいと思った。それでも、子供扱いせず、真剣に絵のことを語ってくださったことは貴重な時間で、今でも鮮明に覚えている。
お父さんは、その母子像に大層思い入れがあるようだった。そして私に、感想を聞かれた。私はこのお母さんの足が大きいと言った。おとうさんは笑いながら大きいか、大きいんだよと言われた。その意味がわかったのはそれから二十年もしてからだった。
竹橋の国立近代美術館で、その絵に出逢った。麻生さんのお父さんの絵が、買い上げられたのだ。人生の辛酸を舐めた私にはその母親の足の大きさの意味が理解できた。地に足がつくという言葉がある。画学生の多くが職業画家として立てるかが不安であり、限られた時間のなかで誰もが成し得ていない表現、構図、色使いを模索する。まして、戦火の中を生き残り、暗い戦争からやっと明るい人生の兆しを見つけ、生きる喜び、そして画家として立てる自信が湧いてこられた時期だったのだろう。それが母親像の足の大きさとして現れていたのだ。人生を堂々と歩む、まして自身の感覚を絵筆に託して渡って行くには相当な困難と呻吟があったことだろう。ところが、麻生だんのお父さんはそんな隘路を抜けて、何かをその母子像でつかまれたのだ。そして天下に名をとどろかせる画家、麻生三郎になられた。三軒茶屋、山の手の下町、そんな狭隘な貧乏人がかりが住むような町中に、こうした才能を夜空にサーチライトの如く光らせることの出来た人が住んでおられた。それが同級生の父君であったことは、長く生きてきた人生の、まるで勲章のように大事な話でもあった。その麻生画伯は美大の教授として後進を育てられ、生涯を現役の画家としておくられた。その功績は見あげる山の如くに思える。人生を思うままに己の才能を信じて渡る、誰にでも許されることではなかった。
校門からの道路の途中に宇田川君の大きな植木置き場があり、背丈の違う植木が出番を待っていた。その道路は砂利道でニコヨンがコールタールを敷いて歩いた。その作業小屋が三茶小の近くに建てられ、その破れ目から中がのぞけた。
好奇心旺盛で中になにがあるかと瞳をこらすと、キャンバスを立てた青年が、つぎはぎのモンペを着た痩せた中年女を描いていた。モデルの中年女は視線をまっすぐに顎を引いて、尊厳なる時間を味わっているように見えた。青年は画学生でもあるのか、こんなところで仕事が終って何がしかの金を手にし、余暇をこうした絵を描く時間に費やしているのを見て、人生の難しさを感じた。
中西君は絵が上手で、子供の我々も、この人は将来、そうした道に進むことを予感させるだけの力量があった。おそらく、この青年もそうだったのだろうが、世間の経済状況からニコヨンをして身過ぎ世過ぎをしなければならなかったのだろう。その絵は決して下手ではなかった。しかし、魂を揺さぶるようなものではなかった。
同じクラスに麻生さんがいて、この子の家は丸山公園の近くだった。お父さんが絵描きで、家を訪ねたことがあった。大きなキャンバスに母子像が描かれていて、その迫力に押された。お父さんが選挙投票で三茶小に来たとき、廊下に張り出された絵に私の名前をみつけ、家に遊びに来るようにと、麻生さんに言付け、それででかけた。
麻生さんの家のアトリエは絵の具の臭いが充満して、眉が濃く口元の締まった意志の強そうなお父さんが絵について色々教えてくれた。本気で絵を勉強してみないか、教えてあげるよと言われたが、私なんかではなく中西君が相応しいと思った。それでも、子供扱いせず、真剣に絵のことを語ってくださったことは貴重な時間で、今でも鮮明に覚えている。
お父さんは、その母子像に大層思い入れがあるようだった。そして私に、感想を聞かれた。私はこのお母さんの足が大きいと言った。おとうさんは笑いながら大きいか、大きいんだよと言われた。その意味がわかったのはそれから二十年もしてからだった。
竹橋の国立近代美術館で、その絵に出逢った。麻生さんのお父さんの絵が、買い上げられたのだ。人生の辛酸を舐めた私にはその母親の足の大きさの意味が理解できた。地に足がつくという言葉がある。画学生の多くが職業画家として立てるかが不安であり、限られた時間のなかで誰もが成し得ていない表現、構図、色使いを模索する。まして、戦火の中を生き残り、暗い戦争からやっと明るい人生の兆しを見つけ、生きる喜び、そして画家として立てる自信が湧いてこられた時期だったのだろう。それが母親像の足の大きさとして現れていたのだ。人生を堂々と歩む、まして自身の感覚を絵筆に託して渡って行くには相当な困難と呻吟があったことだろう。ところが、麻生だんのお父さんはそんな隘路を抜けて、何かをその母子像でつかまれたのだ。そして天下に名をとどろかせる画家、麻生三郎になられた。三軒茶屋、山の手の下町、そんな狭隘な貧乏人がかりが住むような町中に、こうした才能を夜空にサーチライトの如く光らせることの出来た人が住んでおられた。それが同級生の父君であったことは、長く生きてきた人生の、まるで勲章のように大事な話でもあった。その麻生画伯は美大の教授として後進を育てられ、生涯を現役の画家としておくられた。その功績は見あげる山の如くに思える。人生を思うままに己の才能を信じて渡る、誰にでも許されることではなかった。
2011-05-11
三茶小の話6
三年生のとき駒沢小から三茶に編入した。寄せ集めの小学生をまとめる教師は苦労だったろう。互いに通う小学校をくさしていた者が統合されたのだ。中里小学校ボロ学校、入ってみたらボロ学校、駒沢小学校ボロ学校、入ってみたらいい学校と、くさしたり、くさされたりした者が一緒になるのだから、これは大変、最初は少々ぎごちない、しかし、それは子供のことだから、自然と溶け合う。そして、今度は新生「三茶小」の仲間になった。
私の担任は3、4年、そして5年まで横山隆一先生で、漫画家と同姓同名。この先生が三茶小の徽章を考案された。三軒の御茶屋と茶の葉だ。
桜の木から下りてくる毛虫が蝶にならないことを教えていただいた。蝶になる虫は裸で毛がない。青虫は蝶になり、毛虫は蛾になる。蛾は羽を広げて休むが蝶は閉じる。虫の世界にも決まりがあるんだと、感心したものだ。
横山先生はベルトを押えながら授業をした。それが腕組みになり、顎を撫でるようになり、教育委員会へと転じられた。先生は映写技師の資格を受講され、夏休みに学校で16ミリの映画会を担当された。娯楽の乏しいころだけに、その映画会は楽しみだった。先生は映画が終り子供たちが散っても、フィルムの整理に夏休みの校庭で上映した映画フィルムを巻き戻しておられた。校庭は暗い闇におおわれて、先生が作業をされるところだけ電球が点いていて、その電球の周りを蛾が飛び回っていた。カタカタ、シュルシュルとフィルムが戻る音がいつまでも続いていた。
教師は子供たちのために、寝苦しい夏の夜も、汗を流しながら映画会の後片付け、当たり前のような気がするけど、なかなか出来ることではない、先生の信念に視聴覚教育の重要性があった。これがテレビ時代、そして通信の普及でインターネットが誕生、先生は亡くなられたが、昨今の急激な社会の進歩を確認されたならば、満悦の笑みと共に顎を撫でられたことであろう。
私の担任は3、4年、そして5年まで横山隆一先生で、漫画家と同姓同名。この先生が三茶小の徽章を考案された。三軒の御茶屋と茶の葉だ。
桜の木から下りてくる毛虫が蝶にならないことを教えていただいた。蝶になる虫は裸で毛がない。青虫は蝶になり、毛虫は蛾になる。蛾は羽を広げて休むが蝶は閉じる。虫の世界にも決まりがあるんだと、感心したものだ。
横山先生はベルトを押えながら授業をした。それが腕組みになり、顎を撫でるようになり、教育委員会へと転じられた。先生は映写技師の資格を受講され、夏休みに学校で16ミリの映画会を担当された。娯楽の乏しいころだけに、その映画会は楽しみだった。先生は映画が終り子供たちが散っても、フィルムの整理に夏休みの校庭で上映した映画フィルムを巻き戻しておられた。校庭は暗い闇におおわれて、先生が作業をされるところだけ電球が点いていて、その電球の周りを蛾が飛び回っていた。カタカタ、シュルシュルとフィルムが戻る音がいつまでも続いていた。
教師は子供たちのために、寝苦しい夏の夜も、汗を流しながら映画会の後片付け、当たり前のような気がするけど、なかなか出来ることではない、先生の信念に視聴覚教育の重要性があった。これがテレビ時代、そして通信の普及でインターネットが誕生、先生は亡くなられたが、昨今の急激な社会の進歩を確認されたならば、満悦の笑みと共に顎を撫でられたことであろう。
2011-05-10
三茶小の話5
校長先生は中村という牛乳瓶の底を眼鏡にしたような度の強いのをかけておられた。子供たちによく声をかけるかただった。得意そうに話すのをさもビックリしたように聞いていた。子供の自発的な発言を尊ばれておられた。
子供たちもそんな校長先生を知っているのか、よく声をかけた。しかし、子供の名前を覚えるのは苦手だったようで、よく間違えておられた。教頭はアライという初老の男の先生で理科が得手のようだった。六年生のとき、電気モーターの製作の時間があり、アライ先生が教えにこられた。電池で動かす小さなものを男の子も女の子も作った。小田切さんという三茶の世田谷通りに面した大きな洋服屋さんの娘は、色白で鼻筋の通った優しい話し方をして、工作などは不向きのようだったが、器用にコイルを巻きつけて完成させた。一番早くモーターを廻し、なかなか廻らない子に、コイルをしっかり巻くように教えていた。アライ先生もモーターの芯にしっかり巻かないと磁場が発生しないと教えられた。小田切さんの言うようにコイルを巻きなおしてようやく廻ったときは嬉しかった。
そんな小さなモーターが廻っても何の役にも立たないのだが、完成したことが嬉しかった。
この小田切さんは色彩的な感覚の鋭い人で、図画の時間になると、思いもつかないような色使いをしてみせた。中西君のようなデッサンに力はないが、色で面を表現する能力には驚嘆した。パステル調の色使いが面積の大小を現し、ことさら線をつかわずに物体の存在感を巧みに現した。
その洋服屋の店は○の中に誠と書かれた三茶でも屈指の大きな店だった。痩せてすらっとしていつも清潔な服に身を包んで、ニコっと遠くから微笑むと百合の花が風にゆれたような気がしたもんだ。アーチャンが「お前の店は大きくて金持ちで、いつもおいしいもの食べているんだろ」と言うと、「ところがそうでもないの、うちのお父さんは働いてくれる人がいるからこそ、お店を続けられる、だから、お店の人が食事をしてから家族が食べるんだというの、だから、いつも余り物ばかりよ」、アーチャンはびっくりした。お金持ちのお嬢さんだから、いつもおいしいものを食べているとばかり思い込んでいた。子供の心はそんなもんだ。小田切さんの店の奥に映画館ができて、学校から生徒がそろって見にいった。「小田切はこのまま帰れば家は目の前で便利なのに」とアーチャンが言うと小田切さんはニコっと笑った。余り口数の多い人ではなかったが、礼儀正しい子供子供した可憐な人だった。家族は店から家に入るのではなく、横丁から勝手口に入る狭い通路があった。背の高い小田切さんが、そこへ消えていく後ろ姿を見たことがあった。店名はマコトヤさんと言った。小田切さんというと、横丁の通路に消えていくイメージがいつもあり、存在の不確かさを感じた。その大店のマコトヤさんも、時代の流れで店は消えてしまった。
その小田切さんにも同期会で顔を見ることがない。これまた淋しい限りだ。
昔の話をしても誰も知らない、でも、確かにそうした時代があったんだ。そんな存在の不確かさを語れる仲間がいるからまだいい。独り言を言うようなれば、これはもうボケの始まりだが、さて、それもそんなに遠くないのかも。
子供たちもそんな校長先生を知っているのか、よく声をかけた。しかし、子供の名前を覚えるのは苦手だったようで、よく間違えておられた。教頭はアライという初老の男の先生で理科が得手のようだった。六年生のとき、電気モーターの製作の時間があり、アライ先生が教えにこられた。電池で動かす小さなものを男の子も女の子も作った。小田切さんという三茶の世田谷通りに面した大きな洋服屋さんの娘は、色白で鼻筋の通った優しい話し方をして、工作などは不向きのようだったが、器用にコイルを巻きつけて完成させた。一番早くモーターを廻し、なかなか廻らない子に、コイルをしっかり巻くように教えていた。アライ先生もモーターの芯にしっかり巻かないと磁場が発生しないと教えられた。小田切さんの言うようにコイルを巻きなおしてようやく廻ったときは嬉しかった。
そんな小さなモーターが廻っても何の役にも立たないのだが、完成したことが嬉しかった。
この小田切さんは色彩的な感覚の鋭い人で、図画の時間になると、思いもつかないような色使いをしてみせた。中西君のようなデッサンに力はないが、色で面を表現する能力には驚嘆した。パステル調の色使いが面積の大小を現し、ことさら線をつかわずに物体の存在感を巧みに現した。
その洋服屋の店は○の中に誠と書かれた三茶でも屈指の大きな店だった。痩せてすらっとしていつも清潔な服に身を包んで、ニコっと遠くから微笑むと百合の花が風にゆれたような気がしたもんだ。アーチャンが「お前の店は大きくて金持ちで、いつもおいしいもの食べているんだろ」と言うと、「ところがそうでもないの、うちのお父さんは働いてくれる人がいるからこそ、お店を続けられる、だから、お店の人が食事をしてから家族が食べるんだというの、だから、いつも余り物ばかりよ」、アーチャンはびっくりした。お金持ちのお嬢さんだから、いつもおいしいものを食べているとばかり思い込んでいた。子供の心はそんなもんだ。小田切さんの店の奥に映画館ができて、学校から生徒がそろって見にいった。「小田切はこのまま帰れば家は目の前で便利なのに」とアーチャンが言うと小田切さんはニコっと笑った。余り口数の多い人ではなかったが、礼儀正しい子供子供した可憐な人だった。家族は店から家に入るのではなく、横丁から勝手口に入る狭い通路があった。背の高い小田切さんが、そこへ消えていく後ろ姿を見たことがあった。店名はマコトヤさんと言った。小田切さんというと、横丁の通路に消えていくイメージがいつもあり、存在の不確かさを感じた。その大店のマコトヤさんも、時代の流れで店は消えてしまった。
その小田切さんにも同期会で顔を見ることがない。これまた淋しい限りだ。
昔の話をしても誰も知らない、でも、確かにそうした時代があったんだ。そんな存在の不確かさを語れる仲間がいるからまだいい。独り言を言うようなれば、これはもうボケの始まりだが、さて、それもそんなに遠くないのかも。
2011-05-09
三茶小の話4
給食のパンは前にある平和パンが届けた。記憶力抜群のアーチャンの話では、平和パンのコッペは日曜日に余ることがある。その解消法として、月曜日にコッペを揚げてザラメをまぶしたのを配達してきた。これが楽しみだったとアーチャンが言う。このことをすっかり忘れていて、そうだったような違うような妙な頼りない思いをしている。
カレーは汁っけの多い、ちょうど日本そば屋のカレーのようなものが出た。これも楽しみだったとアーチャン。給食室には大釜があり、石川五右衛門を茹でるようだった。これに大きな柄杓で水を入れたり、竹ヒゴを丸めて釜の底を洗ったりと三角巾のおばさんたちは忙しかった。昔は各学校に給食作業員がいたが、今は給食センターで一括製造、それを配達車で運搬、昔は自動車は貴重品だっただけに、このように各学校生産の体制がとられたのだろうが、作ったものを直ぐ食べるほうがいい。衛生面を考えて昨今の方式となったのだろうが、余計な経費をかけている気がする。運んでいるうちに温かいものも冷えるだろうに。
三茶小の前に大丸百貨店の配送所ができた。○の中に大の字がかかれてあった。須永君がそれを指差し七五三だという。よくよく見ると大の文字は勘亭流のようで、文字にヒゲが出ていて、右横棒が三にヒゲ分れ、人という字の左が五、右が七分れだった。そんな細かいことにまで気づく人がいるんだと感心した。同じクラスの中西君にそのことを話すと、彼もそのことを知っていて、縁起かつぎの文字なんだと解説。彼は大変に絵が上手でスケッチが細微に渡り、全体をうまくつかみ、図工の名人上手だった。後に美大に入りソニーの宣伝などを担当、広告宣伝会社で活躍した。
父君が謡などをされて家は西太子堂の近くにあった。板張りの部屋に能舞台で見る松の絵が掲げられ、庭にはペスというポインターがいた。老犬だったが賢い犬だった。中西君の家の勝手口付近でバケツにゴムの前垂れを床にして、ベーゴマを盛んにやっていた。これは博打と同じで勝てば増える、負ければすっかり失う。森君が大変に強く、いつもポケットはベーゴマで一杯だった。
メンコの強い子もいて、ツミとかブとか言うあそびがあって、これも賭博性が強かった。メンコには色々な図柄があり、見ているだけでも面白かった。四角いのが主流だったが丸いものもある。丹下左膳の絵が描いてあったり武者絵があったりと角がすりきれたメンコを眺めると、どこかで勝って笑う子や負けて泣いた子の顔が浮かんでくるようだった。
ベーゴマにせよメンコにせよ、博打をやる子の会話は似ていて、どこそこの誰々が大変強く、あれとやるな、○町のベーゴマの床は固いなど、大人になって競輪場で赤エンピツなめなめ○を予想新聞に書き入れているオヤジの会話にそっくり。大人でも子供でも賭博場の雰囲気は同じなのかも知れない。ベーゴマは埼玉県の川口で作られ、全国各地へと運ばれた。丸いのも六角のもあり、柄は巨人とか西鉄など野球チームの名が多かったような気がする。コマの底を砥石で研いで背を低くしたり、廻すヒモに結び玉を大きくしたり、湿り気を加えたりとそれぞれの工夫があった。
昨今、これがまた復活し商店街でベーゴマ大会が催されている。これを居酒屋風にして老人の娯楽にすると、存外人が集まると思う。
ベーゴマの強かった森君の家は世田谷通りの島本雄飛堂の並び、三茶駅寄りにあった。竹屋の隣だったような気がする。
カレーは汁っけの多い、ちょうど日本そば屋のカレーのようなものが出た。これも楽しみだったとアーチャン。給食室には大釜があり、石川五右衛門を茹でるようだった。これに大きな柄杓で水を入れたり、竹ヒゴを丸めて釜の底を洗ったりと三角巾のおばさんたちは忙しかった。昔は各学校に給食作業員がいたが、今は給食センターで一括製造、それを配達車で運搬、昔は自動車は貴重品だっただけに、このように各学校生産の体制がとられたのだろうが、作ったものを直ぐ食べるほうがいい。衛生面を考えて昨今の方式となったのだろうが、余計な経費をかけている気がする。運んでいるうちに温かいものも冷えるだろうに。
三茶小の前に大丸百貨店の配送所ができた。○の中に大の字がかかれてあった。須永君がそれを指差し七五三だという。よくよく見ると大の文字は勘亭流のようで、文字にヒゲが出ていて、右横棒が三にヒゲ分れ、人という字の左が五、右が七分れだった。そんな細かいことにまで気づく人がいるんだと感心した。同じクラスの中西君にそのことを話すと、彼もそのことを知っていて、縁起かつぎの文字なんだと解説。彼は大変に絵が上手でスケッチが細微に渡り、全体をうまくつかみ、図工の名人上手だった。後に美大に入りソニーの宣伝などを担当、広告宣伝会社で活躍した。
父君が謡などをされて家は西太子堂の近くにあった。板張りの部屋に能舞台で見る松の絵が掲げられ、庭にはペスというポインターがいた。老犬だったが賢い犬だった。中西君の家の勝手口付近でバケツにゴムの前垂れを床にして、ベーゴマを盛んにやっていた。これは博打と同じで勝てば増える、負ければすっかり失う。森君が大変に強く、いつもポケットはベーゴマで一杯だった。
メンコの強い子もいて、ツミとかブとか言うあそびがあって、これも賭博性が強かった。メンコには色々な図柄があり、見ているだけでも面白かった。四角いのが主流だったが丸いものもある。丹下左膳の絵が描いてあったり武者絵があったりと角がすりきれたメンコを眺めると、どこかで勝って笑う子や負けて泣いた子の顔が浮かんでくるようだった。
ベーゴマにせよメンコにせよ、博打をやる子の会話は似ていて、どこそこの誰々が大変強く、あれとやるな、○町のベーゴマの床は固いなど、大人になって競輪場で赤エンピツなめなめ○を予想新聞に書き入れているオヤジの会話にそっくり。大人でも子供でも賭博場の雰囲気は同じなのかも知れない。ベーゴマは埼玉県の川口で作られ、全国各地へと運ばれた。丸いのも六角のもあり、柄は巨人とか西鉄など野球チームの名が多かったような気がする。コマの底を砥石で研いで背を低くしたり、廻すヒモに結び玉を大きくしたり、湿り気を加えたりとそれぞれの工夫があった。
昨今、これがまた復活し商店街でベーゴマ大会が催されている。これを居酒屋風にして老人の娯楽にすると、存外人が集まると思う。
ベーゴマの強かった森君の家は世田谷通りの島本雄飛堂の並び、三茶駅寄りにあった。竹屋の隣だったような気がする。
2011-05-08
三茶小の話3
給食室はコの字型の縦て棒のつけ根あたりにあったとアーチャンがいう。なんだかそんな気にもなるが違うような気もする。ここから脱脂粉乳の入ったバケツを運ぶのだが、足元が危うくてこぼしそうに何度もなる。バケツに蓋はついていたが、嫌なにおいがしたもんだ。とても飲めなかったがそれでもお代わりをする子もいて、好き好きだなと感じた。
小学校で嫌いなのはこのミルクとBCGだった。ツベルクリン反応にひっかかり毎年注射をされたが、その跡が膿んで嫌な気持ちになった。二十歳ごろに結核になったから、役に立たなかったのだろうか。
カレーの給食は人気メニューだった。この日は朝から気分が良かった。給食室の前を用事もないのに通ってにおいを嗅いだ。脱脂粉乳を除けば給食はどれもうまかった。その給食を作るおばさんが白い三角巾を頭にして、「こぼさないように」とアルマイトのバケツを渡す。その人を中里の駅の近くで見つけたことがあった。どこかの横丁を入ったところだったが、夏で家の入り口が開け放たれていて、すだれがかかっていた。そのおばさんは団扇片手にアッパッパの裾から出た脚を煽ぎ、アイスキャンデーを舐めていた。視線が合ったのでこんにちはと声をかけたが知らん顔をしていた。アイスキャンデーを舐めているのを見られたからだろうか。凄く暑い日で、歩いていると顔がほてるような日だった。
何の用もないのに一日中ウロウロしていたもんだ。それでも毎日が楽しかったのだから、子供の頃は幸せだ。
山本トシオ君の家は丸山公園の近くにあった。色の白くヒョロヒョロとした子だったが賢かった。おかあさんは眼鏡をかけ言葉使いの上品な人だった。おかあさんも痩せていて、背中に子供をおんぶしていた。教育熱心な人で山本君はその薫陶もあり勉強家だった。山本君の父親が持っていたと、見せてくれたのが国会議事堂の議場の図、そんなものがあったのかとしげしげと見つめた。
丸山公園に消防署が移転してきた。昔は玉電の際にあった。今の郵便局のところだ。郵便局が世田谷通りから移転してきて、消防署が押し出されて丸山公園に入り込んだ。丸山公園の便所は大きかった。ここにホームレスが入り込み、その子が駒中に通ってきた。後年、アーチャンが渋谷で彼と出逢った。「アーチャンだろ」と声をかけられ、「失礼ですけど、どなたですか」と訊いた。すると小声で「大きな声ではいえないけど、丸山公園に住んでたオレだよ」といわれて思い出した。今は船橋だかに住んでいるとのことだった。幼い頃は親の生活環境で好まぬ状況下にいても、世間に出れば腕一本、度胸一つで天下取れる。ここが面白いところだ。
彼がどんな仕事をしたのかをアーチャンから聞きそびれたが、山本トシオ君は早稲田大学の工学部だかに進学し建築の仕事をしたと聞いた。それも、定年となれば人生の最終コーナーを廻ったようなもの、誰が偉くて誰がダメなわけでもない。生きているだけで有難いものだが、なかなかそうも思えないのが人生、この山本君は同期会に出てきたことがない。よっぽど嫌な思い出でもあるのだろうか。もう五十年も前の話だ。全て忘れてまた逢いたいものだ。
小学校で嫌いなのはこのミルクとBCGだった。ツベルクリン反応にひっかかり毎年注射をされたが、その跡が膿んで嫌な気持ちになった。二十歳ごろに結核になったから、役に立たなかったのだろうか。
カレーの給食は人気メニューだった。この日は朝から気分が良かった。給食室の前を用事もないのに通ってにおいを嗅いだ。脱脂粉乳を除けば給食はどれもうまかった。その給食を作るおばさんが白い三角巾を頭にして、「こぼさないように」とアルマイトのバケツを渡す。その人を中里の駅の近くで見つけたことがあった。どこかの横丁を入ったところだったが、夏で家の入り口が開け放たれていて、すだれがかかっていた。そのおばさんは団扇片手にアッパッパの裾から出た脚を煽ぎ、アイスキャンデーを舐めていた。視線が合ったのでこんにちはと声をかけたが知らん顔をしていた。アイスキャンデーを舐めているのを見られたからだろうか。凄く暑い日で、歩いていると顔がほてるような日だった。
何の用もないのに一日中ウロウロしていたもんだ。それでも毎日が楽しかったのだから、子供の頃は幸せだ。
山本トシオ君の家は丸山公園の近くにあった。色の白くヒョロヒョロとした子だったが賢かった。おかあさんは眼鏡をかけ言葉使いの上品な人だった。おかあさんも痩せていて、背中に子供をおんぶしていた。教育熱心な人で山本君はその薫陶もあり勉強家だった。山本君の父親が持っていたと、見せてくれたのが国会議事堂の議場の図、そんなものがあったのかとしげしげと見つめた。
丸山公園に消防署が移転してきた。昔は玉電の際にあった。今の郵便局のところだ。郵便局が世田谷通りから移転してきて、消防署が押し出されて丸山公園に入り込んだ。丸山公園の便所は大きかった。ここにホームレスが入り込み、その子が駒中に通ってきた。後年、アーチャンが渋谷で彼と出逢った。「アーチャンだろ」と声をかけられ、「失礼ですけど、どなたですか」と訊いた。すると小声で「大きな声ではいえないけど、丸山公園に住んでたオレだよ」といわれて思い出した。今は船橋だかに住んでいるとのことだった。幼い頃は親の生活環境で好まぬ状況下にいても、世間に出れば腕一本、度胸一つで天下取れる。ここが面白いところだ。
彼がどんな仕事をしたのかをアーチャンから聞きそびれたが、山本トシオ君は早稲田大学の工学部だかに進学し建築の仕事をしたと聞いた。それも、定年となれば人生の最終コーナーを廻ったようなもの、誰が偉くて誰がダメなわけでもない。生きているだけで有難いものだが、なかなかそうも思えないのが人生、この山本君は同期会に出てきたことがない。よっぽど嫌な思い出でもあるのだろうか。もう五十年も前の話だ。全て忘れてまた逢いたいものだ。
2011-05-07
三茶小の話2
校庭は四角く桜の樹が植えてあった。入学式のころに淡い桜色の花を咲かせ、新入生を迎えた。どの子も精一杯の笑顔をたたえて校門をくぐってきた。文房具屋の観音堂の側には雲梯(うんてい・体育・遊戯施設の一。金属管製のはしごを水平もしくは円弧状に張り設けて、これに懸垂して渡っていくもの。くもばしご)と肋木(ろくぼく・体操用具の一。縦木に多数の横木を肋骨状に固定したもの。横木につかまって、懸垂・手掛・足掛などをする)があった。
平和パンと観音堂へ出れる門もあったが閉まっている。ここから出ると便利だが、閉まっているので垣根の破れ目から抜け出した。今のように学校は塀や柵でかこまれてはおらず、閉じ込められているような雰囲気ではなく、伸び伸びとした闊達な気風が漂っていた。通学する子も下駄履きが多かった。校舎に入るには下駄箱に入れてズックに履き替えた。校庭は土でところどころが凹んでいた。
アーチャンはブランコに乗ると高くこいで上がった。鉄の鎖を支える横棒よりも高く上がり、見ている者の胆を冷やした。本人は何処吹く風で、散々高くこいで上ったあと、その高見から飛び降りた。そのまた勢いのあること、誰もが怪我をすると心配したものだが、猿よりも猿らしく、アーチャンにかなう者は誰もいなかった。
アーチャンは六年生の頃、読売新聞の配達をしていた。いつも黒の襟付きの黒ボタンの服を着ていた。新聞配達で毎月700円を稼ぎ、家に半分入れて残りは胃袋にしまった。喜楽でのラーメンや永井君の隣の肉屋で半分に切ってもらったコロッケとコッペパンに変った。コッペにコロッケ半分を縦に入れ、キャベツの千切りをおまけに肉屋がサービスで入れてくれる。それにソースをかけて食べるのが無上の喜びだった。人は誰しも食べる喜びのために生きている。人はパンのみに生きるにあらずなどとノタマウが、それは能書きのようなもので、食べなきゃ死ぬ。死ねば生ゴミになって清掃車ならに霊柩車で運ばれる。いずれも焼き場で、焼却場と火葬場のちがいだ。
江戸の昔にも火葬場があり、死人を焼いてくれた。焼き場の職員を昔はかくれた坊主、隠坊(おんぼう)と呼び墓守や焼き場の職員を指した。このオンボウには焼き賃を支払うのが習わし、昔は現金決済の風が薄く、みな支払いは月末とか年に二度の支払い、当然金がないから焼き場のオンボウへの支払いに困る。困るったってオンボウも区役所の職員ではないから払ってもらわないと困る。半分しか銭がないから生焼けでいいかと言われれば、それまた困るので庶民が智恵を出した。それが香典を持ち寄ることだ。香典は米や味噌ではダメ、全て現金。昔は村八分なんてのがあって、交わりをしないことを決めたが、八分の残りの二分は付き合う。それが火事と葬式だ。火事が八分の家に出れば類焼のおそれもあるから消す、はやり病で死ねば伝染の恐れがあるから埋葬や焼き場に持っていく、いずれも我が身への被害をおそれるからだ。八分の家さえ香典があつまる。まして、普通に生活をしていれば尚のこと、これを香典葬と呼ぶ。
6年5組の三浦さんが亡くなったときアーチャンから電話がかかってきた。青森県の八戸にいたが、幡ヶ谷の火葬場に行った。三上先生も来ておられた。四十年も前の教え子の火葬に立ち会うなどということも、なかなか常人にはできないことだ。先生は教育者として立派で国も、その功績を認めて叙勲されたが、先生は人間として立派だった。その先生も昨今は足が弱って車椅子になられたが、我々悪ガキも先生を元気づけなかえればいけない。大恩ある先生がいつまでも元気でおられるようにと念ずるばかりだ。
さて、アーチャンは高く空中にブランコから飛び出すと、今度はウンテイに走る。ウンテイの横には桜の樹があり、花びらを散らしたあとには毛虫がぶらさがる。そんな毛虫も真っ青になるほど、アーチャンはウンテイにぶら下がり、見事に端から端へと繰り返して渡る。毛虫が風に乗ってブラブラするように、アーチャンもウンテイに両足をかけて逆さになってブラブラしてみせた。
そんな元気なアーチャンも、五年ほど前にチョットした高い所から落ちて両足を怪我、しばらく入院していたことがある。あの猿も真っ青のアーチャンがだよ、やはり歳には勝てないものだご同輩。
平和パンと観音堂へ出れる門もあったが閉まっている。ここから出ると便利だが、閉まっているので垣根の破れ目から抜け出した。今のように学校は塀や柵でかこまれてはおらず、閉じ込められているような雰囲気ではなく、伸び伸びとした闊達な気風が漂っていた。通学する子も下駄履きが多かった。校舎に入るには下駄箱に入れてズックに履き替えた。校庭は土でところどころが凹んでいた。
アーチャンはブランコに乗ると高くこいで上がった。鉄の鎖を支える横棒よりも高く上がり、見ている者の胆を冷やした。本人は何処吹く風で、散々高くこいで上ったあと、その高見から飛び降りた。そのまた勢いのあること、誰もが怪我をすると心配したものだが、猿よりも猿らしく、アーチャンにかなう者は誰もいなかった。
アーチャンは六年生の頃、読売新聞の配達をしていた。いつも黒の襟付きの黒ボタンの服を着ていた。新聞配達で毎月700円を稼ぎ、家に半分入れて残りは胃袋にしまった。喜楽でのラーメンや永井君の隣の肉屋で半分に切ってもらったコロッケとコッペパンに変った。コッペにコロッケ半分を縦に入れ、キャベツの千切りをおまけに肉屋がサービスで入れてくれる。それにソースをかけて食べるのが無上の喜びだった。人は誰しも食べる喜びのために生きている。人はパンのみに生きるにあらずなどとノタマウが、それは能書きのようなもので、食べなきゃ死ぬ。死ねば生ゴミになって清掃車ならに霊柩車で運ばれる。いずれも焼き場で、焼却場と火葬場のちがいだ。
江戸の昔にも火葬場があり、死人を焼いてくれた。焼き場の職員を昔はかくれた坊主、隠坊(おんぼう)と呼び墓守や焼き場の職員を指した。このオンボウには焼き賃を支払うのが習わし、昔は現金決済の風が薄く、みな支払いは月末とか年に二度の支払い、当然金がないから焼き場のオンボウへの支払いに困る。困るったってオンボウも区役所の職員ではないから払ってもらわないと困る。半分しか銭がないから生焼けでいいかと言われれば、それまた困るので庶民が智恵を出した。それが香典を持ち寄ることだ。香典は米や味噌ではダメ、全て現金。昔は村八分なんてのがあって、交わりをしないことを決めたが、八分の残りの二分は付き合う。それが火事と葬式だ。火事が八分の家に出れば類焼のおそれもあるから消す、はやり病で死ねば伝染の恐れがあるから埋葬や焼き場に持っていく、いずれも我が身への被害をおそれるからだ。八分の家さえ香典があつまる。まして、普通に生活をしていれば尚のこと、これを香典葬と呼ぶ。
6年5組の三浦さんが亡くなったときアーチャンから電話がかかってきた。青森県の八戸にいたが、幡ヶ谷の火葬場に行った。三上先生も来ておられた。四十年も前の教え子の火葬に立ち会うなどということも、なかなか常人にはできないことだ。先生は教育者として立派で国も、その功績を認めて叙勲されたが、先生は人間として立派だった。その先生も昨今は足が弱って車椅子になられたが、我々悪ガキも先生を元気づけなかえればいけない。大恩ある先生がいつまでも元気でおられるようにと念ずるばかりだ。
さて、アーチャンは高く空中にブランコから飛び出すと、今度はウンテイに走る。ウンテイの横には桜の樹があり、花びらを散らしたあとには毛虫がぶらさがる。そんな毛虫も真っ青になるほど、アーチャンはウンテイにぶら下がり、見事に端から端へと繰り返して渡る。毛虫が風に乗ってブラブラするように、アーチャンもウンテイに両足をかけて逆さになってブラブラしてみせた。
そんな元気なアーチャンも、五年ほど前にチョットした高い所から落ちて両足を怪我、しばらく入院していたことがある。あの猿も真っ青のアーチャンがだよ、やはり歳には勝てないものだご同輩。
2011-05-06
三茶小の話
三茶小の校庭にはブランコがあった。学校の形はコの字型で上辺の二階の先端に音楽室があった。アーチャンにも土屋さんにも聞いたが、音楽室の下が何に使われていたかがわからない。コの字の上辺の道路を挟んだ向かい側には平和パンがあった。平和と命名するだけに戦後の創立なのだろう。
時折パンの焼けるいい匂いがしたもんだ。万年腹へらしの悪ガキ連には刺激的な匂いだった。音楽室の真下に鉄棒があり、砂場があった。若くして亡くなった高田君の相撲の強かったことは忘れられない。また、技も良く知っていた。ラジオで相撲の中継をしたが、アナウンサーの一言半句にも興味を持った。顔面紅潮若の花などの言葉は映像のない時代に想像力を掻き立てる言葉だった。相撲も現今のように6場所ではなく、昭和28年は4場所だった。32年に5場所と増えそれが6場所にまで伸びて八百長相撲が発覚。
高田君は普段はもっそりとしていて、あまり存在感のない人だったが、相撲になると俄然精彩を放ち無敵を誇った。アーチャンいわく、先生もかなわなかったと。
栃錦のことを良く知っていた。私とは席が隣で色々教えてもらった。一番背の高かった宮本君も負けた。宮本君は声変わりして、音楽の時間に声が出ないと涙をこぼした。優しい飯川先生は「男の子は誰でもそこを通るもの、心配しなくていいから、声が出るように必ずなるから、その時唄えばいい」といわれた。そんなものなのかと、声変わりの時機があるんだと認識した。
宮本君は逆上がりができなくて何度も挑戦していた。三上先生が尻を押して要領を教えるがなかなかコツがつかめない。腹を鉄棒にぶつけるようにするんだと三上先生が教えられた。それでも出来なかったが、根気のいい宮本君は何度も何度も繰り返して、とうとうできるようになった。
高田君が教えてくれた栃錦は東京都江戸川の生まれで、傘屋の子供、運動神経の良いのに気づいた近所の八百屋のすすめで角界入り、目方が軽く飯と水を一杯つめこんで新弟子検査をやっと通った。昭和19年に十両昇進するけど、普通の人と同じような体格、軍隊に行くが誰も相撲取りと信じない、軍隊内の相撲大会で手心を加えず投げ飛ばし優勝、やっと本職と認められた。昭和22年入幕するも75キロと小兵、26年の一月場所は初日から7連敗、あまり負けるもので先祖の墓参りに行く、墓に詣でているとき、通りすがりの人が「あの栃錦って相撲、小兵でいい技をもっているけど、七連敗だ。でもな、俺はあの男を信じてるんだ、負ける相撲を見てみなよ、精一杯手をぬかずにとっている。ああした男はかならず芽がでるもんだ」、栃錦はこの言葉を先祖が聞かせてくれたと思い手を合わせた。そして翌日から8連勝をなしとげた。高田君が嬉しそうに楽しそうに聞かせてくれた言葉が耳の底でよみがえる。亡くなった人を偲ぶことも立派な供養だ。
時折パンの焼けるいい匂いがしたもんだ。万年腹へらしの悪ガキ連には刺激的な匂いだった。音楽室の真下に鉄棒があり、砂場があった。若くして亡くなった高田君の相撲の強かったことは忘れられない。また、技も良く知っていた。ラジオで相撲の中継をしたが、アナウンサーの一言半句にも興味を持った。顔面紅潮若の花などの言葉は映像のない時代に想像力を掻き立てる言葉だった。相撲も現今のように6場所ではなく、昭和28年は4場所だった。32年に5場所と増えそれが6場所にまで伸びて八百長相撲が発覚。
高田君は普段はもっそりとしていて、あまり存在感のない人だったが、相撲になると俄然精彩を放ち無敵を誇った。アーチャンいわく、先生もかなわなかったと。
栃錦のことを良く知っていた。私とは席が隣で色々教えてもらった。一番背の高かった宮本君も負けた。宮本君は声変わりして、音楽の時間に声が出ないと涙をこぼした。優しい飯川先生は「男の子は誰でもそこを通るもの、心配しなくていいから、声が出るように必ずなるから、その時唄えばいい」といわれた。そんなものなのかと、声変わりの時機があるんだと認識した。
宮本君は逆上がりができなくて何度も挑戦していた。三上先生が尻を押して要領を教えるがなかなかコツがつかめない。腹を鉄棒にぶつけるようにするんだと三上先生が教えられた。それでも出来なかったが、根気のいい宮本君は何度も何度も繰り返して、とうとうできるようになった。
高田君が教えてくれた栃錦は東京都江戸川の生まれで、傘屋の子供、運動神経の良いのに気づいた近所の八百屋のすすめで角界入り、目方が軽く飯と水を一杯つめこんで新弟子検査をやっと通った。昭和19年に十両昇進するけど、普通の人と同じような体格、軍隊に行くが誰も相撲取りと信じない、軍隊内の相撲大会で手心を加えず投げ飛ばし優勝、やっと本職と認められた。昭和22年入幕するも75キロと小兵、26年の一月場所は初日から7連敗、あまり負けるもので先祖の墓参りに行く、墓に詣でているとき、通りすがりの人が「あの栃錦って相撲、小兵でいい技をもっているけど、七連敗だ。でもな、俺はあの男を信じてるんだ、負ける相撲を見てみなよ、精一杯手をぬかずにとっている。ああした男はかならず芽がでるもんだ」、栃錦はこの言葉を先祖が聞かせてくれたと思い手を合わせた。そして翌日から8連勝をなしとげた。高田君が嬉しそうに楽しそうに聞かせてくれた言葉が耳の底でよみがえる。亡くなった人を偲ぶことも立派な供養だ。
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