2011-05-02

上馬の思い出27 ラジオの話3

戦争中はラジオを点けっぱなしにして寝た。空襲警報を聞くためだ。命をかけてラジオの放送を聞いた時代があった。まだ我々が母親の背中に負われていたころだ。その戦火の中を世の母親は我が子を守ろうと必死、戦争が終って、アア、今日からはゆっくり寝れると喜んだという。当たりまえの事が当たりまえでなかった時代は恐ろしい。
日々是好き日は普通の生活を指す。今回の福島原発もそうだ。津波で家は被害に遭わない、家もちゃんと建っているけど中に入れないは恐ろしい。
我々を守ってくださった母親連も多くは鬼籍に入られた。感謝申し上げなければならない。
それでは、世田谷に居住しておられた母親連は何処からこの世田谷に来られたのかというと、この淵源は関東大震災にある。
東京が地震でやられ、多くの人々が下町を棄てて山の手に移転、それが東急線の界隈、目蒲線などが主流になった。昔は三茶も片田舎であった。農家の人々を除けば、大方は他地区からの移転者、上馬の改正道路裏あたりには、そうした移住者、移転者を受け入れた分譲地があったようだ。私の家の裏に高原さん、橋爪さん、吉田さんなどはこうした分譲地に同じ形の家が建っていた。高原さんは前にも記した警察官、この家には男二人、女の子が一人いて、長男は浜畑賢吉さんと同級のヤスヒロさん、三茶小で安松先生に才能を引き出された。東大に進学した秀才、なんでも鉄鋼会社に就職されたそうだが、消息は不明、弟のトオルさんは太っていて兄弟で、近くのオショウというあだ名の子供とケンカをしていたことがあった。父君の警察官は平巡査から叩き上げ、警察大学の校長にまで上られた苦労人。母親が千葉の港町から嫁してきたそうで、魚が送られてくるたびに同僚警官たちと自宅で宴会をして、子供たちはその都度、私の家の隣の技工師宅の加藤さんに避難していた。宴がたけなわになると、父君はオボンを二つ取り出し、素っ裸になって前を隠しながら踊る隠し芸、まさに前を隠すだけに名言だが、これを見ないと客が帰らない。面白い余興の持ち主だったが、実直、厳格そのものの人だった。
戦争も終りホットしたのも束の間で食糧事情が悪しく、こうしたふるさとからの臨時の食べ物を喜びとしたのだろう。それを惜しげもなく同僚にご馳走した高原さんは偉かった。少ない物でも分け与える精神は時代が変ろうとも存続し続ける。忘れてはいけないことだ。
さて、戦争が終って350万人が外地から引き揚げてきた。そうした人々を唄ったのが「上海帰りのリル」、日本が膨張し外地へと膨らんだ分が破裂し、一旗上げようとした人々が夢も希望も失せて、命からがら帰ってきた。そのため住宅事情も悪しく、間借りなどは当たり前だった。衣食足りて礼節の二つも悪く、さらに住宅事情も悪いなか、我々の父母は努力をされたことであった。そんな人々の生活を慰めるものはラジオからの歌、色々な歌が様々な人により歌われた。
ラジオ歌謡という番組があり、昭和21年四月から開始された。これで大ヒットしたのが「森の水車」歌は並木路子、作詞は浜松産の清水みのる、作曲は戦後、「湯の町エレジー」の大ヒットで地位を築いた近江俊郎が復員してきた仲間を強力に押し上げて「山小屋の灯」で復活した米山正夫が昭和16年に書いたもの。当時は大女優となった高峰秀子、大東亜レコードで発売、それが復活、明るいリズムが戦争を終ったことを感じさせた。もっとも、並木路子は「リンゴの唄」で一発大当たりをして、日本人なら知らぬ人なき大名曲となった。

2011-05-01

上馬の思い出26 ラジオの話2

私の家の隣はフタバ電気、ラジオを売っていた。お祭りの音響を担当したことを書いたが、この頃のラジオは高かった。戦時中はラジオは点けっぱなしにしていた。電灯の傘は布を覆い光が漏れないようにして、B29の焼夷弾攻撃を避けていた。改正道路を若林に下ると駒留神社の手前に大きな工場があり、石塀には迷彩模様が描かれていた。戦争中のなごりだったが、そこが釣竿工場に変り、名前もフィッシュング・タックルとなっていた。そこの不良品のグラスファイバーの穂先をキスノ君が得意そうに持っていたことがあった。
それは蝉取りに使えそうな感じだったが、それを使って取ったことはなかった。いつしか、そんな年から追い出されていたのだ。
ラジオが五球スーパーなどの名称で売られたころ、マジックアイという放送局を選別するのに便利な、ものが販売され、その目玉のようなものが周波数をぴったり合うと大きく開くようになっていた。
さて、JOAKのNHK放送が開始されたころは、勿論、これ一波しかないから、選局も必要が無い。ところが、民間放送が開始になったため、周波数を選ぶ必要が出た。これに着目したのがマジックアイ。これは1937年にアラン・デユモン氏により発明された。よく知っているように書いているだけで、インターネットで調べながら、ようよう記述。それにつけても、インターネットは使い方一つで大変便利なもの、長生きはするもんだが、大震災や福島原発のような見なくてもいいようなものまで見て、いいような悪いような気になるのも妙。
民間放送が誕生すると困るのはNHK、そこで天下のNHKも色々と妨害工作、汚い手口、精神はNHKに連綿と続くが、それはさておき、民放誕生のドタバタは色々あり、軍部の手先となったNHKはニュースなどを自前で作成することなく、言われるままに放送し、戦後GHQから戦犯として処分されるとビクビク、ところがアメリカは自由放送の国、そらがそのまま日本に持ち込まれるかと思うとそうでもない。多くの民間放送を取り締まるより一局のほうが良いと、NHK単独であったが、共産主義の脅威にさらされるようになると、NHKが増長し、ストライキをやらかし、放送が中断され、国家管理となりNHKの役員らが放送実施、このころ読売新聞は日本共産党の第二新聞と呼ばれるほどに共産かぶれ、社主の正力は戦犯で笹川良平などと共に巣鴨の監獄にぶちこまれていた。
ために、電通の吉田がはりきり、日本に民放開設を新聞社に働きかけ、地方紙を巻き込みながら全国制覇を目論む。正力はそれに乗り遅れたがテレビに着目。しかし、それには時間がかかった。吉田の目論見どおり全国展開となり、主導者電通はラジオ広告の王者となった。新聞広告は媒体主の新聞社に広告料を支払う、勿論ラジオも同様だが、新メディアの登場で料金設定は電通の思うがまま、これで一躍電通は広告業界の覇者となった。
ラジオは一家に一台で子供の自由にはならない高嶺の花、このラジオがNHKしかなく、終戦を迎え、我々悪ガキの耳に飛び込んできた放送があった。それが「尋ね人の時間」、戦争で行方不明の肉親縁者をさがすもの、嫌な時代を通りすぎてきたものだ。
母親の背中で聞いた「東部軍管区情報」はB29の飛来を知らせるもの、これを聞くと母親たちは電気を消して防空壕へと逃げ込んだ。夜空を見上げると焼夷弾が金魚のように見え、母親に「赤いとっとだ」と知らせたと後年いわれた。嫌な時代を共にくぐりぬけました。

2011-04-30

上馬の思い出25 ラジオの話1

中野義高さんはメイド・イン・タモツのことを覚えていたが、ただ、タモツという子がいたとしか記憶になく、メイド・インの名は知らないという。メイド・イン・ジャパンの言葉をタモツが英語にあこがれて勝手につけたのだろう。そして、子分にメイド・インと呼べと命じたのかもしれない。こ改正道路は広くて快適だったらしく、待田 京介(日活俳優)がオープンカーで上馬から若林に向かって走り、中野さんの家の反対側が毎回テレビのオープニングシーンに使われたことがあった。待田は空手の大山倍達の一番弟子、触ると切れそうな顔をした役者、それが探偵だかの役で改正道路を疾駆する。当時としては珍しいほどの良い道路だったのだろう。
テレビのプロレスにしびれたのは大人ばかりでなく、我々悪ガキも同じで、生駒さんや勝比古さんは詳しく、ルーテーズ、コワルスキー、シュナーベル、プリモカルネラなどの外人レスラーも頭に入っていた。何と言っても力道山の空手チョップが凄かった。黒のタイツで格好もよかった。レフリーの真似をして友達同士でプロレスごっこが大流行だった。
プロレスに人々が集まる街頭テレビも、その他の時間はまるで閑古鳥だった。そんな時間に流れていたのが第二次世界大戦の記録映画、ナチスが負けて日本が降参する話で、見ていて面白いわけもない。このころアニメの広告が開始になった。パール歯磨きは昭和28年に資生堂が売り出した。歯ブラシに半分つけてが売り文句、泡が出るのが人気となり結構売れた。野沢の商店街に八百屋があり、大場金物店の側だったと思うが、ここに小さなテレビがあり、皇太子(今上天皇)が外国に船ででかけるシーンを放送していた。ここのテレビは時代の先取りで、ヘーエーとびっくりした。それから石橋酒屋の街頭テレビとなる。読売新聞の社主、正力松太郎が民間放送のテレビの生みの親、電通に吉田という社長がいて、民間放送ラジオをやらないかと正力に話を持ちかけると、正力はラジオよりテレビだと、その話に乗らなかった。
平成の御世になり東日本大震災が発生、関東大震災がおきたときには日本にラジオ放送はなかった。ために、流言蜚語で朝鮮人が井戸に毒を入れたと、自警団が朝鮮人狩りを行い、多くの人々が裁判もなくリンチにあった。この流言蜚語の元は正力松太郎であった。当時、彼は警視庁に勤務し警視庁も灰燼に帰す中、一部朝鮮人に不逞な動きありと策動し朝鮮人虐殺のもといになる発言をした。これが、電話で伝わり軍、警察関係から情報が流され大虐殺事件となった。
今となっては陳腐化したようなラジオメディアではあるが、この登場期は文明の利器の最先端、高価なものであった。このラジオは第一次世界大戦が終了した大正九年、アメリカ、ペンシルベニア・ピッツバーグで世界初のラジオ局、KDKA局・民間放送が開始になった。当時、真空管メーカーのウエスティングハウス社が、戦争が終って軍に納入していた無線機用の真空管が大量に余ってしまった。戦争中は前線の兵士との連絡に、無線機が使われ、その便利さに着目した軍が無線機製造に力をいれたが、終戦でこれが不要、メーカーのウエスティングハウスは頭が痛い。すると、その会社にいたコンラッド技師が、第一次世界大戦で禁止されていた、アマチュア無線局を再開、世の中平和になったんだから、無線機で方々の人とおしゃべりを楽しもう、世の中、どこにでもこうしたヒョウキンな人がいるもんで、この男のお喋りが、軽妙で頓知にたけており、時宜にあった話が評判となり、次第に多くの人に聞かれるようになった。これがラジオメディアの始まりで、わが国には大正十四年三月二十六日、日曜日午前九時三十分、温度六度五分と少々肌寒い東京上空に電波が発射された。国民が同じ情報を同時に共有する幕開け、関東大震災の二年後だった。続

2011-04-29

上馬の思い出24

渋谷行きの玉電の停留所前に西沢という本屋があった。石橋酒屋、ウガパーの家の隣だ。二子玉川を昨今の人はニコタマと呼ぶそうだ。玉が二個とはどっかで聞いたような話だとニヤリ、玉川は多摩川でもあり丸子多摩川の呼称もある。この呼び名を解明した者はなく、なんとなくそうだというだけ。二子塚というのがあったからなどの話もあるが不明。
その昔、玉電はジャリ電と呼ばれたと三茶小の三上先生がいわれた。私も玉電が貨車を曳き、砂利を運搬していたのを目撃した。二子玉川から砂利を採取したのだろう。小学生のころは二子玉川に行くなと言われた。業者が砂利を採取し、穴をそのままにして、子供がその穴にはまって死ぬ事故が絶えなかった。
西沢書店のおかみさんはズケズケ物を言う人で、立ち読みしていると、子供は汚い手で本を見るなと叫ぶ。イヤなばばあだと思っていた。追われてももどる五月蠅のように、それでも西沢書店には通った。なにしろ、手塚治虫のマンガが見たくてたまらなかった。マンガの上手な勝比古さんは巧いだけではなく、マンガ界についても詳しかった。イガグリ君というマンガが、これは大ヒットすると第一回が出た時に予言した。作家は福井英一、この人はすぐに亡くなった。イガグリくんは柔道漫画、そして、後年少年たちの血を熱くした、あの名作「赤胴鈴之助」の剣道漫画の第一作を描き急逝、わずか33歳だった。
その後を引き続いて描いたのが武内つなよし、この人は赤胴で売れっ子作家になった。福井は東京都の産、惜しい才能だった。スポコン漫画(スポーツ根性)の元祖。
勝比古さんは自分が漫画をかくだけでなく、漫画界にまでアンテナを広げていたのは、漫画家を目指していたのだろう。ところが、自分の好きなことで生涯を送れるものは少ない。この勝比古さんも漫画界に投じた話を聞かなかった。これも惜しいことだった。
さて、二子玉川で子供が砂利採取の穴に落ち込んで死ぬと書いたが、この西沢書店の子が友達と二子玉川にでかけ、その子が見えなくなったので一人で帰ってきた。その子は死体で見つかり、その母親が嘆いて、店番をしている嫌なおかみさんに電話をかけてきた。丁度、そこへ立ち読みにでかけた。長電話でおかみさんが叩きをかけにこないので、いい塩梅だと漫画を見ていたが、次第に電話の応対が急を告げてきたので、今度は漫画そっちのけで耳が次第に大きくなった。おかみさんは自分の子どもは悪くないと自己弁護、ところが命を失った方は治まらない。日頃、我々悪ガキを叩きを持って追い回すにっくきばばあがやりこめられているので、それは痛快至極、日頃の溜飲を大きく下げた。それでもにっくきばばあは自己正当を繰り返していたが、誰の目にも非があった。
その西沢書店も今は無くなってしまった。新刊本はインキの臭いが店内に充満し、これが文化の匂いだと思った。

2011-04-28

上馬の思い出23

ドリアンの隣に貸し本屋ができた。ドリアンは二階建て長屋で、貸し本屋に貸した家にはノブ公という子供がいた。この貸本屋で怪人二十面相などの本を借りた。貸し本屋で食える時代があった。この貸本屋は兄弟で経営していて、弟は早稲田大に行っていたが、ほどなくして死んだ。その後、この本屋はカメラ屋に商売替えをした。カメラなど高価で高値の花だった。その並びにオグラ時計店があり、若くて元気な兄弟がいたように思う。そこでレンズを買って望遠鏡を作ったことがあった。
この家に嫁いだ美人がいて、島村イクコと言った。三人姉妹の二番目、関西から移転してきて、私の家で姉妹三人が働いていた。その二番目は卓球が上手く和泉屋の先、デカシさんの近くに卓球場が出来て、そこに遊びに来たオグラ時計店の若い経営者と知り合い結婚した。私が中学二年生の頃だった。
合縁奇縁の言葉があるが、人生はちょっとした出会いで人生が大きく変わる。良きにつけ悪しきにつけだ。このオグラ時計店は現在でも上馬に存在し、昔より大きく立派になったような気がする。一度も訪ねたこともないが、長い風雪をくぐりぬけて現存することは立派としか言いようがない。時代は激しく移り変わり、昔の子供も今は老人となった。色々なことを見聞してきたが、時代は少しも休むことなく変化を繰り返して見せる。これもまた不思議なものだ。
オグラ時計店の並びに松の木瀬戸物店があった。やる気のない姉妹が経営していたが、ある日店じまいをした。その並びに毛塚の今川焼き、赤井おもちゃ屋、その店のおばあさんは赤井花子と言った。そして進藤肉屋になり野沢商店街へと切り込んで行った。野沢商店街には大場金物屋があり、釘から鍋釜と種々雑多なものが並んでいて、見ているだけでもめまいがしそうだった。今のようにホームセンターで何でも自由に見たり触ったりができる時代ではなく、店員に○○が欲しいというとそこに案内してくれた。釘などは目方で売っていた。大塚という洋品店、旭デパートだかマーケットが出来て、その二階に大坪というボディービル道場があった。そこには相撲の鳴門海が来たことがあった。力道山のプロレスブームが世の中を大きく変化させた。
ともかくプロレスが見たかった。玉電通りの千田歯科医の近くにそろばん塾があり、そこにテレビがあり、通ってもいないのにプロレス見たさに押しかけた。シャープ兄弟と力道山の試合はラジオじゃわからない迫力があった。柔道の木村との戦いも凄かった。ともかく、聞く楽しさもさることながら、見たいという欲求のほうが強かった。石橋酒店の街頭テレビには多くの人が詰め掛けた。昔は今のように四六時中テレビは放映されていない。昼などはテレビは見れなかったもんだ。
その街頭テレビを置いている石橋酒屋に同い年の子供がいて、言葉が不自由だった。それでも運動神経は敏捷で走るとやたら早かった。改正道路で軍艦ごっこなどをやると、ルールも理解して巧みだった。何か喋ろうとすると、吐くようにウングと言ってからパーと続けるので、皆がウガパーと呼んだ。彼もまたそれに反応して振り返ったので、耳は機能していたのだろう。ある日、彼と遊ぼうということになり、あたりを探したが見当たらない。家にいるのじゃないかと、酒屋に入り込み、店番の母親にウガパーいる?と聞いたら、「まあひどい、うちの子は○○という名前があるんです」とひどく強く言われた。泣きそうな顔をして言ったところを見ると、本気で怒ったのだろう。しかし、ウガパーはウガパーだと気にもしなかった。駒沢中学に宇佐美という焼き過ぎた黒パンのようなでかい顔をした国語の教師がいて、聾学校の教師になりたかったが、頬がふくらんでいると、生徒が頬の動きで言葉を察するので、不向きだと採用されなかった話を聞かせた。その時に、聾学校に入ると最初に子供を椅子に座らせ、顔を上に向かせて口に水を注ぎ込む、すると苦しくなって、ウガという、そして、その水をパーっと吐き出す。言葉は口から空気を出す訓練の第一歩がウガパーだと言った。なるほど、それでウガパーだったんだと理解した。
そのウガパーの店の横に空になった味噌樽が並んでいて、冬の寒い日は、それに入り込んでヘリについた味噌を舐めた。するとウガパーが我々を酒屋の物置に連れて行った。袋の破けた塩や砂糖などがあり、塩は舐めなかったが砂糖は舐めて残りはポケットに入れた。横に缶詰があり魚の絵が描いてあった。それは缶詰が太っていてはちきれそうになっていた。よほど美味い物が入っているんだろうと、松ノ木精米店のヒロシさんに言うと、それは腐っていて中にガスが溜まっているから食うと死ぬぞとおどかされた。食べなくてよかったと思った。ウガパーは長じてワイシャツの店を経営したと聞いた。

2011-04-27

上馬の思い出22

酒場ドリアンはどりあんと書いたのかも知れない。ともかく60年も前のことだけに、定かではない。玉電という路面電車がのんびりと走り、その両側に所々に商店が立ち並ぶ、ごく貧弱な町並みだった。渋谷から上通りにかけて玉電は専用軌道敷を爪先あがりに上る。大橋、池尻、三茶と続くわけだが、この廃線になった玉電の駅名を渋谷から二子玉川までいまだに言える。幼い頃に記憶は鮮明だが、年取ってくると昨日の晩飯がなんだったか忘れてしまうのも不思議。
あおの玉電の中心になる所から上馬の次が真ん中で真中(まなか)と言った。安全地帯などもなく、電信柱に赤い行灯看板に真中とかかれていた。雨が降るとジイジイと爺さんが恋しくて泣く孫のような音を立てた。また、良く雨が降ったもんだ。夏になると夕立が降って通る人を嘆かせたが、雨宿りをしたくとも改正道路にそんな洒落た店はなく、皆、ひたすら歩いたもんだ。夕立がやむと赤とんぼが湧くように青空を自由に飛び、悪ガキはそれを箒を持って追いかけた。とんぼなどどれほど採っても腹の足しにはならないが、それでも反射的に追いかけた。
玉電に乗って砧の池で釣りをしに行った。松の木精米店のヒロシさんは釣りが上手で、鮒などを釣り上げたが、私はいつも一匹も釣れなかった。真中に釣具屋があった。丸い東海林太郎のような眼鏡をかけた主人が客と釣り談義でもしているのか、客が絶えなかった。
そこで鮒をバケツに入れて売っていた。それを甕に入れて飼ったが、次第に大きくなり、甕が小さく見えるようになったが、その鮒をどう始末したのかは覚えていない。
釣りにはヒロシさんの外に勝比古さんも行った。砧の池で釣っていると、蛇がとぐろを巻いているのを見つけ、勝比古さんに教えた。青大将ではなくやまかがしだという、それを勝比古さんがつかもうとして噛まれた。毒はないかれ平気だと言っていたが、蛇を上手に扱えると思っていたのに噛み付かれてショックのようだった。
砧には二子玉川で乗り換えるのだが、そこから先は単線で歩いて行ったこともある。鉄橋を線路に従って歩くと途中に蛇の死骸があったりした。国太床屋のタケシさんが親戚が溝口にいるそうで、砧は隣村だけに良く知っていた。砧駅の前にワカモト製薬の社長のデカイ洋館があった。田圃が続くのんびりとしたところだった。
その田圃の横には狭い流れがあり、そこをボテという手に持つ網でガサガサとかき回すとどじょうや小魚が一杯とれた。それをタケシさんは得意にしていた。駒中のタンチ山に霞み網をしかけて小鳥をとっていた。霞み網はやってはいけないと言いながらとっていた。私はその後についていったが、一回も網にかかったのを見たことがなかった。タンチ山というのは昔、そこにタンチという乞食が住んでいたそうだ。今のホームレス、昔は山ごと自分のねぐらにしていたから、現今の駅の近くの通路に寝るのとは訳がちがう。乞食の名が山の名になるのだから大したもの。もっとも渋谷の道玄坂も道玄という夜盗・強盗の大和田太郎道玄の名からきたそうだ。昔の武士なんてのも押し借りゆすりは武士の習いというほどで、理屈ぬき理不尽なんてのは当たり前、土台、働かなくして飯を食うのだから、どこからか融通しなければ食えない。強盗などは朝飯前だ。
勝比古さんのドリアンは母親が経営、父親は裏で雀荘をやっていたが、小男で風采が上がらなかった。ところが世の中はどういうところか、この小男が若い女とできて駆け落ちしたと風の噂が伝えた。それは私が駒沢中学の二年生だか、三年の頃だった。勝比古さんは父親を見つけたら殺してやると、飛び出しナイフを持って歩いているそうだと友人が教えてくれた。色の道ばかりは道理や条理のつかないところで隠花のようにひっそりと妙な臭いと共に咲く。そんなことが判るようになるのは、それから十年もあとのことだった。勝比古さんの母親は急に老け込んだと、これも噂で知った。

2011-04-26

上馬の思い出21

メイド・イン・タモツ親分のおかげでセンミツと呼ばれた。千に三つしか本当のことを言わないという、つまり0.3%、子供の頃は紙芝居が来て、5円も持っていけば充分に何か買えた。紙芝居というとガマさん、明治大の夜間に行っている若い人、それとフライパンだった。紙芝居は下北沢の貸し出し元から借りて、自転車に駄菓子の入った引き出し、その上に紙芝居のセット、さらにその上に大太鼓を置いて、町の辻辻で、大太鼓を胸にかけて、叩いて近所を廻ると、どこからともなく子供が湧いて出る。
定番の黄金バットは人気がなかった。怖いのもあった。墓場から生き返って出て来るのなんかは夜中に小便に行くのが嫌だった。
紙芝居も読み癖があり、その口調に子供ながらも巧拙があると思った。明大生のは朗読調、ガマさんのは芝居風、フライパンのは軽演劇のような軽さとアドリブにあった。フライパンの持ってくる紙芝居は滑稽ものが多く、それが子供に受けた。フライパンは太鼓が買えないので代用品としてフライパンを叩いていた。それが故にフライパンという。フライパンの守備範囲は広く三茶のあたりまで廻っていたようで、アーチャンも紙芝居を見たという。このフライパンは酒癖が悪く、後年三茶で飲んでケンカをして目青不動のところで刺し殺された。目青不動は江戸の五不動の一つで目が青いからその名がある。もとは麻布谷町、今の六本木あたりにあったが、明治41年に三茶の太子堂に移転してきた。
フライパンはお調子者だったけど悪人ではなかったように思うが、それも子供の視点、本当のことはわからない。
刺されて死んだ話は後年、私の知り合いでそれをみた。大井町で質流れ品を販売していたアライさんはいつも黒い顔つきをしていて、何か不思議な感じがあった。私が東京質屋組合の手伝いをして、組合会報の連載を書いていたころ、アライさんの主人筋の上総屋のことを記した。そのときに城南の質屋の雄、上総屋の旦那と知り合ったが、このアライさんの店に泥棒が入り、多額な被害にあった。その保険金の請求を東京海上にしたが、敵はなかなか払わない。その交渉を依頼されかけあったことがあった。無事に保険金は支払われアライさんい感謝されたが、中国人の泥棒のようで、大井町あたりは物騒だった。セコムにも加入してアラームが鳴る装置もつけていたが、ある日、開店のシャッターを開けたら、中に泥棒がいて刺し殺された。このアライさんと同じ顔つきのコックを見たことがあった。アライさんと同じだな、きっとまがまがしいことが起きるぞと思っていたら、このコックの家が丸焼けになった。その後、このコックの顔つきから黒いのが消えた。不思議な経験をしたもんだ。それ以来、人相には特に気を配るようにしている。
さて、隣の家の電気屋の長男ケンチャンが玉電通りを改正道路に渡ろうとして車に撥ねられた。腕に大怪我を負った、撥ねたのは外国人だった。なんでも納豆を買いに行き、その帰りに撥ねられたという。野沢の通りに乾物屋が何軒もあった。新倉屋という乾物屋だと土屋さんが教えてくれるが、どうも、上馬から野沢へかけての商店が思い出せない。駒中の原君は家が近いので野沢の商店街の地図が書けるかもしれない。折があれば頼んでみたいものだ。その頃の野沢は改正道路から見ると狭く、せせこましい感じがした。若林の交番まで改正道路が広く、その先はまた狭まっていた。私の家はメリヤス屋で駒沢に鈴木という仲間がいた。そして若林の狭くなった通りの左側に北条というメリヤス屋も同業で知り合いだった。そこの長男が私より一つ上で、ボロ市で露天商の親分を刺し殺した。中学を出て間もなくだったような気がする。その頃は安藤組が渋谷で幅をきかせていた。子供をそそのかして相手を殺させるのは人非人のすることだ。フランスの詩人アラゴンはこういう、若者に教えることは希望を持たせること、学ばせることは誠実を胸に刻み込ませること。私たちも老人になり、若者のために今日一日、何か努力をしただろうか、そんな問いかけも大事、このブログも若い人の夢と希望を掻き立てられるもとに、少しでも役立てばと思って書いている。多くの三茶界隈を舞台とした話に時代を超えた何かを感じてもらえれば望外の喜び。どの道、好き勝手に生きても一生は一生、不幸だ、つまらないと思っても、これもまた一生、それなら、今日も楽しかった、今日も面白かったと笑って暮らせる人こそ、真の人生の王者だ。銭・金を超越したところにこそ、人生の本質があるのさ。