改正道路を若林の方にだらだらとバケツを持って降りていくと、丁度谷になったところに蛇崩川があった。駒留神社の手前にあたる。両岸は土で川幅もかなりあるように思えたが、今行ってみると狭いので驚く。もっとも今は暗渠になっているので、往時の面影は全くない。ここにバケツを持って流れに入り込み、土手の川面近くの穴に手をつっこむとアメリカザリガニが両手のはさみを拡げて威嚇してくるが、遠慮も会釈もなく、どんどんバケツに突っ込む。日本ザリガニは小さく、こいつらに脅かされて小さくなっていた。丁度進駐軍に追いまくられた日本人のようなものだ。
アーチャンはその大きなアメリカザリガニを選んでとって、家に持ち帰って煮て食った。海老と同じ味だったという。あんな美味いものがタダで山ほどとれたんだから、いい時代だったよとしみじみ。
私は日本ザリガニをとって洗面器で飼っていた。えさになにをするかで困ったが煮干を砕いてやった。暫くすると赤ん坊のエビガニが沢山出てきた。ちっこくって可愛かった。少し大きくなって、駒留神社の前にひょうたんのような池があり、そこに放した。大きくなったらまた遊ぼうと小さな声で言った。
アメリカザリガニは赤くて大きく、その中でも特に大きいのをマッカチと呼んだ。アーチャンも同じようにマッカチと言っていたから、皆がそう言っていたのかもしれない。マッカチは偉そうに大きなはさみを振上げる。持ち上げて腹を見ると、尻尾の内側に丸い玉があり、それをマッカチのちんぼこだと言う。それを押すと痛がるのか、余計にはさみを振上げた。面白くて何度もやったが、やられたアメリカザリガニは困った小僧だと嘆いていたのかも知れない。
ひょうたん池には亀がいた。結構大きかった。大人の手のひらより大きかった。ある日をれをとって生駒さんの家に行ったら、神様の御使いだから返してやらなければいけないと、お酒を飲まして、また池に返してやった。昔の人は神様のいることを信じていたのだ。
でも、駒留神社に神様はいないのを知っていた。
毎日のように蛇崩川とひょうたん池をうろうろしているうちに、駒留神社の神主の子供と仲良しになった。なんでも、この神社のほかにも神社を守っていて、神主の父親は忙しいんだという。丁度その日は父親が帰ってくるのが遅い日だから、ご神体を拝ませてやるという。喜んで社殿にあがり、奥のほうに連れてってもらった。階段の奥に三方に乗った白木の箱があり、その蓋を開けた。覗き込んだが、子供のげんこ程の大きさの石が入っているだけだった。がっかりした。あんなもののためにわに口を鳴らして拍手を打ったのかと思うと急に馬鹿らしくなった。神主の子供は偉そうに、「いいものを見ただろう」と言ったので、「うん」とだけ応えて家に急いで帰り、祖母にご神体は石だぞと告げたら、「そういうことは言うもんじゃない」と叱られた。「でも、馬鹿馬鹿しいだろ、あんなものを拝むなんて」と更に足すと、「皆知ってるんだよ、でも、神様は皆の一人ひとりの心のなかにあるもんで、ご神体が石だろうと木だろうと、何でもいいんだよ、信ずる力のある人にとって、形はなんでもいいもんだ」それでも納得できなかった。大人は馬鹿だと思ったが、この歳になってそれが判るようになった。
2011-04-18
2011-04-17
中里の思い出6
少年探偵団ならぬ老人探偵団がウロウロと三茶あたりを徘徊、ウロウロよりヨタヨタ、オロオロの方が正しいのかも、宇田川君と仲が良かったのが生駒君、染物屋の次男、この人の家には文化があった。それも江戸の名残の、講談・落語・浪曲の日本の伝統話芸などは、生駒君の家で自然と身についた。もっとも、染物自体が江戸の風を示すもの、当然のことだったのだろう。
その生駒君と宇田川君が渋谷に切手を買いに行くというので付いていったことがある。中学に入った頃に切手ブームがあり、それに興味を持ったが貧乏人には無縁の代物、すぐに飽きたというか買えなくて脱落した。後年、これは切手商が金集めの手段として生み出したものだと悟った。生きて行くには金が必要になるが、あまりこれにこだわると守銭奴となり、人から奇人変人のそしりを受ける。
切手が幾らで売買されているかを示す冊子があり、売りもしないのに、これで幾ら儲かったと得意そうに話す中学生もいた。
成人してコイン商と知り合いになったが、昔は皆、切手商だったそうだ。ところが切手が売買できないことを素人が知って、それが瓦解してコイン商に転じた。秋葉原のシントク電気の上に貸しホールがあり、そこで交換会が開かれていた。オリンピックの千円玉が一万円で売れた。大儲けをした人が出たの触れ込みがあり、連れて行ってもらったが、そこもダマシの世界のようだった。外国人の顔も見えた。
小学生にそんな世界があるとは知らないのだが、金がないから切手の蒐集が出来なかっただけだが、蒐集家が財を成した話を聞かないことからも、後年知ったダマシ・詐欺師の手口だったことは間違いない。秋葉原のコイン交換会を開いていた男は、銀が大相場になったとき、百円玉を溶かして大儲けをした。無論これは犯罪ではあるが、そんなことはおかまいなしでやる奴ばらが世の中には紳士面して横行している。そのころ滝本君という駒中の同期生と逢ったことがある。エノケンに苦労させられたと話していた。エノケンは仇名で、本名は忘れたが、上馬駅の駒沢寄りで板金屋の倅だ。父親は鼻筋の通った面長で、曲げ物に出てくるようなイナセな感じの美男子だった。かっぱからげて三度笠の似合う人だなと思っていた。エノケンはせせこましい感じのとっぽい少年だったが、人生誰しも落とし穴が待ち受ける大人の世界、女・酒・バクチの三悪のうちのどれとどれに足を突っ込んで抜けなくなったのか、金に窮して友人を踏みつけたようだ。そのことを滝本君が言ったのだろうが詳しくは語らなかった。
金は便利なようで扱いが難しく、この使い方や概念について日本人は子供に教えないが中国人は金銭感覚について厳しくしこむ。どれが良くてどれが悪いわけでもないが、人生の並木道を踏み迷うことのないように最低限の知識は持つべき。そうした誘惑にも負けず、落とし穴にも落ち込まずになんとかこの歳まできたが、いやあ御同輩、簡単容易な道ではありませんでしたな、お互いに。
人生は良いことばかりではなく、悪いことばかりでもないが、どんな歳になっても希望とか生きることに飽きてはいけないと格言にもありますぞ。森進一って歌手がいて、泣き節といわれるけど、ディック・ミネの人生の並木道を歌わせると抜群の味を出す。苦労の度合いが大きかっただけに、歌にこめる哀感が人を打つのだろう。宇田川君の家の近くには飯塚新太郎君、島田源太郎君などがいた。その島田君も数年前に亡くなった。いつもにこにこした少年だった。
その生駒君と宇田川君が渋谷に切手を買いに行くというので付いていったことがある。中学に入った頃に切手ブームがあり、それに興味を持ったが貧乏人には無縁の代物、すぐに飽きたというか買えなくて脱落した。後年、これは切手商が金集めの手段として生み出したものだと悟った。生きて行くには金が必要になるが、あまりこれにこだわると守銭奴となり、人から奇人変人のそしりを受ける。
切手が幾らで売買されているかを示す冊子があり、売りもしないのに、これで幾ら儲かったと得意そうに話す中学生もいた。
成人してコイン商と知り合いになったが、昔は皆、切手商だったそうだ。ところが切手が売買できないことを素人が知って、それが瓦解してコイン商に転じた。秋葉原のシントク電気の上に貸しホールがあり、そこで交換会が開かれていた。オリンピックの千円玉が一万円で売れた。大儲けをした人が出たの触れ込みがあり、連れて行ってもらったが、そこもダマシの世界のようだった。外国人の顔も見えた。
小学生にそんな世界があるとは知らないのだが、金がないから切手の蒐集が出来なかっただけだが、蒐集家が財を成した話を聞かないことからも、後年知ったダマシ・詐欺師の手口だったことは間違いない。秋葉原のコイン交換会を開いていた男は、銀が大相場になったとき、百円玉を溶かして大儲けをした。無論これは犯罪ではあるが、そんなことはおかまいなしでやる奴ばらが世の中には紳士面して横行している。そのころ滝本君という駒中の同期生と逢ったことがある。エノケンに苦労させられたと話していた。エノケンは仇名で、本名は忘れたが、上馬駅の駒沢寄りで板金屋の倅だ。父親は鼻筋の通った面長で、曲げ物に出てくるようなイナセな感じの美男子だった。かっぱからげて三度笠の似合う人だなと思っていた。エノケンはせせこましい感じのとっぽい少年だったが、人生誰しも落とし穴が待ち受ける大人の世界、女・酒・バクチの三悪のうちのどれとどれに足を突っ込んで抜けなくなったのか、金に窮して友人を踏みつけたようだ。そのことを滝本君が言ったのだろうが詳しくは語らなかった。
金は便利なようで扱いが難しく、この使い方や概念について日本人は子供に教えないが中国人は金銭感覚について厳しくしこむ。どれが良くてどれが悪いわけでもないが、人生の並木道を踏み迷うことのないように最低限の知識は持つべき。そうした誘惑にも負けず、落とし穴にも落ち込まずになんとかこの歳まできたが、いやあ御同輩、簡単容易な道ではありませんでしたな、お互いに。
人生は良いことばかりではなく、悪いことばかりでもないが、どんな歳になっても希望とか生きることに飽きてはいけないと格言にもありますぞ。森進一って歌手がいて、泣き節といわれるけど、ディック・ミネの人生の並木道を歌わせると抜群の味を出す。苦労の度合いが大きかっただけに、歌にこめる哀感が人を打つのだろう。宇田川君の家の近くには飯塚新太郎君、島田源太郎君などがいた。その島田君も数年前に亡くなった。いつもにこにこした少年だった。
2011-04-16
中里の思い出5
中里から上馬に向かう専用軌道の右手は崖になっていた。その上り坂を電車が進むとすぐ右手の高い所には犬舎があり、大きなシェパードが何匹もいた、警察犬の訓練をしていたと言う。その隣が大川さんの家で、目が大きく丸顔で色白、まるで少女雑誌に載る蕗谷虹児の挿絵のようだった。
季節が廻ってくると、また、あの花に逢えると人は心待ちにする。桜がそうだ。花は桜木、人は武士と歌われるように、散り際の潔さを言うが、人も花のようなものだ。年年歳歳花あい似たり、歳歳年々人また同じからずというが、同期会を開くのは、その人に逢いたい、あの人と話してみたいという願望が足を運ばせる。
大川さんは挿絵画家の描く可憐で楚々とした雰囲気があった。その大川さんは長じて女史美術大学に進学された。同期会で逢ったとき、以前と同じ雰囲気で、人は変らないものだと遠くから眺めた。
次の会で逢ったとき、最近耳が遠くなったのと言っておられた、ほどなくして訃報を聞いた。人は突然散る、それも何の前触れもなく。美少女の大川さんは久子さんと言われた。蕗谷虹児の絵をみるたびに大川さんを思い出す。あの大川さんの花には二度と会えないけど、挿絵はいつでもみることができる。蕗谷虹児は新潟県新発田の産、十二歳で二十七の母を亡くす、美人として有名な人、貧苦のうち新潟市の印刷会社につとめ、夜間画学校に通い、新潟市長に才を見出され十四歳で日本画家尾竹に弟子入り、放浪の後、東京に出て知人の紹介で日米図案社に入社、そこで竹久夢二と知り合う。それが機運を得て一流挿絵家の名を得た。「花嫁人形」の作詞でも知られるが作詞家が間に合わなかったので、急遽蕗谷が走り書きしたものを採用、これが大当たり、さらに戦後の混乱の時、この歌がアメリカで流行し多額な印税が入り込み、貧乏生活の蕗谷を助けたという。人は何が待ち受けるかわからないもの。
この大川さんの家の近くに須永君、佐藤君、小沼君が居住していた。小沼君は現在でも住んでおられる。地球が回るように我々も時代を回っている。その回転から放り出される者、しがみついていられるものに分れる。小沼君は回転するコマの中心におられたのだろう。今でも中里、須永君は神奈川の津久井湖のほうに行かれたが、その後が判明しない。きっとどこかの空の下で旧友を懐かしんでおられることだろう。
変る時代、変る世の中、でも人情だけは変って欲しくはないもの。故人を偲び先人を尊ぶという素朴ではあるが大事なものを。
花嫁人形
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮(はなよめごりょう)は なぜ泣くのだろ
文金島田(ぶんきんしまだ)に 髪(かみ)結(ゆ)いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿(か)の子の 振袖(ふりそで)着てる
泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙(なみだ)で鹿の子の 赤い紅(べに)にじむ
泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装(ちよがみいしょう)
季節が廻ってくると、また、あの花に逢えると人は心待ちにする。桜がそうだ。花は桜木、人は武士と歌われるように、散り際の潔さを言うが、人も花のようなものだ。年年歳歳花あい似たり、歳歳年々人また同じからずというが、同期会を開くのは、その人に逢いたい、あの人と話してみたいという願望が足を運ばせる。
大川さんは挿絵画家の描く可憐で楚々とした雰囲気があった。その大川さんは長じて女史美術大学に進学された。同期会で逢ったとき、以前と同じ雰囲気で、人は変らないものだと遠くから眺めた。
次の会で逢ったとき、最近耳が遠くなったのと言っておられた、ほどなくして訃報を聞いた。人は突然散る、それも何の前触れもなく。美少女の大川さんは久子さんと言われた。蕗谷虹児の絵をみるたびに大川さんを思い出す。あの大川さんの花には二度と会えないけど、挿絵はいつでもみることができる。蕗谷虹児は新潟県新発田の産、十二歳で二十七の母を亡くす、美人として有名な人、貧苦のうち新潟市の印刷会社につとめ、夜間画学校に通い、新潟市長に才を見出され十四歳で日本画家尾竹に弟子入り、放浪の後、東京に出て知人の紹介で日米図案社に入社、そこで竹久夢二と知り合う。それが機運を得て一流挿絵家の名を得た。「花嫁人形」の作詞でも知られるが作詞家が間に合わなかったので、急遽蕗谷が走り書きしたものを採用、これが大当たり、さらに戦後の混乱の時、この歌がアメリカで流行し多額な印税が入り込み、貧乏生活の蕗谷を助けたという。人は何が待ち受けるかわからないもの。
この大川さんの家の近くに須永君、佐藤君、小沼君が居住していた。小沼君は現在でも住んでおられる。地球が回るように我々も時代を回っている。その回転から放り出される者、しがみついていられるものに分れる。小沼君は回転するコマの中心におられたのだろう。今でも中里、須永君は神奈川の津久井湖のほうに行かれたが、その後が判明しない。きっとどこかの空の下で旧友を懐かしんでおられることだろう。
変る時代、変る世の中、でも人情だけは変って欲しくはないもの。故人を偲び先人を尊ぶという素朴ではあるが大事なものを。
花嫁人形
きんらんどんすの 帯しめながら
花嫁御寮(はなよめごりょう)は なぜ泣くのだろ
文金島田(ぶんきんしまだ)に 髪(かみ)結(ゆ)いながら
花嫁御寮は なぜ泣くのだろ
あねさんごっこの 花嫁人形は
赤い鹿(か)の子の 振袖(ふりそで)着てる
泣けば鹿の子の たもとがきれる
涙(なみだ)で鹿の子の 赤い紅(べに)にじむ
泣くに泣かれぬ 花嫁人形は
赤い鹿の子の 千代紙衣装(ちよがみいしょう)
2011-04-15
中里の思い出4
商店街を抜けると民家が列なり、やがて宇田川君の所に行き着く。宇田川園という造園家で地番のひと区画を所有しておられた。大きな家では堀口さんも大きかった。キューピー人形のような大きな目の女の子で、家に入るには鉄扉があり、門柱も大きく立派でたまげたもんだ。宇田川君の植木が立ち並ぶのを横目に三茶小に通ったが、セセコマシイ自分の家と違って、どうしたらこんな大きな屋敷をもてるのかと不思議に思った。そして、その不思議は六十年経っても解けない謎、あいも変わらぬ狭い家で呻吟しているのも妙。貧乏人は生涯変る事がないのかもしれない。
宇田川君の一族もどう滑って転んだのか、その土地を手放されたそうだ。お兄さんが長く世田谷区議会議員をされていた。もっとも、今の日本の税制では三代続く金持ちはいないそうだ。一億国民細分化され、皆貧乏人になっちまう。これも妙な話だ。
この宇田川君の家の近くに高砂湯という銭湯があった。上馬の話でも記したが熱海湯ができるまでは高砂湯にでかけた。石川さんの家の前を抜けて、曽根君の家の角を曲がって行った。曽根君の家の前角に大きな楠が生えている。
アーチャンが言った。「この木は六十年は経っている」「アーチャン、おれたちが子供の頃も大木だったよ、あれから六十年も経ったから、この木は百年は超えているよ」「そうか、そうかもしれない」
アーチャンは自分の歳を忘れている。年取ってくると昨日のことは今日になりゃ忘れる。ところが子供の頃のことは、昨日のように思い出す。もう、六十年も経っているのに。人間てのは不思議だ。まして、その場所に行けば、ありあり、まざまざと思い浮かべるけど、あの可愛い少女の大川さんは逢いたくとも逢えない所に行ってしまわれた。
黒人霊歌に「オールド・ブラック・ジョー」というのがある。我も行かん、はや、老いたれば、かすかに我を呼ぶ…
まだ、呼ばれる前にしなければならないことがある、六十年前のことどもを忘れないうちに記さねばならない。私たちの子供の頃の三茶はこんな時代、こんな町でしたと、それが我々年寄りの務めなのだ。
だから、少年探偵団の歌を唄いながら三茶界隈を歩いている。駒中の修学旅行のときだったか、大里君と生駒君が少年探偵団の替え歌を歌って歩いていた。ぼ、ぼ、ぼくらは少年愚連隊、このもと歌は勿論、ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団だが、愚連隊ってのが渋谷で幅をきかせた時代があった。それを巧みに替え歌にしたのだが、面白くて思わず笑ったことを覚えている。この少年探偵団に怪人20面相が出てきて、昨今これがK20という名の映画になった。これは江戸川乱歩の小説だが、ラジオで放送されたことがあった。昭和25年の四月からNHK第二放送で毎週金曜日に放送された。我々が丁度一年生の頃、明智探偵と小林少年、胸がドキドキしたのを思い出しただろうか。その後民放が誕生し、方々の局でも放送する人気番組、江戸川乱歩はマイナーな推理作家だったが、これで一躍桧舞台に飛び出し、光文社が少年探偵団シリーズを発刊し莫大な利を上げた。後年、乱歩が地主に土地の買い上げを迫り、困った乱歩が光文社に相談、一年分の印税前払いをしてもらい急場をしのいだ。乱歩は終生これを恩義に感じたという。
宇田川君の一族もどう滑って転んだのか、その土地を手放されたそうだ。お兄さんが長く世田谷区議会議員をされていた。もっとも、今の日本の税制では三代続く金持ちはいないそうだ。一億国民細分化され、皆貧乏人になっちまう。これも妙な話だ。
この宇田川君の家の近くに高砂湯という銭湯があった。上馬の話でも記したが熱海湯ができるまでは高砂湯にでかけた。石川さんの家の前を抜けて、曽根君の家の角を曲がって行った。曽根君の家の前角に大きな楠が生えている。
アーチャンが言った。「この木は六十年は経っている」「アーチャン、おれたちが子供の頃も大木だったよ、あれから六十年も経ったから、この木は百年は超えているよ」「そうか、そうかもしれない」
アーチャンは自分の歳を忘れている。年取ってくると昨日のことは今日になりゃ忘れる。ところが子供の頃のことは、昨日のように思い出す。もう、六十年も経っているのに。人間てのは不思議だ。まして、その場所に行けば、ありあり、まざまざと思い浮かべるけど、あの可愛い少女の大川さんは逢いたくとも逢えない所に行ってしまわれた。
黒人霊歌に「オールド・ブラック・ジョー」というのがある。我も行かん、はや、老いたれば、かすかに我を呼ぶ…
まだ、呼ばれる前にしなければならないことがある、六十年前のことどもを忘れないうちに記さねばならない。私たちの子供の頃の三茶はこんな時代、こんな町でしたと、それが我々年寄りの務めなのだ。
だから、少年探偵団の歌を唄いながら三茶界隈を歩いている。駒中の修学旅行のときだったか、大里君と生駒君が少年探偵団の替え歌を歌って歩いていた。ぼ、ぼ、ぼくらは少年愚連隊、このもと歌は勿論、ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団だが、愚連隊ってのが渋谷で幅をきかせた時代があった。それを巧みに替え歌にしたのだが、面白くて思わず笑ったことを覚えている。この少年探偵団に怪人20面相が出てきて、昨今これがK20という名の映画になった。これは江戸川乱歩の小説だが、ラジオで放送されたことがあった。昭和25年の四月からNHK第二放送で毎週金曜日に放送された。我々が丁度一年生の頃、明智探偵と小林少年、胸がドキドキしたのを思い出しただろうか。その後民放が誕生し、方々の局でも放送する人気番組、江戸川乱歩はマイナーな推理作家だったが、これで一躍桧舞台に飛び出し、光文社が少年探偵団シリーズを発刊し莫大な利を上げた。後年、乱歩が地主に土地の買い上げを迫り、困った乱歩が光文社に相談、一年分の印税前払いをしてもらい急場をしのいだ。乱歩は終生これを恩義に感じたという。
2011-04-14
中里の思い出3

原田君の八百屋はデブチン八百屋と呼ばれた。父親の体格が良かったからだ。この八百屋の店先の猿が人気者で商品のバナナを内緒で猿に食べさせたのはアーチャン。アーチャンと原田君は仲が良く、成人してからも交流があった。原田君も体格が良く少林寺拳法を習っていたという。アーチャンと路上でボクシングをして汗をかいたあと、野沢の町を歩いていた。すると三人連れが因縁をつけてきた。アーチャンが何を!って言う間に、原田君が一人の襟首を摑んだかと思うと投げ飛ばした。続く二人目も同様に宙に浮いた。それを見た三人目は逃げ出した。原田君は三人ぐらいは屁でもなく投げ飛ばす。四人だとちょっと困る程度。
この原田君が三茶小の五年のとき、横山先生に廊下に立たされた。何か悪ふざけでもしたのだろう。横山先生の名は横山隆一で、漫画家と同姓同名、我々が六年生になるとき、教育委員会に転じられた。視聴覚の担当をされた。授業にも録音機などを導入し、それが役立つかの実験をされたこともあった。
その原田君が廊下から消えた。横山先生は青くなった。皆で手分けして探したが何処にもいない。学校の外だろうと見当をつけそれぞれが探しに行った。結局、横山先生が見つけたのだが、諸君、原田君は何処に居たと思う? 三茶の映画館に入り込んでいたのだ。
我々悪ガキは金なんてなくとも映画館に入り込む手立ては知っているのだ。それから、原田君もアーチャンも廊下には立たされなくなった。先生が懲りて教室の中に立たせた。昔はこうした体罰は日常茶飯事、誰もそれが悪いとも思わなかった。廊下に立たされてもめげない原田君は立派だった。
その原田君の八百屋を訪ねたらアパートになっていた。日本の税制が悪く、同じ土地を三代持ち続けるのが難しい。相続税が過酷だから。原田君の家はそれを耐え忍んでアパート経営で立派だ。そこで写真を撮ったが、昔我々は少年探偵団、ところが今はヨレヨレの老人探偵団、懐かしさに尻押しされてあっちでパチリ、こっちで休むと、なかなか昔のようには歩けませんヤ。
2011-04-13
中里の思い出2
中里の駅から三茶小に向かってダラダラ坂を下りていくと、右手に久住君の家があった。ここは洋服屋さん、注文服の店、昔は身体に合わせて作ってもらい、既製品は吊るしと呼ばれ、一等下に見られていた。久住君の家のガラス戸に白く久住洋服店と書かれてあった。大きなアイロンと蒸気を上げるスチームの機械があったような気がする。
この中里は上馬と異なり、狭い道の両側に店が列なり、なんとなく家庭的な雰囲気だった。高橋孝明君は同級生、敏捷な動きをするいかにも少年の持つ初々しさに溢れた子供だった。この家はブリキ屋さんで、壁に消防服が懸かっていた。大きなヘルメットもあり、兄さんが消防署か消防団にでも属していたのだろう。
左手に山田瞳さんの家があり、その隣がデブチン八百屋の原田君の家、新聞に中里商店街のチラシが入ってきた。そこには原田君の八百屋の広告に「一銭を笑う者は一銭に泣く」と書かれてあった。その意味を母親に訊くと、「お金を大事にしろということ」だと教えてもらった。原田君の父親は偉い人だなと思った。原田君には姉がいて、キヨコさんと言うらしく、三上先生が時折、清子さん元気にしているかと原田君に尋ねていた。
原田君はがっしりとした体格で相撲が強かった。六年五組で相撲が一番強かったのは世田谷通りの河野お茶屋の傍の高田写真館の息子、この人は強いばかりではなく、相撲の技も知っていた。あの頃の横綱は千代の山、高田君は相撲のラジオ解説の口調を真似て、「顔面紅潮若乃花などと言っていたのを思い出す。高田君の家は写真館の前は古本屋をしていたと教えてくれた。いつの時代でも生きていくのが精一杯だ。その高田君は二十歳代で亡くなった。中西ヨシオ君が渋谷の駅で高田君とすれちがった。その時、「俺、もうすぐ死ぬんだよ」と告げたそうだ。告げるほうも辛かっただろう。告げられるほうは困惑して言葉も出なかった。
それはそうだ、青春の入り口をくぐったばかりの頃、死ぬなんてことを全く気にせず、明日に続く今日を微塵も疑わなかった。ところが、もうそこで人生スゴロクを降りなければならなかった。気の毒だ、可哀想な話だ。我々はどうのこうの言いながらも、なんとかこの歳まで生き延びた。それが良いのやら悪いのやらは誰も知らない、また、個々人の心持一つで良くもあれば悪しくもある。人生道場とは不思議な場所だ。
さて、原田君の家には店先に猿がいたそうだ。それが有名だったと多くの人が教えてくれたが、私は知らなかった。原田君の隣に山田さんの家があり、この人は大人しい人で、物言いが静かだった。この家に上がりこんでお菓子をご馳走になった。家の中もシンとして静かだった。大人しい人は大人しい家に育つのかと、子供心にも納得した。大場そろばん塾があり、そこに多くの子供たちが集まった。クリーニング屋の路地を入ったところだった。昔は子供が多く、そろばん塾も初等から高等までいつも賑わっていた。
そろばん塾に通う子供は直ぐにわかった。歩くたびにそろばんの珠がカチャカチャと鳴ったからだ。そろばん塾でもケンカがあった。手にしたそろばんで相手を殴り、そろばんが壊れて珠が飛び出し、たまげたことがあった。
この中里は上馬と異なり、狭い道の両側に店が列なり、なんとなく家庭的な雰囲気だった。高橋孝明君は同級生、敏捷な動きをするいかにも少年の持つ初々しさに溢れた子供だった。この家はブリキ屋さんで、壁に消防服が懸かっていた。大きなヘルメットもあり、兄さんが消防署か消防団にでも属していたのだろう。
左手に山田瞳さんの家があり、その隣がデブチン八百屋の原田君の家、新聞に中里商店街のチラシが入ってきた。そこには原田君の八百屋の広告に「一銭を笑う者は一銭に泣く」と書かれてあった。その意味を母親に訊くと、「お金を大事にしろということ」だと教えてもらった。原田君の父親は偉い人だなと思った。原田君には姉がいて、キヨコさんと言うらしく、三上先生が時折、清子さん元気にしているかと原田君に尋ねていた。
原田君はがっしりとした体格で相撲が強かった。六年五組で相撲が一番強かったのは世田谷通りの河野お茶屋の傍の高田写真館の息子、この人は強いばかりではなく、相撲の技も知っていた。あの頃の横綱は千代の山、高田君は相撲のラジオ解説の口調を真似て、「顔面紅潮若乃花などと言っていたのを思い出す。高田君の家は写真館の前は古本屋をしていたと教えてくれた。いつの時代でも生きていくのが精一杯だ。その高田君は二十歳代で亡くなった。中西ヨシオ君が渋谷の駅で高田君とすれちがった。その時、「俺、もうすぐ死ぬんだよ」と告げたそうだ。告げるほうも辛かっただろう。告げられるほうは困惑して言葉も出なかった。
それはそうだ、青春の入り口をくぐったばかりの頃、死ぬなんてことを全く気にせず、明日に続く今日を微塵も疑わなかった。ところが、もうそこで人生スゴロクを降りなければならなかった。気の毒だ、可哀想な話だ。我々はどうのこうの言いながらも、なんとかこの歳まで生き延びた。それが良いのやら悪いのやらは誰も知らない、また、個々人の心持一つで良くもあれば悪しくもある。人生道場とは不思議な場所だ。
さて、原田君の家には店先に猿がいたそうだ。それが有名だったと多くの人が教えてくれたが、私は知らなかった。原田君の隣に山田さんの家があり、この人は大人しい人で、物言いが静かだった。この家に上がりこんでお菓子をご馳走になった。家の中もシンとして静かだった。大人しい人は大人しい家に育つのかと、子供心にも納得した。大場そろばん塾があり、そこに多くの子供たちが集まった。クリーニング屋の路地を入ったところだった。昔は子供が多く、そろばん塾も初等から高等までいつも賑わっていた。
そろばん塾に通う子供は直ぐにわかった。歩くたびにそろばんの珠がカチャカチャと鳴ったからだ。そろばん塾でもケンカがあった。手にしたそろばんで相手を殴り、そろばんが壊れて珠が飛び出し、たまげたことがあった。
2011-04-12
中里の思い出1


中里には浜畑賢吉さんが駆け出しの頃住んでおられたそうで、私の家に下宿してたのよなんてオバサンがいた。玉電中里は丁度馬の背のような場所で、三茶に向かって左右にダラダラと下がるようになっていた。
その左側が三茶小の学区になり、多くの子供たちがここで蠢いていた。土屋さんに当時の地図を描いてもらった。
玉電中里の駅舎があった。ここは世田谷線と同様に専用軌道があり、車とは区別されていた。上馬寄りの天皇陛下の乗馬用ムチを製造したデカシさんの家の前あたりから専用軌道に入り、三茶の手前あたりから車と一緒になる。途中、蛇崩川を渡る小さな鉄橋があるが誰も知らないだろう。
この駅に土屋さんに思い入れがある。土屋さんの父君が玉電で渋谷に出て、品川から東神奈川の日本鋼管に勤務、早暁、冬だとまだ星の出ている道を中里駅に歩む、この人は山梨県の産、甲府で名産の水晶研磨工場を経営していた倅に生まれるが、跡継ぎ問題などで東京に働く、日本鋼管では南極探検船の宗谷の建造修理にあたられた。
その父君を小学生の土屋さんが中里駅で傘をさしてお迎えだ。精励を旨とした人で務めを休まないどころか仕事開始の一時間前には会社に居るほど、こうした職人が昔はいたものだ。会話は得手としないが、機械と対話の出来るのが職人、今日の機械は機嫌がいいとか悪いとか、音の出方でそれがわかったそうだ。
中里駅にはポンプがあって冷たい水で喉を潤すことができた。昔の世田谷は水が綺麗だった。蛇崩川には大きなエビガニがたくさんいて、腹がすいた悪ガキはそれを茹でて食べたほど爽やかな場所だった。
世田谷区立郷土資料館の写真にポンプと売店が写っている。中里名物は古本屋の時代や書店、この店は中里駅を挟んで両側にあった。左側が三茶小、右側は中里小の学区だった。
この古本屋は古い、菰池さんという方が三代だか四代に渡って経営、江戸物、明治物の文献を得手とされる。奇書骨董の類と思えば間違いがない。
ここで父君を待つ土屋さんは晴れている日は車止めの鉄柵につかまり逆上がりをした。子供はじっとしていないもんだ。騒いで遊ぶのが仕事、怪我をしなければ何をしていてもいい、昨今の親は実に神経過敏で、もう少し黙って見ていろといいたいほど、ああでもないこうでもないとやかましい。子供は親の道具じゃない、子供は遊ぶのを業とする、事業、学業と同じで遊業なのだ。だから好きなようにさせろ。
土屋さんは父君と手をつないでダラダラ坂を下り商店街を抜けた。その商店街の地図がこれ。
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