ラジオにかじりついて音楽を聴いた。そのうち歌謡曲より小坂一也に興味を持つようになり、ウエスタンという曲種があるのを知る。つまりアメリカの民謡だ。小坂一也に導かれるようにウエスタンを唄った。抑揚に独特なものがあり、これがアメリカの風だと思った。ハンクウイリアムスは泣き節といわれるほどに、男心の泣きを言う。偽りの心は何度聞いても心に刺さる。日本で言えば森進一、声の調子はまったく違うが、この曲にはしびれた。この男は昭和28年に29歳で死んだ。
しかし、小坂一也はウエスタンからロカビリーへと流れる。時代がアメリカ民謡からリズムの激しいものに変化していた。
日劇は毎年2月がヒマ、そこを埋めようとナベプロの渡辺美佐が1958年に「ウエスタンカーニバル」を開催、これに若い娘が押しかけてワイワイきゃあきゃあ、それを見た評論家の大宅壮一が、あんなところで騒いでいる娘の親の顔が見たい。ところが、その大宅の娘がそこにいた。それが映子、白髪頭でテレビに出てる。我々より三つ下。駒場高校へ進学した人は知っているはず。
ロカビリーは元はウエスタンであったことの証明がこれ、日本では小坂一也の動きと軌を一にする。このカーニバルにキンゴロウの倅が出た。それが山下敬二郎、ミッキーカーチスなどといい加減な歌を適当に唄っていたもんだ。そこから平尾昌明など実力派も誕生し、和製ポップスの火がチョロチョロと点き始める。
昔はアチャラカの歌を真似して唄っていた。それでもテレビやラジオが取り上げた。早いもの勝ちの世の中、デーオの浜村美智子はカリプソ娘、時代は日本人が日本語で自分たちの心を歌い上げる方向へと少しずつ変わっていった。
その流れに乗り切れず小阪一也は相変わらず腹の出たのをギターで隠し、ウエスタンやロカビリーを唄っていた。若者からは遠くなり、中年・老年の懐かしの番組でお茶を濁した。
時代の潮先から落ちこぼれ、波は渚めがけてまっしぐら、それに乗れずに落ちて、ポチャポチャと次の波を待つ間に、次第に老いぼれて泳ぐ力も失せてしまうのだ。
時代の先端をまがりなりにも走った人々、我々のように先端にも出れず、それをただ星の如くに見上げて人生を終る庶民、これが楽しいんだ。可もなく不可もないような人生だが、落ち目になった悲哀を味わうこともないが、絶頂もしらない。それでも毎日ワイワイ騒いだ。山内君は自分のラジオを持っていた。彼は無線に興味を持ち、竹棹を立て電波を拾っていた。大きな家で養鶏場を経営、その臭いのはたまらなかったが、広島君の家の前、そこに出かけて電蓄をかけた。ヤマコウというあだ名で、精悍な顔つき、ひとえまぶたが薄情にみえた。この人が陸上の長距離をやらせると敏捷に飛ぶ。須山君や原君、水上君などがいい走りをした。一学年上に萩原さんがいて、この人の走りは凄かった。この人が一緒に走ろうと誘うのが玉井君、色あさぐろくスポーツマン丸出し、この人が萩原さんを負かすような走りをする。それだけに萩原さんが珍重したのだろう。
ヤマコウは石原裕次郎にいかれていた。格好がいいよな、オレ似てるかなと本気のような冗談のような話をした。そして、レコードを擦り切れるまで廻した。
ヤマコウはロックンロールにも興味を示した。バルコニーに座ってのエディーコクランはいいと、鼻歌を唄った。
そのエディーはアメリカでロカビリーの熱が冷めイギリスに渡り交通事故で死んだ。21歳だった。ヤマコウも交通事故で死んだ。谷先生らと渋谷で逢ったあとだそうだ。いい奴だった。二十歳代だったろうか。
2011-06-05
2011-06-04
駒中の話8
タマキという蛤女王のような音楽の教師がいた。グラマーな女性で芸大を出てきたと思う。この人の授業を停めたことがあった。何だか気に入らずに大騒ぎをして授業にならないほど、あまりにひどさに泣きながら校長室に走った。そして校長と教頭を従えて戻ってきた。形勢逆転で生徒は静かになった。校長の名は静夫といった。効き目があった。
タンチ山に音楽室があったように思う、土屋さんもそう言っていた。昔の高校受験では9教科の試験があり、音楽も無論含まれていた。馬鹿な話だが本当のことだ。タマキ先生もプリントを作成し、それを配った。つまり、タマキ先生に音楽を習ったのは三年生の時となる。そのプリントを試験問題だと思い込み持ち帰ろうとした奴がいて、ただのプリントと知ってがっかりしていた。
この先生を後年府中で遠望した。相変わらずのグラマーな姿、手に買い物袋を持っておられたので、近くにお住まいだったのだろう。声もかけなかった。嫌な思い出しかないだろうからと遠慮。どうも学校の授業はどれも面白くなかった。家庭にそろそろとテレビがしのびこみ、ラジオからばかりでなくテレビもコマーシャルソングを流した。
明るいナショナル、暗いマツダ、東芝の電球はマツダという。何故マツダなのかを最近知った。「マツダランプ」 は1910から1962年頃まで使われた株式会社東芝の電球の呼称です。現在は「東芝ランプ」で東芝ライテック株式会社に引継がれています。
丸の中に「マツダ」のマークは、その後は傘マークのToshibaをへてTOSHIBAになっています。例外として光を計測する元になる東芝標準電球には「マツダ」のマークを引続き使用。「マツダ」は「MAZDA」からきており、ゾロアスター教の光の神様「アフラ・マズダ」で元はインドの「阿修羅」が各地に伝えられ名前が変化したといわれています。
このようなことからMAZDAは、Edison MAZDA Lampなど欧米の電球にも使用されていた時期があります。
インターネットの力でこれを知った。私たちも時の潮騒に押し流され、たった三年間の駒中生活から叩き出されて、それぞれの道を歩んだ。好むと好まざるに関わらず。そして、あのほろ酸っぱい時間は二度と戻らない。でも、このインターネットのように、長生きしているうちに時の潮騒が大きく変り、その恩恵に浴することができる。多くの人に共有する時間、共通する知識などを印刷媒体なしに届けることができるようになった。昨日の小坂一也の歌入り、映像入りで。これが現代なのだ。間もなく我々もご先祖様の仲間入り、それでも、私たちはくした時間の中を旅行してきました。当時に駒中はこんなところでしたと、今を生きる同じ駒中の生徒たちに、興味もなかろうが記録しておけば、どこかで役に立つような気がして毎日記録。
それにつけても歌はいい。それも学校で教えないような歌は。愛ちゃんはお嫁には鈴木三重子、この人の父親は民謡の大家、鈴木正夫、新相馬節で知られる。実に朗々としていて聞いてて涙がこぼれるほど、この三重子が歌ったがヒットせず、ペギー葉山にとられた歌が「南国土佐をあとにして」、人間運不運、どこに幸せがあるとも限らないから精々宝くじでも買うことだ。嫌気を起こさず。
タンチ山に音楽室があったように思う、土屋さんもそう言っていた。昔の高校受験では9教科の試験があり、音楽も無論含まれていた。馬鹿な話だが本当のことだ。タマキ先生もプリントを作成し、それを配った。つまり、タマキ先生に音楽を習ったのは三年生の時となる。そのプリントを試験問題だと思い込み持ち帰ろうとした奴がいて、ただのプリントと知ってがっかりしていた。
この先生を後年府中で遠望した。相変わらずのグラマーな姿、手に買い物袋を持っておられたので、近くにお住まいだったのだろう。声もかけなかった。嫌な思い出しかないだろうからと遠慮。どうも学校の授業はどれも面白くなかった。家庭にそろそろとテレビがしのびこみ、ラジオからばかりでなくテレビもコマーシャルソングを流した。
明るいナショナル、暗いマツダ、東芝の電球はマツダという。何故マツダなのかを最近知った。「マツダランプ」 は1910から1962年頃まで使われた株式会社東芝の電球の呼称です。現在は「東芝ランプ」で東芝ライテック株式会社に引継がれています。
丸の中に「マツダ」のマークは、その後は傘マークのToshibaをへてTOSHIBAになっています。例外として光を計測する元になる東芝標準電球には「マツダ」のマークを引続き使用。「マツダ」は「MAZDA」からきており、ゾロアスター教の光の神様「アフラ・マズダ」で元はインドの「阿修羅」が各地に伝えられ名前が変化したといわれています。
このようなことからMAZDAは、Edison MAZDA Lampなど欧米の電球にも使用されていた時期があります。
インターネットの力でこれを知った。私たちも時の潮騒に押し流され、たった三年間の駒中生活から叩き出されて、それぞれの道を歩んだ。好むと好まざるに関わらず。そして、あのほろ酸っぱい時間は二度と戻らない。でも、このインターネットのように、長生きしているうちに時の潮騒が大きく変り、その恩恵に浴することができる。多くの人に共有する時間、共通する知識などを印刷媒体なしに届けることができるようになった。昨日の小坂一也の歌入り、映像入りで。これが現代なのだ。間もなく我々もご先祖様の仲間入り、それでも、私たちはくした時間の中を旅行してきました。当時に駒中はこんなところでしたと、今を生きる同じ駒中の生徒たちに、興味もなかろうが記録しておけば、どこかで役に立つような気がして毎日記録。
それにつけても歌はいい。それも学校で教えないような歌は。愛ちゃんはお嫁には鈴木三重子、この人の父親は民謡の大家、鈴木正夫、新相馬節で知られる。実に朗々としていて聞いてて涙がこぼれるほど、この三重子が歌ったがヒットせず、ペギー葉山にとられた歌が「南国土佐をあとにして」、人間運不運、どこに幸せがあるとも限らないから精々宝くじでも買うことだ。嫌気を起こさず。
2011-06-03
駒中の話7
吉川という音楽の教師がいた。この人も新人教師、ピアノを得手とされたのか、作曲をしてみろと言い出した。おおくの生徒は尻込み、それはそうだ、音楽とは唄うこと、楽器を鳴らすことくらいしかできない受身の授業、それを作曲とは論理の飛躍ははなはだしい。でも、松本アッチチのように、詩を見て曲を想像できる人物もいたが、それを譜面に落とすのは難しい仕事、それを無理強いをするのだから生徒は困惑。作曲のイロハ教えずどうして出来るのかと不思議に思った。それが教師にも伝わり、それは沙汰やみになった。ほっとしたもんだ。
この頃の中学は古い教科書を順送りにし、新しい教科書を買わずに父兄の負担を減らす方法、その音楽の教科書にフォスターの曲が載っていた。黒人霊歌をベースに置く「おお、スザンナ」は爆発的に人口に膾炙され、彼の才能を示したが、貧困から抜け出すことはできず、「金髪のジェニー」「オールドブラックジョー」と名作を幾つも残すが、経済的な不安から脱却できず、37歳で没した。名曲、「おお、スザンナ」はわずかな金で出版社に渡り、作曲家としての生活は確保できなかった。
吉川という教師が、このフォスターの歌を教えた。三茶小の飯川先生のように作曲家の解説もなくいきなり歌に入ったような気がする。アメリカ音楽の祖とも言われるフォスター、幾つもの解説・説明があってもよかったとおもう。あるいはされたのかもしれないが、おそらく判り易いものではなかったのだろう。
少し赤ら顔の若い先生は作曲家を目指していたのかもしれない。それが成せず教師の道を選んだのかもしれない。芸術の道は難しく、そこで成功することは渚に落としたブローチを探すようなもので、なかなか手にすることは難い。それゆえ、二足のわらじの教師生活に片足を置くが、それが本業になるのは堕落、しかし生徒の側からはこれは迷惑な話、いやいや教師、でもしか教師に巡り合うのはまさに不幸以外の何物でもない。
先生の弾くピアノに合わせていやいや歌ったもんだ。どれもつまらない音楽に聞こえた。草競馬のような軽快な曲ではなく、つまらない歌だった。それでも一年生の音楽の時間は確実に来て、そして、それも通り過ぎた。
音楽室が何処であったかも忘れた。土屋さんの話だと校門を入って左の校舎の二階ではないかとの話。そんな気もする今夜の私だ。学校の音楽の時間はつまらなかったが、ラジオから流れてくる曲目にしびれた。歌謡曲全盛の時代を迎え、あまたの歌手が虎視眈々、我こそはキングにクイーンにと折りあらばの姿勢、まだテレビが家庭に入り込む前、ラジオだけがメディア、なかなか自分のラジオが持てない時代。それでもラジオから流れ来る曲目に耳を澄ませた。
小坂一也という成城高校の不良が歌手になり、これがロカビリーと転じ世間を騒がせた。ウエスタンの「ワゴンマスター」で大当たりをとり、十朱幸代と結婚するも破局、62歳で没、和製プレスリーと呼ばれた。染物屋の生駒さんの親戚に、この小坂に似た人がいて、タケちゃんと指差して似てる似てると言ったことがある。
この頃の中学は古い教科書を順送りにし、新しい教科書を買わずに父兄の負担を減らす方法、その音楽の教科書にフォスターの曲が載っていた。黒人霊歌をベースに置く「おお、スザンナ」は爆発的に人口に膾炙され、彼の才能を示したが、貧困から抜け出すことはできず、「金髪のジェニー」「オールドブラックジョー」と名作を幾つも残すが、経済的な不安から脱却できず、37歳で没した。名曲、「おお、スザンナ」はわずかな金で出版社に渡り、作曲家としての生活は確保できなかった。
吉川という教師が、このフォスターの歌を教えた。三茶小の飯川先生のように作曲家の解説もなくいきなり歌に入ったような気がする。アメリカ音楽の祖とも言われるフォスター、幾つもの解説・説明があってもよかったとおもう。あるいはされたのかもしれないが、おそらく判り易いものではなかったのだろう。
少し赤ら顔の若い先生は作曲家を目指していたのかもしれない。それが成せず教師の道を選んだのかもしれない。芸術の道は難しく、そこで成功することは渚に落としたブローチを探すようなもので、なかなか手にすることは難い。それゆえ、二足のわらじの教師生活に片足を置くが、それが本業になるのは堕落、しかし生徒の側からはこれは迷惑な話、いやいや教師、でもしか教師に巡り合うのはまさに不幸以外の何物でもない。
先生の弾くピアノに合わせていやいや歌ったもんだ。どれもつまらない音楽に聞こえた。草競馬のような軽快な曲ではなく、つまらない歌だった。それでも一年生の音楽の時間は確実に来て、そして、それも通り過ぎた。
音楽室が何処であったかも忘れた。土屋さんの話だと校門を入って左の校舎の二階ではないかとの話。そんな気もする今夜の私だ。学校の音楽の時間はつまらなかったが、ラジオから流れてくる曲目にしびれた。歌謡曲全盛の時代を迎え、あまたの歌手が虎視眈々、我こそはキングにクイーンにと折りあらばの姿勢、まだテレビが家庭に入り込む前、ラジオだけがメディア、なかなか自分のラジオが持てない時代。それでもラジオから流れ来る曲目に耳を澄ませた。
小坂一也という成城高校の不良が歌手になり、これがロカビリーと転じ世間を騒がせた。ウエスタンの「ワゴンマスター」で大当たりをとり、十朱幸代と結婚するも破局、62歳で没、和製プレスリーと呼ばれた。染物屋の生駒さんの親戚に、この小坂に似た人がいて、タケちゃんと指差して似てる似てると言ったことがある。
2011-06-02
駒中の話6
一生のうち新築の家に入居できるということは、そう滅多にあることではない。気概を持ち自分の力で家を新築する、できるは男子一生の本懐。まあ、こうしたことは運命の巡り会わせもあり、そう簡単ではないが、駒中で図書館の新築にでくあわした。
タンチ山のてっぺんに図書館が建ち、それはモダンな建物、ガラス部位が多く、外光をふんだんに取り入れたもので、林校長が無音館の名を冠した。得意満面であったことだろう。
三茶小の三上先生が駒小の百周年で校長になっておられ、その栄誉を拝した。こうしたことはなかなか巡りあわないもの。
世の中の金と女のようなもので、太田蜀山人が言う。「世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇に巡り会いたい」
それに巡り会ったのだから、これは少々ならず得意の絶頂、しかし、こうしたことも長く生きてきたからこそ理解できるが、当時の中学生にはさっぱりわからぬことでもあった。
今井ムツオ君という短距離で滅法早い人がいた。この人はフライング気味に走り出す。アレレ、でもセーフかという走りで、見ているほうは気が気ではない。
この人が世田谷区の中学対抗陸上競技のリレーの選手、アンカーが原君、野球の名手、今井君がスタートをフライング気味に出て、一回目の警告、二回目もやらかしファウル失格、それを知らないリレーの選手、号砲一発、各ランナーが一斉に勢いよく、放たれた犬のようにまっしぐら、ところが今井君がそこにイマイで、唖然・呆然と立ちつくす、結局オジャン。
図書館が新築なったので、珍しく早く学校に行く気になった。新築の建物が気になっていたのだ。私が一番先に来たと信じていたら、今井君が芝生で足を投げ出し、本を読んでいた。人の気配を感じて読んでいた本を閉じた。声をかけると何やら恥ずかしそうにしている。読んでいた本は分厚い聖書だった。クリスチャンでもあったのか、それを訊くのがはばかれて、その場を退散したことがあった。
この今井君と三十代の終わりに偶然、新大久保で逢った。彼は中村屋のスーパーの店長をされていた。いつも店先で商品を並べたり販売したりと忙しそうだった。顔を見るたびに声をかけたが、相変わらず人の良さそうな笑顔をみせてくれた。
私も新大久保に疎遠となり、今井君のその後は知らない。新大久保の名を聞くと、今井君のことが思い浮かぶ、駒中でもなく山手線の新大久保が今井君との接点になったのも、妙なものだ。
人生は色々なことに出くわし、様々なことに振り回される。都度、泣いたり喚いたりするけれども、過ぎ去ってみるとほろ酸っぱい味がする。今井君とはそれ以来逢っていないけど、何処かの空の下で、ぽっと又会えるような気がする。
タンチ山のてっぺんに図書館が建ち、それはモダンな建物、ガラス部位が多く、外光をふんだんに取り入れたもので、林校長が無音館の名を冠した。得意満面であったことだろう。
三茶小の三上先生が駒小の百周年で校長になっておられ、その栄誉を拝した。こうしたことはなかなか巡りあわないもの。
世の中の金と女のようなもので、太田蜀山人が言う。「世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇に巡り会いたい」
それに巡り会ったのだから、これは少々ならず得意の絶頂、しかし、こうしたことも長く生きてきたからこそ理解できるが、当時の中学生にはさっぱりわからぬことでもあった。
今井ムツオ君という短距離で滅法早い人がいた。この人はフライング気味に走り出す。アレレ、でもセーフかという走りで、見ているほうは気が気ではない。
この人が世田谷区の中学対抗陸上競技のリレーの選手、アンカーが原君、野球の名手、今井君がスタートをフライング気味に出て、一回目の警告、二回目もやらかしファウル失格、それを知らないリレーの選手、号砲一発、各ランナーが一斉に勢いよく、放たれた犬のようにまっしぐら、ところが今井君がそこにイマイで、唖然・呆然と立ちつくす、結局オジャン。
図書館が新築なったので、珍しく早く学校に行く気になった。新築の建物が気になっていたのだ。私が一番先に来たと信じていたら、今井君が芝生で足を投げ出し、本を読んでいた。人の気配を感じて読んでいた本を閉じた。声をかけると何やら恥ずかしそうにしている。読んでいた本は分厚い聖書だった。クリスチャンでもあったのか、それを訊くのがはばかれて、その場を退散したことがあった。
この今井君と三十代の終わりに偶然、新大久保で逢った。彼は中村屋のスーパーの店長をされていた。いつも店先で商品を並べたり販売したりと忙しそうだった。顔を見るたびに声をかけたが、相変わらず人の良さそうな笑顔をみせてくれた。
私も新大久保に疎遠となり、今井君のその後は知らない。新大久保の名を聞くと、今井君のことが思い浮かぶ、駒中でもなく山手線の新大久保が今井君との接点になったのも、妙なものだ。
人生は色々なことに出くわし、様々なことに振り回される。都度、泣いたり喚いたりするけれども、過ぎ去ってみるとほろ酸っぱい味がする。今井君とはそれ以来逢っていないけど、何処かの空の下で、ぽっと又会えるような気がする。
2011-06-01
駒中の話5
小学生の時は担任が全ての教科を指導、ところが中学校は専門分野の先生が指導。小学校は家庭の延長上のようなもので、父親なり母親が指導しているようなものだが、中学校は世間と同じで大人の世界をかいまみるようなもので、実にこれが新鮮だった。
雷魚の木村という体育の教師は、後年クラス会に呼ばれ、そこで長生き体操の話を一席ぶった。当時、木村の雷魚先生はどこだかの体育大学教授、これは大した出世、話の呼吸も飲み込んだ先生だけに、実に生徒に受けたそうだ。ところが、すぐに亡くなった。長生き体操をしても効果がなかった。おかしいけど事実。
人の生き死にだけは誰も決めることはできないものだ。人見君という実に真面目な子がいた。成績も優秀で教師になったそうだ。佐藤君と仲が良く、店に遊びに来たそうだ。佐藤君は駒沢停留所のそばで瀬戸物屋をしていた。結婚して中目黒で果物屋を営んだ。そこに、人見君が顔を出した。なんでも勤務先がその近くだったようだ。
いつも談笑するのが、なんだかろくに話もしないで返ったそうで、その後に自殺したという。生きていることに飽きてしまったのだろう。ロマン・ローランが言う。「ねえ、君、人生ってのはね、生きたり望んだりすることに飽きてはいけないのさ」と。
長生きも芸のうちの言葉もある。無芸大食漢でも長生きできれば芸があったということだ。どんなにつまらなく、面白味のない人生でも、過ぎてしまえば短い。それをネエ君、ことさら短くすることもなかろうヨとロマン・ローランが言いそうだ。
体操の先生に沖という女性がおられた。旅行好きな先生で夏休みを利用して各地を飛び回る。立山というところでトロッコ列車に乗ったのヨ、その切符の裏に命保証せずって書いてあるの、凄いところもあるものよ、ネエ。授業の合間にそんな話をされた。その先生も若くして亡くなった。
世田谷の深沢に日体大があり、そこから講師が来た。坂口という筋骨隆々で苦みばしったいい男、体操が終って深呼吸するとき、腕を大きく上から下に下ろし、それを左右に拡げて呼吸を整える、その時に「隣のを握るなヨ」という。皆が笑うと受けたとニヤリ。隣の人の金玉を握るなという意味。何度言われても皆が笑ったもんだ。性に目覚める頃だけに、そんな話は馬鹿うけだ。その坂口先生も若くして死んだ。体操の先生は早死になのだろうか。三茶小の石塚先生もそうだった。血の気が多いのは何となく理解できるが、生き死には実に不思議なものだ。
駒中に金子という憎めない顔の好青年が教師として赴任してきた。元気の塊のような人で人気もあった。この人は髪の毛を気にされて、いつもポマードで固めておられた。ところがほどなくして河童はげになられた。世の中は一字違えば大違い、はけに毛があり、ハゲに毛が無し。生き死にと同じに毛のあるなしも自分で決めることが出来ないのも妙。
大見川先生という職業家庭科だったかの教師がおられ、この先生は実に包容力のある先生で、駒中の近くに部屋を借りておられ、そこに遊びに行った。リンゴ箱を利用して窓から出入りしておられた。住宅事情の悪い頃で、アパートが借りられず、普通の家の一部屋を借りておられたのだ。玄関は大家の部屋に近かったのだろう。皆、苦労しながら生活されたものだ。あの頃と今とでは天と地ほどの開きがあり、住宅事情も改善され、どの家も水洗便所になった。その分人間関係も希薄になり、何でも水に流れて壊れて消える。
雷魚の木村という体育の教師は、後年クラス会に呼ばれ、そこで長生き体操の話を一席ぶった。当時、木村の雷魚先生はどこだかの体育大学教授、これは大した出世、話の呼吸も飲み込んだ先生だけに、実に生徒に受けたそうだ。ところが、すぐに亡くなった。長生き体操をしても効果がなかった。おかしいけど事実。
人の生き死にだけは誰も決めることはできないものだ。人見君という実に真面目な子がいた。成績も優秀で教師になったそうだ。佐藤君と仲が良く、店に遊びに来たそうだ。佐藤君は駒沢停留所のそばで瀬戸物屋をしていた。結婚して中目黒で果物屋を営んだ。そこに、人見君が顔を出した。なんでも勤務先がその近くだったようだ。
いつも談笑するのが、なんだかろくに話もしないで返ったそうで、その後に自殺したという。生きていることに飽きてしまったのだろう。ロマン・ローランが言う。「ねえ、君、人生ってのはね、生きたり望んだりすることに飽きてはいけないのさ」と。
長生きも芸のうちの言葉もある。無芸大食漢でも長生きできれば芸があったということだ。どんなにつまらなく、面白味のない人生でも、過ぎてしまえば短い。それをネエ君、ことさら短くすることもなかろうヨとロマン・ローランが言いそうだ。
体操の先生に沖という女性がおられた。旅行好きな先生で夏休みを利用して各地を飛び回る。立山というところでトロッコ列車に乗ったのヨ、その切符の裏に命保証せずって書いてあるの、凄いところもあるものよ、ネエ。授業の合間にそんな話をされた。その先生も若くして亡くなった。
世田谷の深沢に日体大があり、そこから講師が来た。坂口という筋骨隆々で苦みばしったいい男、体操が終って深呼吸するとき、腕を大きく上から下に下ろし、それを左右に拡げて呼吸を整える、その時に「隣のを握るなヨ」という。皆が笑うと受けたとニヤリ。隣の人の金玉を握るなという意味。何度言われても皆が笑ったもんだ。性に目覚める頃だけに、そんな話は馬鹿うけだ。その坂口先生も若くして死んだ。体操の先生は早死になのだろうか。三茶小の石塚先生もそうだった。血の気が多いのは何となく理解できるが、生き死には実に不思議なものだ。
駒中に金子という憎めない顔の好青年が教師として赴任してきた。元気の塊のような人で人気もあった。この人は髪の毛を気にされて、いつもポマードで固めておられた。ところがほどなくして河童はげになられた。世の中は一字違えば大違い、はけに毛があり、ハゲに毛が無し。生き死にと同じに毛のあるなしも自分で決めることが出来ないのも妙。
大見川先生という職業家庭科だったかの教師がおられ、この先生は実に包容力のある先生で、駒中の近くに部屋を借りておられ、そこに遊びに行った。リンゴ箱を利用して窓から出入りしておられた。住宅事情の悪い頃で、アパートが借りられず、普通の家の一部屋を借りておられたのだ。玄関は大家の部屋に近かったのだろう。皆、苦労しながら生活されたものだ。あの頃と今とでは天と地ほどの開きがあり、住宅事情も改善され、どの家も水洗便所になった。その分人間関係も希薄になり、何でも水に流れて壊れて消える。
2011-05-30
駒中の話4
教室に英語の先生が入ってきた。どうしても英語を勉強して熱海湯の裏のお姉さんのように言葉を理解し、人の役に立ちたいと張り切っていた。背の低い、あまり風采の上がらない人で、髪が長く鼻にかかるようなのを手で時折もちあげていた。
黒板に自分の名前を書いたら皆が笑った。井出孫六、六番目の孫なのだろう。長野県出身で東大文学部仏文科を出た。この先生は他の先生と異なり、何かキラキラと光るものがあった。風采は上がらず茶色の背広がことさら格好が悪く見えた。でも、何か違うものを感じ、英語の授業が面白かった。先生は黒板に絵を描きながらHAT、帽子だと思えと下手くそな絵を描く、都度、皆が笑う。あまりその笑いが長いと、手で制しながら静まれ、静まれという。静まれも古風な言い方だと思ったが、七人の侍で、このセリフが出てくる。先生は代議士の倅だと噂が流れた。
そんなような雰囲気もあったが、中学生にとってはそんなことは大した問題ではなかった。夏休みだか、冬休みだったかが終って学校に行くと、別の先生が出てきた。ニワという熊本県仙波山の産の人だった。途端に英語に興味がなくなった。この人の授業は面白くない。次第にやる気が失せて、英語の成績はふるわなくなった。
勉強は教える側の熱意を生徒が敏感に受け取るのだろう。井出先生がやめた理由は中央公論に入社したからだという。中央公論の何たるかも知らなかった。
そして、その井出孫六の名を昭和50年の新聞で見つけた。直木賞をとったのだ。その本を読んだが面白くないものだった。それでもやはり、あの先生の中に光るものがあったのは間違いがなかった。とても嬉しくて、誰かに話してみたかった。高校時代の友人に話したが、「そうか」で終った。
先生の中で弾けるような光を感じたのは私だけだったのだろうか、浜畑賢吉さんも井出孫六先生の素晴らしかったことをNHKのラジオで語っておられたことがあった。あれは昭和51年か2年、毎朝の番組だった。浜畑さんが三茶小、そして駒中の話をされ、それがとても懐かしく、そして誇らしく感じた。テーマ曲も厳選されたもので、南仏を思わせるような響きがあり、ラジオがあんなに豊かな時間をくれたのは、その時だけだった。NHKには駒中の同期の五十嵐さんが、今でもラジオに出ておられるが、こちらはお座なりで面白くも何ともない。やはり個性なのだろう。人を惹きつける役者を長くされている浜畑さんは、そこのコツをつかんでおられるのだろう。
井出孫六先生もご健在で健筆をふるっておられる。地味な作風ではあるが、鋭い視点が世に受けているようだ。駒沢中学にたまたま赴任された御縁ではあるが、私にとっては生涯の宝物の時間でもあった。それが一年にも満たない時間ではあったが、静まれの言葉と、帽子だと思え、牛だと思えと言いながら、黒板に向かって白墨を動かす姿が今でも眼に焼きついている。
黒板に自分の名前を書いたら皆が笑った。井出孫六、六番目の孫なのだろう。長野県出身で東大文学部仏文科を出た。この先生は他の先生と異なり、何かキラキラと光るものがあった。風采は上がらず茶色の背広がことさら格好が悪く見えた。でも、何か違うものを感じ、英語の授業が面白かった。先生は黒板に絵を描きながらHAT、帽子だと思えと下手くそな絵を描く、都度、皆が笑う。あまりその笑いが長いと、手で制しながら静まれ、静まれという。静まれも古風な言い方だと思ったが、七人の侍で、このセリフが出てくる。先生は代議士の倅だと噂が流れた。
そんなような雰囲気もあったが、中学生にとってはそんなことは大した問題ではなかった。夏休みだか、冬休みだったかが終って学校に行くと、別の先生が出てきた。ニワという熊本県仙波山の産の人だった。途端に英語に興味がなくなった。この人の授業は面白くない。次第にやる気が失せて、英語の成績はふるわなくなった。
勉強は教える側の熱意を生徒が敏感に受け取るのだろう。井出先生がやめた理由は中央公論に入社したからだという。中央公論の何たるかも知らなかった。
そして、その井出孫六の名を昭和50年の新聞で見つけた。直木賞をとったのだ。その本を読んだが面白くないものだった。それでもやはり、あの先生の中に光るものがあったのは間違いがなかった。とても嬉しくて、誰かに話してみたかった。高校時代の友人に話したが、「そうか」で終った。
先生の中で弾けるような光を感じたのは私だけだったのだろうか、浜畑賢吉さんも井出孫六先生の素晴らしかったことをNHKのラジオで語っておられたことがあった。あれは昭和51年か2年、毎朝の番組だった。浜畑さんが三茶小、そして駒中の話をされ、それがとても懐かしく、そして誇らしく感じた。テーマ曲も厳選されたもので、南仏を思わせるような響きがあり、ラジオがあんなに豊かな時間をくれたのは、その時だけだった。NHKには駒中の同期の五十嵐さんが、今でもラジオに出ておられるが、こちらはお座なりで面白くも何ともない。やはり個性なのだろう。人を惹きつける役者を長くされている浜畑さんは、そこのコツをつかんでおられるのだろう。
井出孫六先生もご健在で健筆をふるっておられる。地味な作風ではあるが、鋭い視点が世に受けているようだ。駒沢中学にたまたま赴任された御縁ではあるが、私にとっては生涯の宝物の時間でもあった。それが一年にも満たない時間ではあったが、静まれの言葉と、帽子だと思え、牛だと思えと言いながら、黒板に向かって白墨を動かす姿が今でも眼に焼きついている。
2011-05-29
駒中の話3
1年C組に大石君という笑い顔に特徴のある、いかにも人の良さそうで、いつも頬の横に手のある人がいた。優しい喋りで顔とピッタリしていた。この人の家に学校の帰りに寄ったことがあった。大人しそうな妹さんがいて、水上君の結婚式だかに同席したとき、その妹さんのことを訊いた。すると声を落とし、顔をくもらせ、「妹のことを覚えていてくれたの、そうか、ありがとう、でもね、妹は死んだんだよ」と淋しそうに言った。まだ二十歳代だっただけに、落胆は大きかった。その大石君の顔を同期会で探したが、見当たらず友人に聞いたところ、大石君は車を運転中に心筋梗塞で亡くなったという。それも道端にキチンと車を停めてだ。いかにも彼らしい死に方だと納得しながら悲しかった。
中学生の頃から妙に大人びて、ネクタイ姿を想像させるような優しい喋りが、いまでも後ろから「元気かい」と声をかけてくるような錯覚にとらわれる。
人は誰でも死ぬ、これは摂理でどうしようもないが、短い長いが問題ではなく、どれほど真剣に生きたかが問われる。大石君の人生は短かったけど、爽やかな印象を与えた人だった。
このクラスに源玲子さんという、これまたこぼれんばかりの笑顔の綺麗な人がいた。ライオンというあだ名の美術の先生がいて、喋る言葉が「ウオー、ウオー」というまるで訳がわからない人がいて、いつもボサボサ頭だった。この先生は芸大出で腕は優秀だったおだろうが、絵を描かれているのを見たことがなかった。この先生が状差しを作れと言った。手紙入れのことだ。彫刻刀を使い思い思いの作品を作る。隣のクラスを校庭から覗いたとき、源さんが真剣に彫刻刀をたくみに使い、鎌倉彫ばりの牡丹花を見事にえぐり出した。その冴えの良さ、大胆な構図に息を呑んだ。中学一年生でこうした作品をものすることが出来る人がいるんだと、感心を通り越して、その才能を妬んだ。
自分の作品とくらべると天と地、月とすっぽんで、世の中は広い、素晴らしい人がいるものだと頭が下がった。
この人は女子美高校に進学された。どんな作品を作られたのかは知らないが、才能を開花されたのではと推測するばかり。ライオンは佐野先生と言った。この人の審美眼は実に面白く、好きだった。先生はプラタナスの幹の皮が剥げるのをしげしげと見つめ、美しい、一つひとつが違っていて、同じものがないと、実に嬉しそうに教えてくださった。
あんなつまらない物がどうして美しいのかと不思議に思ったが、今となっては先生の言われた意味がわかるようになった。
佐野先生は長く駒中におられたようだ。卒業して一度もお眼にかからなかったが、実に印象深い先生だ。
美術の先生には樋口先生がおられたが、若くやはり芸大出で、自分でも制作に励んでおられた。夕陽にカラスの絵を描かれ日展に出すんだと、張り切っておられ、その大きなキャンバスを山内君と上馬の駅まで運ばされたことがあった。その絵は日展に通って、先生は満面の笑みをこぼされたが、運んだ人物のことはすっかり忘れておられた。
中学生の頃から妙に大人びて、ネクタイ姿を想像させるような優しい喋りが、いまでも後ろから「元気かい」と声をかけてくるような錯覚にとらわれる。
人は誰でも死ぬ、これは摂理でどうしようもないが、短い長いが問題ではなく、どれほど真剣に生きたかが問われる。大石君の人生は短かったけど、爽やかな印象を与えた人だった。
このクラスに源玲子さんという、これまたこぼれんばかりの笑顔の綺麗な人がいた。ライオンというあだ名の美術の先生がいて、喋る言葉が「ウオー、ウオー」というまるで訳がわからない人がいて、いつもボサボサ頭だった。この先生は芸大出で腕は優秀だったおだろうが、絵を描かれているのを見たことがなかった。この先生が状差しを作れと言った。手紙入れのことだ。彫刻刀を使い思い思いの作品を作る。隣のクラスを校庭から覗いたとき、源さんが真剣に彫刻刀をたくみに使い、鎌倉彫ばりの牡丹花を見事にえぐり出した。その冴えの良さ、大胆な構図に息を呑んだ。中学一年生でこうした作品をものすることが出来る人がいるんだと、感心を通り越して、その才能を妬んだ。
自分の作品とくらべると天と地、月とすっぽんで、世の中は広い、素晴らしい人がいるものだと頭が下がった。
この人は女子美高校に進学された。どんな作品を作られたのかは知らないが、才能を開花されたのではと推測するばかり。ライオンは佐野先生と言った。この人の審美眼は実に面白く、好きだった。先生はプラタナスの幹の皮が剥げるのをしげしげと見つめ、美しい、一つひとつが違っていて、同じものがないと、実に嬉しそうに教えてくださった。
あんなつまらない物がどうして美しいのかと不思議に思ったが、今となっては先生の言われた意味がわかるようになった。
佐野先生は長く駒中におられたようだ。卒業して一度もお眼にかからなかったが、実に印象深い先生だ。
美術の先生には樋口先生がおられたが、若くやはり芸大出で、自分でも制作に励んでおられた。夕陽にカラスの絵を描かれ日展に出すんだと、張り切っておられ、その大きなキャンバスを山内君と上馬の駅まで運ばされたことがあった。その絵は日展に通って、先生は満面の笑みをこぼされたが、運んだ人物のことはすっかり忘れておられた。
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