人は誰かにこの話を伝えたいと思うときがある。ところが、その話を共有できる人物が近くにいないとき、伝えられないもどかしさを感ずるもの。まるで、友人が次々と倒れ、最後まで生き残った喜びのようなやるせのない心細さにさも似たり。
三茶の入り口に赤坂という靴屋があった。でも、今になってみると、あったような錯覚だったような、どうにも奇妙な考えに取り付かれ、その場にいって、ここが確かに赤坂の靴屋だと思っても、通りがかりの人に尋ねてみてもそんな昔の話はわかりません。
ちょっと前なら覚えちゃいるが、三年前じゃちょと判らないなァ、あんたあの子のなんなのヨ、横浜、ヨコスカ。そんな時、高齢者の仲間に入っちゃいるけど、まだ三軒茶屋小学校の仲間は元気、まして、土屋さんに電話すれば、そこは確かにああで、こうでとまるで見えているかのように明確に話す。アア、よかった、私もまだボケちゃいないんだと、妙に安堵の胸撫で下ろし、昔の家並みを聞かせてもらえば、もう訳も無く懐かしさばかりがいや増して、直ぐにでも土屋さんと逢って、世田谷通りのラーメン屋、「喜楽」の赤ノレンをくぐって、葱を黒く焼けこげさせたスープで熱いラーメンを食いたいなと、思わず告げると、あの店はもう無いわヨと、さびしくなるような言葉を投げられれば、ああ、そうか二度と戻れない所まで歩いてきてしまったんだと、後悔のたたない焦りを感じて、思わず、あのラーメン幾らだったっけ、と、妙な事を口走れば、土屋さん淡々として25円、素ラーメンだけど、安かったわねェ、あの店は森君の近くだったっけと聞けば、違うわよ、あれはどこがどうして、これこうだと明瞭に答えてくれるけど、聞く方の頭がついていけず、思わず地図があればなァとの嘆きの言葉。それが実現したのが掲載中の三茶商店街地図。
この地図を見ていると、なんだか心の奥底から春の蒸気が湧き上がるような、命の素が芽吹くような、心楽しくなっちまうのは、これはもう歳のせい。眼前に迫る高層ビルと高速道路、現実と我々の抱く三茶とは夕焼けと朝焼けほどに気分が違う。
昔の三茶は確かにあったけど、今はもう昔話となっちまって、当時の少年少女、小学校の仲間だけが頼りなんだけど、島田源太郎くんも死んだ、アッチチは大病したと、涙流して悲しくなるよな話ばかり。それでも、久々に同期会を開催できることは喜びです。
2011-03-26
2011-03-25
三茶の思い出4
大森屋洋品店の主人は映画「七人の侍」の野伏せりと同じ顔で、威圧感があった。そこを抜けて仲見世に入ると、帝京商業に進学した野球の上手な一塁手、中村くんのてんぷら屋があった。二階からいつもニコニコして下を見下ろす中村くんを思い出す。爽やかな笑顔の好人物だったが、いつしか消息が途絶えた。この人物も石塚先生のクラスだった。
石塚先生というのは体育学校出で顔のデカイ割に目が小さくまるで渥美清のよう。が、その頃渥美清は映画に出てこない。ずっと後の時代で売れた。
石塚先生は四組の生徒に組体操を教えていた。人間ピラミッドを作るのを近くで見ながら、一番下にいた生徒が力んで耐えているのがおかしくて笑ったら、それが悪いと石塚先生にビンタを喰らったことがあった。
この石塚先生は奥井先生と結婚したが、バイクで怪我をして病院に入院、どういう訳か看護婦と出来て、駆け落ちをしたそうだ。そののち小田原だかで焼き鳥屋の店先で団扇を煽いでる姿を見つけた生徒がいた。そしてクラス会が開かれたという話を飯川くんから聞いたことがある。その石塚先生も亡くなったそうだ。
三茶のことを思い出すと、安西薬局、石塚先生のビンタ、奔放な人生と連想ゲームのように頭のなかを記憶が走りぬける。まるで体操の先生に追いかけられて校庭を走る生徒のように。
石塚先生というのは体育学校出で顔のデカイ割に目が小さくまるで渥美清のよう。が、その頃渥美清は映画に出てこない。ずっと後の時代で売れた。
石塚先生は四組の生徒に組体操を教えていた。人間ピラミッドを作るのを近くで見ながら、一番下にいた生徒が力んで耐えているのがおかしくて笑ったら、それが悪いと石塚先生にビンタを喰らったことがあった。
この石塚先生は奥井先生と結婚したが、バイクで怪我をして病院に入院、どういう訳か看護婦と出来て、駆け落ちをしたそうだ。そののち小田原だかで焼き鳥屋の店先で団扇を煽いでる姿を見つけた生徒がいた。そしてクラス会が開かれたという話を飯川くんから聞いたことがある。その石塚先生も亡くなったそうだ。
三茶のことを思い出すと、安西薬局、石塚先生のビンタ、奔放な人生と連想ゲームのように頭のなかを記憶が走りぬける。まるで体操の先生に追いかけられて校庭を走る生徒のように。
2011-03-24
三茶の思い出 3

五十嵐公利さん
五十嵐さんは植木先生のクラスで三組。いつもこざっぱりした服のかわいらしい子だったがきかない。アーチャンの家の傍で勉強家の兄がいた。この兄は東大から京大の医学部に進学し脳だか心臓を学んだ。
アーチャンの家族はがっさつな職人集団、バイクを止めてエンジン吹かして大騒ぎ、五十嵐さんの兄貴に怒られた。五十嵐さんの親戚が山田風太郎、同じ三茶に居住。この山田風太郎も医者になるべく東京医専に進学するも作家になった。
明治物を書かせると一風変わった味があった。この山田のもとに原稿を取りにきていた若者が後年、阿佐田哲也としてマージャン小説で一世風靡、当時は小説倶楽部の編集者として山田宅に通うが、ある日、書き上げた原稿を靴紐結んだ山田宅の玄関に置き忘れ大騒ぎとなる。三茶にも多彩な人物が埋没していた。
五十嵐さんは新宿高校から東大、NHK。今でも夕方のラジオで元気な声を聞かせる。あの好男子、アラン・ドロンも真っ青な美男子も頭ずりむけのハゲにおなりだ。我々も歳をとりました。
五十嵐さんの家は永井君の店の裏、永井君の店が判らない? それは私の家の隣だよ。へへ、世田谷通りの伊勢屋、これは川村さんの家、餅菓子屋だった。その近くに永井君の店があり土砂、セメントを販売、この店の倉庫で遊んでいてセメントの袋を踏み破り、永井君の兄貴にこっぴどく叱られたことがあった。永井君の隣にコロッケ屋があって、ここのは美味かった。
思い出ってのはなんとなく懐かしくって甘酸っぱいような湿ったような、まるで母親の懐で甘えていたような、ほんのわずかな幸せな時なのだろう。
確かにあったような無かったような、まるで夕焼け空に一番星を見つけたような、はかなげで遠くを眺めるようなもの、でも、あったよね、たしかに、私たちの記憶のなかに、いつまでも。
2011-03-23
三茶の思い出2
玉電の通りを中里に向かうと途中から軌道が道路から離れ専用道を走る。その先に天皇陛下の乗馬用鞭をつくるデカシさんの家があった。デカシさんは一年先輩で、いまでも乗馬用鞭を作っている。場所は府中に移転、それをNHKのテレビが紹介したことがあった。その上馬寄りに美人姉妹のいる和泉屋パンやがあった。そこの横を入り三茶小に向かうと三叉路があり、お地蔵さんがあった。右に中村さんの家、庭に柿木が一本はえていた。ひょろひょろした木だった。その三叉路を左にとると及川さんの家の並びに来住野君の家。母親は着物の襟に、てぬぐいをかけて目のしょぼしょぼした長屋のおかみさんという風合い。雑巾で始終家の中を拭いていた。床板なども黒光りして塵一つなかった。父親は寡黙な人で玉電上馬駅に向かう改正道路の左側の鉄工屋に勤めていた。その来住野くんはタクシーの運転手になった。上町近くのタクシー会社だった。来住野くんは上馬を去り町田の団地で暮らしていた。
来住野くんの家から和泉屋パンやへ向かう途中の左側に駄菓子屋があった。パーマ屋のボンの手前だ。その駄菓子屋の店先に大きなゴム風船が当たるクジがあった。なかなか一等が出なくていつも巨大なゴム風船がその位置を確かなものにしていた。
クジの残りが少なくなった時、めずらしく親戚のオジサンから小遣いを貰い、その銭を握りしめ駄菓子屋に走った。残りのクジを全部買った。最後のクジで必ず当たると信じていた。ところがハズレだった。色黒の固太りのオバサンに言った。「全部買ったけど一等が出ないヨ」婆さんは小ズルイ顔をしかめて笑い顔をつくり、「ああ、そうだ一等は奥にしまっておいたんだ」とクジを出してきた。一等を最初から隠しておいたのだ。
大人のズルさを痛感したのが、この駄菓子屋のオバサンを初めとした。あの頃、我々のような年寄りだったのはいつも頭を椿油で撫で付けたパーマ屋ボンのお婆さんだけだった。小柄で小粋な着物を達者に着こなしていた。その婆さんが生駒武久くんの染物屋の横丁のドブをまたいで小便を垂れた。どこかで芸者だか仲居をしていたことがあったと聞いた。大人にも色々あるもんだと、小学生だったが納得したのを覚えている。
来住野くんの家から和泉屋パンやへ向かう途中の左側に駄菓子屋があった。パーマ屋のボンの手前だ。その駄菓子屋の店先に大きなゴム風船が当たるクジがあった。なかなか一等が出なくていつも巨大なゴム風船がその位置を確かなものにしていた。
クジの残りが少なくなった時、めずらしく親戚のオジサンから小遣いを貰い、その銭を握りしめ駄菓子屋に走った。残りのクジを全部買った。最後のクジで必ず当たると信じていた。ところがハズレだった。色黒の固太りのオバサンに言った。「全部買ったけど一等が出ないヨ」婆さんは小ズルイ顔をしかめて笑い顔をつくり、「ああ、そうだ一等は奥にしまっておいたんだ」とクジを出してきた。一等を最初から隠しておいたのだ。
大人のズルさを痛感したのが、この駄菓子屋のオバサンを初めとした。あの頃、我々のような年寄りだったのはいつも頭を椿油で撫で付けたパーマ屋ボンのお婆さんだけだった。小柄で小粋な着物を達者に着こなしていた。その婆さんが生駒武久くんの染物屋の横丁のドブをまたいで小便を垂れた。どこかで芸者だか仲居をしていたことがあったと聞いた。大人にも色々あるもんだと、小学生だったが納得したのを覚えている。
2011-03-22
三茶の思い出 1
三上伝次郎先生
昨年は三上伝次郎先生が春の叙勲で皇居で勲章を授与されました。積年の教育へ
の功績が認められました。先生、大変ご苦労さまでした。先生も八十を 越され
ましたが、足腰が少し弱くなられた程度で、相変わらずの紳士ぶりです。
祝賀パーティーには私ことアーチャン、そして土屋さんが出席しました。
訃報・昨年は五組の来住野さんが亡くなりました。しばらくして知ったため誰も
葬儀にも参加できません。我々もだいぶ歳をとりましたので、お互いに 気をつ
けましょう。
このブログに昭和三十年当時の三茶商店街の地図が掲載されています。あの頃が
鮮明に浮かんできませんか、我々の記憶にある懐かしい三茶を充分に偲 んでい
ただきます。
三茶の角近くに安西薬局があり、そこにオームがいた。あおちゃんという名前
で、あーおちゃん、おはようと声を出すのが珍しく傍に寄って眺めたが、 突
然、なにも言わなくなる。おはようと何度も声をかけるも黙して語らずだ。「ば
か」と言ったら、奥の主人に「悪い言葉を教えちゃダメだヨ」と叱ら れた。す
ごすご横丁に入りこむと、大森屋の洋品店に野武士のような顔つきの親父が渋面
をつくり新聞を広げていた。四組の大森さんの父親だが、大森 さんは可愛らし
い顔で、親子でもこんなに違うものかとしげしげと眺めると、視線を感じたのか
親父がこちらを睨んだ。
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