玉電の通りを中里に向かうと途中から軌道が道路から離れ専用道を走る。その先に天皇陛下の乗馬用鞭をつくるデカシさんの家があった。デカシさんは一年先輩で、いまでも乗馬用鞭を作っている。場所は府中に移転、それをNHKのテレビが紹介したことがあった。その上馬寄りに美人姉妹のいる和泉屋パンやがあった。そこの横を入り三茶小に向かうと三叉路があり、お地蔵さんがあった。右に中村さんの家、庭に柿木が一本はえていた。ひょろひょろした木だった。その三叉路を左にとると及川さんの家の並びに来住野君の家。母親は着物の襟に、てぬぐいをかけて目のしょぼしょぼした長屋のおかみさんという風合い。雑巾で始終家の中を拭いていた。床板なども黒光りして塵一つなかった。父親は寡黙な人で玉電上馬駅に向かう改正道路の左側の鉄工屋に勤めていた。その来住野くんはタクシーの運転手になった。上町近くのタクシー会社だった。来住野くんは上馬を去り町田の団地で暮らしていた。
来住野くんの家から和泉屋パンやへ向かう途中の左側に駄菓子屋があった。パーマ屋のボンの手前だ。その駄菓子屋の店先に大きなゴム風船が当たるクジがあった。なかなか一等が出なくていつも巨大なゴム風船がその位置を確かなものにしていた。
クジの残りが少なくなった時、めずらしく親戚のオジサンから小遣いを貰い、その銭を握りしめ駄菓子屋に走った。残りのクジを全部買った。最後のクジで必ず当たると信じていた。ところがハズレだった。色黒の固太りのオバサンに言った。「全部買ったけど一等が出ないヨ」婆さんは小ズルイ顔をしかめて笑い顔をつくり、「ああ、そうだ一等は奥にしまっておいたんだ」とクジを出してきた。一等を最初から隠しておいたのだ。
大人のズルさを痛感したのが、この駄菓子屋のオバサンを初めとした。あの頃、我々のような年寄りだったのはいつも頭を椿油で撫で付けたパーマ屋ボンのお婆さんだけだった。小柄で小粋な着物を達者に着こなしていた。その婆さんが生駒武久くんの染物屋の横丁のドブをまたいで小便を垂れた。どこかで芸者だか仲居をしていたことがあったと聞いた。大人にも色々あるもんだと、小学生だったが納得したのを覚えている。
2011-03-23
2011-03-22
三茶の思い出 1
三上伝次郎先生
昨年は三上伝次郎先生が春の叙勲で皇居で勲章を授与されました。積年の教育へ
の功績が認められました。先生、大変ご苦労さまでした。先生も八十を 越され
ましたが、足腰が少し弱くなられた程度で、相変わらずの紳士ぶりです。
祝賀パーティーには私ことアーチャン、そして土屋さんが出席しました。
訃報・昨年は五組の来住野さんが亡くなりました。しばらくして知ったため誰も
葬儀にも参加できません。我々もだいぶ歳をとりましたので、お互いに 気をつ
けましょう。
このブログに昭和三十年当時の三茶商店街の地図が掲載されています。あの頃が
鮮明に浮かんできませんか、我々の記憶にある懐かしい三茶を充分に偲 んでい
ただきます。
三茶の角近くに安西薬局があり、そこにオームがいた。あおちゃんという名前
で、あーおちゃん、おはようと声を出すのが珍しく傍に寄って眺めたが、 突
然、なにも言わなくなる。おはようと何度も声をかけるも黙して語らずだ。「ば
か」と言ったら、奥の主人に「悪い言葉を教えちゃダメだヨ」と叱ら れた。す
ごすご横丁に入りこむと、大森屋の洋品店に野武士のような顔つきの親父が渋面
をつくり新聞を広げていた。四組の大森さんの父親だが、大森 さんは可愛らし
い顔で、親子でもこんなに違うものかとしげしげと眺めると、視線を感じたのか
親父がこちらを睨んだ。
2011-03-21
昭和30年ごろの三茶商店街 1
登録:
投稿 (Atom)










