吉川という音楽の教師がいた。この人も新人教師、ピアノを得手とされたのか、作曲をしてみろと言い出した。おおくの生徒は尻込み、それはそうだ、音楽とは唄うこと、楽器を鳴らすことくらいしかできない受身の授業、それを作曲とは論理の飛躍ははなはだしい。でも、松本アッチチのように、詩を見て曲を想像できる人物もいたが、それを譜面に落とすのは難しい仕事、それを無理強いをするのだから生徒は困惑。作曲のイロハ教えずどうして出来るのかと不思議に思った。それが教師にも伝わり、それは沙汰やみになった。ほっとしたもんだ。
この頃の中学は古い教科書を順送りにし、新しい教科書を買わずに父兄の負担を減らす方法、その音楽の教科書にフォスターの曲が載っていた。黒人霊歌をベースに置く「おお、スザンナ」は爆発的に人口に膾炙され、彼の才能を示したが、貧困から抜け出すことはできず、「金髪のジェニー」「オールドブラックジョー」と名作を幾つも残すが、経済的な不安から脱却できず、37歳で没した。名曲、「おお、スザンナ」はわずかな金で出版社に渡り、作曲家としての生活は確保できなかった。
吉川という教師が、このフォスターの歌を教えた。三茶小の飯川先生のように作曲家の解説もなくいきなり歌に入ったような気がする。アメリカ音楽の祖とも言われるフォスター、幾つもの解説・説明があってもよかったとおもう。あるいはされたのかもしれないが、おそらく判り易いものではなかったのだろう。
少し赤ら顔の若い先生は作曲家を目指していたのかもしれない。それが成せず教師の道を選んだのかもしれない。芸術の道は難しく、そこで成功することは渚に落としたブローチを探すようなもので、なかなか手にすることは難い。それゆえ、二足のわらじの教師生活に片足を置くが、それが本業になるのは堕落、しかし生徒の側からはこれは迷惑な話、いやいや教師、でもしか教師に巡り合うのはまさに不幸以外の何物でもない。
先生の弾くピアノに合わせていやいや歌ったもんだ。どれもつまらない音楽に聞こえた。草競馬のような軽快な曲ではなく、つまらない歌だった。それでも一年生の音楽の時間は確実に来て、そして、それも通り過ぎた。
音楽室が何処であったかも忘れた。土屋さんの話だと校門を入って左の校舎の二階ではないかとの話。そんな気もする今夜の私だ。学校の音楽の時間はつまらなかったが、ラジオから流れてくる曲目にしびれた。歌謡曲全盛の時代を迎え、あまたの歌手が虎視眈々、我こそはキングにクイーンにと折りあらばの姿勢、まだテレビが家庭に入り込む前、ラジオだけがメディア、なかなか自分のラジオが持てない時代。それでもラジオから流れ来る曲目に耳を澄ませた。
小坂一也という成城高校の不良が歌手になり、これがロカビリーと転じ世間を騒がせた。ウエスタンの「ワゴンマスター」で大当たりをとり、十朱幸代と結婚するも破局、62歳で没、和製プレスリーと呼ばれた。染物屋の生駒さんの親戚に、この小坂に似た人がいて、タケちゃんと指差して似てる似てると言ったことがある。
2011-06-03
2011-06-02
駒中の話6
一生のうち新築の家に入居できるということは、そう滅多にあることではない。気概を持ち自分の力で家を新築する、できるは男子一生の本懐。まあ、こうしたことは運命の巡り会わせもあり、そう簡単ではないが、駒中で図書館の新築にでくあわした。
タンチ山のてっぺんに図書館が建ち、それはモダンな建物、ガラス部位が多く、外光をふんだんに取り入れたもので、林校長が無音館の名を冠した。得意満面であったことだろう。
三茶小の三上先生が駒小の百周年で校長になっておられ、その栄誉を拝した。こうしたことはなかなか巡りあわないもの。
世の中の金と女のようなもので、太田蜀山人が言う。「世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇に巡り会いたい」
それに巡り会ったのだから、これは少々ならず得意の絶頂、しかし、こうしたことも長く生きてきたからこそ理解できるが、当時の中学生にはさっぱりわからぬことでもあった。
今井ムツオ君という短距離で滅法早い人がいた。この人はフライング気味に走り出す。アレレ、でもセーフかという走りで、見ているほうは気が気ではない。
この人が世田谷区の中学対抗陸上競技のリレーの選手、アンカーが原君、野球の名手、今井君がスタートをフライング気味に出て、一回目の警告、二回目もやらかしファウル失格、それを知らないリレーの選手、号砲一発、各ランナーが一斉に勢いよく、放たれた犬のようにまっしぐら、ところが今井君がそこにイマイで、唖然・呆然と立ちつくす、結局オジャン。
図書館が新築なったので、珍しく早く学校に行く気になった。新築の建物が気になっていたのだ。私が一番先に来たと信じていたら、今井君が芝生で足を投げ出し、本を読んでいた。人の気配を感じて読んでいた本を閉じた。声をかけると何やら恥ずかしそうにしている。読んでいた本は分厚い聖書だった。クリスチャンでもあったのか、それを訊くのがはばかれて、その場を退散したことがあった。
この今井君と三十代の終わりに偶然、新大久保で逢った。彼は中村屋のスーパーの店長をされていた。いつも店先で商品を並べたり販売したりと忙しそうだった。顔を見るたびに声をかけたが、相変わらず人の良さそうな笑顔をみせてくれた。
私も新大久保に疎遠となり、今井君のその後は知らない。新大久保の名を聞くと、今井君のことが思い浮かぶ、駒中でもなく山手線の新大久保が今井君との接点になったのも、妙なものだ。
人生は色々なことに出くわし、様々なことに振り回される。都度、泣いたり喚いたりするけれども、過ぎ去ってみるとほろ酸っぱい味がする。今井君とはそれ以来逢っていないけど、何処かの空の下で、ぽっと又会えるような気がする。
タンチ山のてっぺんに図書館が建ち、それはモダンな建物、ガラス部位が多く、外光をふんだんに取り入れたもので、林校長が無音館の名を冠した。得意満面であったことだろう。
三茶小の三上先生が駒小の百周年で校長になっておられ、その栄誉を拝した。こうしたことはなかなか巡りあわないもの。
世の中の金と女のようなもので、太田蜀山人が言う。「世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇に巡り会いたい」
それに巡り会ったのだから、これは少々ならず得意の絶頂、しかし、こうしたことも長く生きてきたからこそ理解できるが、当時の中学生にはさっぱりわからぬことでもあった。
今井ムツオ君という短距離で滅法早い人がいた。この人はフライング気味に走り出す。アレレ、でもセーフかという走りで、見ているほうは気が気ではない。
この人が世田谷区の中学対抗陸上競技のリレーの選手、アンカーが原君、野球の名手、今井君がスタートをフライング気味に出て、一回目の警告、二回目もやらかしファウル失格、それを知らないリレーの選手、号砲一発、各ランナーが一斉に勢いよく、放たれた犬のようにまっしぐら、ところが今井君がそこにイマイで、唖然・呆然と立ちつくす、結局オジャン。
図書館が新築なったので、珍しく早く学校に行く気になった。新築の建物が気になっていたのだ。私が一番先に来たと信じていたら、今井君が芝生で足を投げ出し、本を読んでいた。人の気配を感じて読んでいた本を閉じた。声をかけると何やら恥ずかしそうにしている。読んでいた本は分厚い聖書だった。クリスチャンでもあったのか、それを訊くのがはばかれて、その場を退散したことがあった。
この今井君と三十代の終わりに偶然、新大久保で逢った。彼は中村屋のスーパーの店長をされていた。いつも店先で商品を並べたり販売したりと忙しそうだった。顔を見るたびに声をかけたが、相変わらず人の良さそうな笑顔をみせてくれた。
私も新大久保に疎遠となり、今井君のその後は知らない。新大久保の名を聞くと、今井君のことが思い浮かぶ、駒中でもなく山手線の新大久保が今井君との接点になったのも、妙なものだ。
人生は色々なことに出くわし、様々なことに振り回される。都度、泣いたり喚いたりするけれども、過ぎ去ってみるとほろ酸っぱい味がする。今井君とはそれ以来逢っていないけど、何処かの空の下で、ぽっと又会えるような気がする。
2011-06-01
駒中の話5
小学生の時は担任が全ての教科を指導、ところが中学校は専門分野の先生が指導。小学校は家庭の延長上のようなもので、父親なり母親が指導しているようなものだが、中学校は世間と同じで大人の世界をかいまみるようなもので、実にこれが新鮮だった。
雷魚の木村という体育の教師は、後年クラス会に呼ばれ、そこで長生き体操の話を一席ぶった。当時、木村の雷魚先生はどこだかの体育大学教授、これは大した出世、話の呼吸も飲み込んだ先生だけに、実に生徒に受けたそうだ。ところが、すぐに亡くなった。長生き体操をしても効果がなかった。おかしいけど事実。
人の生き死にだけは誰も決めることはできないものだ。人見君という実に真面目な子がいた。成績も優秀で教師になったそうだ。佐藤君と仲が良く、店に遊びに来たそうだ。佐藤君は駒沢停留所のそばで瀬戸物屋をしていた。結婚して中目黒で果物屋を営んだ。そこに、人見君が顔を出した。なんでも勤務先がその近くだったようだ。
いつも談笑するのが、なんだかろくに話もしないで返ったそうで、その後に自殺したという。生きていることに飽きてしまったのだろう。ロマン・ローランが言う。「ねえ、君、人生ってのはね、生きたり望んだりすることに飽きてはいけないのさ」と。
長生きも芸のうちの言葉もある。無芸大食漢でも長生きできれば芸があったということだ。どんなにつまらなく、面白味のない人生でも、過ぎてしまえば短い。それをネエ君、ことさら短くすることもなかろうヨとロマン・ローランが言いそうだ。
体操の先生に沖という女性がおられた。旅行好きな先生で夏休みを利用して各地を飛び回る。立山というところでトロッコ列車に乗ったのヨ、その切符の裏に命保証せずって書いてあるの、凄いところもあるものよ、ネエ。授業の合間にそんな話をされた。その先生も若くして亡くなった。
世田谷の深沢に日体大があり、そこから講師が来た。坂口という筋骨隆々で苦みばしったいい男、体操が終って深呼吸するとき、腕を大きく上から下に下ろし、それを左右に拡げて呼吸を整える、その時に「隣のを握るなヨ」という。皆が笑うと受けたとニヤリ。隣の人の金玉を握るなという意味。何度言われても皆が笑ったもんだ。性に目覚める頃だけに、そんな話は馬鹿うけだ。その坂口先生も若くして死んだ。体操の先生は早死になのだろうか。三茶小の石塚先生もそうだった。血の気が多いのは何となく理解できるが、生き死には実に不思議なものだ。
駒中に金子という憎めない顔の好青年が教師として赴任してきた。元気の塊のような人で人気もあった。この人は髪の毛を気にされて、いつもポマードで固めておられた。ところがほどなくして河童はげになられた。世の中は一字違えば大違い、はけに毛があり、ハゲに毛が無し。生き死にと同じに毛のあるなしも自分で決めることが出来ないのも妙。
大見川先生という職業家庭科だったかの教師がおられ、この先生は実に包容力のある先生で、駒中の近くに部屋を借りておられ、そこに遊びに行った。リンゴ箱を利用して窓から出入りしておられた。住宅事情の悪い頃で、アパートが借りられず、普通の家の一部屋を借りておられたのだ。玄関は大家の部屋に近かったのだろう。皆、苦労しながら生活されたものだ。あの頃と今とでは天と地ほどの開きがあり、住宅事情も改善され、どの家も水洗便所になった。その分人間関係も希薄になり、何でも水に流れて壊れて消える。
雷魚の木村という体育の教師は、後年クラス会に呼ばれ、そこで長生き体操の話を一席ぶった。当時、木村の雷魚先生はどこだかの体育大学教授、これは大した出世、話の呼吸も飲み込んだ先生だけに、実に生徒に受けたそうだ。ところが、すぐに亡くなった。長生き体操をしても効果がなかった。おかしいけど事実。
人の生き死にだけは誰も決めることはできないものだ。人見君という実に真面目な子がいた。成績も優秀で教師になったそうだ。佐藤君と仲が良く、店に遊びに来たそうだ。佐藤君は駒沢停留所のそばで瀬戸物屋をしていた。結婚して中目黒で果物屋を営んだ。そこに、人見君が顔を出した。なんでも勤務先がその近くだったようだ。
いつも談笑するのが、なんだかろくに話もしないで返ったそうで、その後に自殺したという。生きていることに飽きてしまったのだろう。ロマン・ローランが言う。「ねえ、君、人生ってのはね、生きたり望んだりすることに飽きてはいけないのさ」と。
長生きも芸のうちの言葉もある。無芸大食漢でも長生きできれば芸があったということだ。どんなにつまらなく、面白味のない人生でも、過ぎてしまえば短い。それをネエ君、ことさら短くすることもなかろうヨとロマン・ローランが言いそうだ。
体操の先生に沖という女性がおられた。旅行好きな先生で夏休みを利用して各地を飛び回る。立山というところでトロッコ列車に乗ったのヨ、その切符の裏に命保証せずって書いてあるの、凄いところもあるものよ、ネエ。授業の合間にそんな話をされた。その先生も若くして亡くなった。
世田谷の深沢に日体大があり、そこから講師が来た。坂口という筋骨隆々で苦みばしったいい男、体操が終って深呼吸するとき、腕を大きく上から下に下ろし、それを左右に拡げて呼吸を整える、その時に「隣のを握るなヨ」という。皆が笑うと受けたとニヤリ。隣の人の金玉を握るなという意味。何度言われても皆が笑ったもんだ。性に目覚める頃だけに、そんな話は馬鹿うけだ。その坂口先生も若くして死んだ。体操の先生は早死になのだろうか。三茶小の石塚先生もそうだった。血の気が多いのは何となく理解できるが、生き死には実に不思議なものだ。
駒中に金子という憎めない顔の好青年が教師として赴任してきた。元気の塊のような人で人気もあった。この人は髪の毛を気にされて、いつもポマードで固めておられた。ところがほどなくして河童はげになられた。世の中は一字違えば大違い、はけに毛があり、ハゲに毛が無し。生き死にと同じに毛のあるなしも自分で決めることが出来ないのも妙。
大見川先生という職業家庭科だったかの教師がおられ、この先生は実に包容力のある先生で、駒中の近くに部屋を借りておられ、そこに遊びに行った。リンゴ箱を利用して窓から出入りしておられた。住宅事情の悪い頃で、アパートが借りられず、普通の家の一部屋を借りておられたのだ。玄関は大家の部屋に近かったのだろう。皆、苦労しながら生活されたものだ。あの頃と今とでは天と地ほどの開きがあり、住宅事情も改善され、どの家も水洗便所になった。その分人間関係も希薄になり、何でも水に流れて壊れて消える。
2011-05-30
駒中の話4
教室に英語の先生が入ってきた。どうしても英語を勉強して熱海湯の裏のお姉さんのように言葉を理解し、人の役に立ちたいと張り切っていた。背の低い、あまり風采の上がらない人で、髪が長く鼻にかかるようなのを手で時折もちあげていた。
黒板に自分の名前を書いたら皆が笑った。井出孫六、六番目の孫なのだろう。長野県出身で東大文学部仏文科を出た。この先生は他の先生と異なり、何かキラキラと光るものがあった。風采は上がらず茶色の背広がことさら格好が悪く見えた。でも、何か違うものを感じ、英語の授業が面白かった。先生は黒板に絵を描きながらHAT、帽子だと思えと下手くそな絵を描く、都度、皆が笑う。あまりその笑いが長いと、手で制しながら静まれ、静まれという。静まれも古風な言い方だと思ったが、七人の侍で、このセリフが出てくる。先生は代議士の倅だと噂が流れた。
そんなような雰囲気もあったが、中学生にとってはそんなことは大した問題ではなかった。夏休みだか、冬休みだったかが終って学校に行くと、別の先生が出てきた。ニワという熊本県仙波山の産の人だった。途端に英語に興味がなくなった。この人の授業は面白くない。次第にやる気が失せて、英語の成績はふるわなくなった。
勉強は教える側の熱意を生徒が敏感に受け取るのだろう。井出先生がやめた理由は中央公論に入社したからだという。中央公論の何たるかも知らなかった。
そして、その井出孫六の名を昭和50年の新聞で見つけた。直木賞をとったのだ。その本を読んだが面白くないものだった。それでもやはり、あの先生の中に光るものがあったのは間違いがなかった。とても嬉しくて、誰かに話してみたかった。高校時代の友人に話したが、「そうか」で終った。
先生の中で弾けるような光を感じたのは私だけだったのだろうか、浜畑賢吉さんも井出孫六先生の素晴らしかったことをNHKのラジオで語っておられたことがあった。あれは昭和51年か2年、毎朝の番組だった。浜畑さんが三茶小、そして駒中の話をされ、それがとても懐かしく、そして誇らしく感じた。テーマ曲も厳選されたもので、南仏を思わせるような響きがあり、ラジオがあんなに豊かな時間をくれたのは、その時だけだった。NHKには駒中の同期の五十嵐さんが、今でもラジオに出ておられるが、こちらはお座なりで面白くも何ともない。やはり個性なのだろう。人を惹きつける役者を長くされている浜畑さんは、そこのコツをつかんでおられるのだろう。
井出孫六先生もご健在で健筆をふるっておられる。地味な作風ではあるが、鋭い視点が世に受けているようだ。駒沢中学にたまたま赴任された御縁ではあるが、私にとっては生涯の宝物の時間でもあった。それが一年にも満たない時間ではあったが、静まれの言葉と、帽子だと思え、牛だと思えと言いながら、黒板に向かって白墨を動かす姿が今でも眼に焼きついている。
黒板に自分の名前を書いたら皆が笑った。井出孫六、六番目の孫なのだろう。長野県出身で東大文学部仏文科を出た。この先生は他の先生と異なり、何かキラキラと光るものがあった。風采は上がらず茶色の背広がことさら格好が悪く見えた。でも、何か違うものを感じ、英語の授業が面白かった。先生は黒板に絵を描きながらHAT、帽子だと思えと下手くそな絵を描く、都度、皆が笑う。あまりその笑いが長いと、手で制しながら静まれ、静まれという。静まれも古風な言い方だと思ったが、七人の侍で、このセリフが出てくる。先生は代議士の倅だと噂が流れた。
そんなような雰囲気もあったが、中学生にとってはそんなことは大した問題ではなかった。夏休みだか、冬休みだったかが終って学校に行くと、別の先生が出てきた。ニワという熊本県仙波山の産の人だった。途端に英語に興味がなくなった。この人の授業は面白くない。次第にやる気が失せて、英語の成績はふるわなくなった。
勉強は教える側の熱意を生徒が敏感に受け取るのだろう。井出先生がやめた理由は中央公論に入社したからだという。中央公論の何たるかも知らなかった。
そして、その井出孫六の名を昭和50年の新聞で見つけた。直木賞をとったのだ。その本を読んだが面白くないものだった。それでもやはり、あの先生の中に光るものがあったのは間違いがなかった。とても嬉しくて、誰かに話してみたかった。高校時代の友人に話したが、「そうか」で終った。
先生の中で弾けるような光を感じたのは私だけだったのだろうか、浜畑賢吉さんも井出孫六先生の素晴らしかったことをNHKのラジオで語っておられたことがあった。あれは昭和51年か2年、毎朝の番組だった。浜畑さんが三茶小、そして駒中の話をされ、それがとても懐かしく、そして誇らしく感じた。テーマ曲も厳選されたもので、南仏を思わせるような響きがあり、ラジオがあんなに豊かな時間をくれたのは、その時だけだった。NHKには駒中の同期の五十嵐さんが、今でもラジオに出ておられるが、こちらはお座なりで面白くも何ともない。やはり個性なのだろう。人を惹きつける役者を長くされている浜畑さんは、そこのコツをつかんでおられるのだろう。
井出孫六先生もご健在で健筆をふるっておられる。地味な作風ではあるが、鋭い視点が世に受けているようだ。駒沢中学にたまたま赴任された御縁ではあるが、私にとっては生涯の宝物の時間でもあった。それが一年にも満たない時間ではあったが、静まれの言葉と、帽子だと思え、牛だと思えと言いながら、黒板に向かって白墨を動かす姿が今でも眼に焼きついている。
2011-05-29
駒中の話3
1年C組に大石君という笑い顔に特徴のある、いかにも人の良さそうで、いつも頬の横に手のある人がいた。優しい喋りで顔とピッタリしていた。この人の家に学校の帰りに寄ったことがあった。大人しそうな妹さんがいて、水上君の結婚式だかに同席したとき、その妹さんのことを訊いた。すると声を落とし、顔をくもらせ、「妹のことを覚えていてくれたの、そうか、ありがとう、でもね、妹は死んだんだよ」と淋しそうに言った。まだ二十歳代だっただけに、落胆は大きかった。その大石君の顔を同期会で探したが、見当たらず友人に聞いたところ、大石君は車を運転中に心筋梗塞で亡くなったという。それも道端にキチンと車を停めてだ。いかにも彼らしい死に方だと納得しながら悲しかった。
中学生の頃から妙に大人びて、ネクタイ姿を想像させるような優しい喋りが、いまでも後ろから「元気かい」と声をかけてくるような錯覚にとらわれる。
人は誰でも死ぬ、これは摂理でどうしようもないが、短い長いが問題ではなく、どれほど真剣に生きたかが問われる。大石君の人生は短かったけど、爽やかな印象を与えた人だった。
このクラスに源玲子さんという、これまたこぼれんばかりの笑顔の綺麗な人がいた。ライオンというあだ名の美術の先生がいて、喋る言葉が「ウオー、ウオー」というまるで訳がわからない人がいて、いつもボサボサ頭だった。この先生は芸大出で腕は優秀だったおだろうが、絵を描かれているのを見たことがなかった。この先生が状差しを作れと言った。手紙入れのことだ。彫刻刀を使い思い思いの作品を作る。隣のクラスを校庭から覗いたとき、源さんが真剣に彫刻刀をたくみに使い、鎌倉彫ばりの牡丹花を見事にえぐり出した。その冴えの良さ、大胆な構図に息を呑んだ。中学一年生でこうした作品をものすることが出来る人がいるんだと、感心を通り越して、その才能を妬んだ。
自分の作品とくらべると天と地、月とすっぽんで、世の中は広い、素晴らしい人がいるものだと頭が下がった。
この人は女子美高校に進学された。どんな作品を作られたのかは知らないが、才能を開花されたのではと推測するばかり。ライオンは佐野先生と言った。この人の審美眼は実に面白く、好きだった。先生はプラタナスの幹の皮が剥げるのをしげしげと見つめ、美しい、一つひとつが違っていて、同じものがないと、実に嬉しそうに教えてくださった。
あんなつまらない物がどうして美しいのかと不思議に思ったが、今となっては先生の言われた意味がわかるようになった。
佐野先生は長く駒中におられたようだ。卒業して一度もお眼にかからなかったが、実に印象深い先生だ。
美術の先生には樋口先生がおられたが、若くやはり芸大出で、自分でも制作に励んでおられた。夕陽にカラスの絵を描かれ日展に出すんだと、張り切っておられ、その大きなキャンバスを山内君と上馬の駅まで運ばされたことがあった。その絵は日展に通って、先生は満面の笑みをこぼされたが、運んだ人物のことはすっかり忘れておられた。
中学生の頃から妙に大人びて、ネクタイ姿を想像させるような優しい喋りが、いまでも後ろから「元気かい」と声をかけてくるような錯覚にとらわれる。
人は誰でも死ぬ、これは摂理でどうしようもないが、短い長いが問題ではなく、どれほど真剣に生きたかが問われる。大石君の人生は短かったけど、爽やかな印象を与えた人だった。
このクラスに源玲子さんという、これまたこぼれんばかりの笑顔の綺麗な人がいた。ライオンというあだ名の美術の先生がいて、喋る言葉が「ウオー、ウオー」というまるで訳がわからない人がいて、いつもボサボサ頭だった。この先生は芸大出で腕は優秀だったおだろうが、絵を描かれているのを見たことがなかった。この先生が状差しを作れと言った。手紙入れのことだ。彫刻刀を使い思い思いの作品を作る。隣のクラスを校庭から覗いたとき、源さんが真剣に彫刻刀をたくみに使い、鎌倉彫ばりの牡丹花を見事にえぐり出した。その冴えの良さ、大胆な構図に息を呑んだ。中学一年生でこうした作品をものすることが出来る人がいるんだと、感心を通り越して、その才能を妬んだ。
自分の作品とくらべると天と地、月とすっぽんで、世の中は広い、素晴らしい人がいるものだと頭が下がった。
この人は女子美高校に進学された。どんな作品を作られたのかは知らないが、才能を開花されたのではと推測するばかり。ライオンは佐野先生と言った。この人の審美眼は実に面白く、好きだった。先生はプラタナスの幹の皮が剥げるのをしげしげと見つめ、美しい、一つひとつが違っていて、同じものがないと、実に嬉しそうに教えてくださった。
あんなつまらない物がどうして美しいのかと不思議に思ったが、今となっては先生の言われた意味がわかるようになった。
佐野先生は長く駒中におられたようだ。卒業して一度もお眼にかからなかったが、実に印象深い先生だ。
美術の先生には樋口先生がおられたが、若くやはり芸大出で、自分でも制作に励んでおられた。夕陽にカラスの絵を描かれ日展に出すんだと、張り切っておられ、その大きなキャンバスを山内君と上馬の駅まで運ばされたことがあった。その絵は日展に通って、先生は満面の笑みをこぼされたが、運んだ人物のことはすっかり忘れておられた。
2011-05-28
駒中の話2
陸上カバのあだ名の先生のクラスに三茶小から来た宮坂みさおという女の子がいた。この子は活き活きとした瞳の顎がほっそりとした利発な人で、中学生だというのに、ほのかな色気があり、この人は大人になったら男を悩ます存在になると思った。何で見たのか日本妖婦伝のようなものに、高橋お伝というのがあった。その挿絵が宮坂さんに良く似た美人、これだと思って学校で友達に話した。多分、小林ヒロシゲ君だとおもうが、一決して「お伝」の仇名となった。「何であたしがお伝ばのよ」と怒っておられたが、誰もが「お伝」と呼ぶようになり定着した。
高橋お伝は嘉永3年、群馬県みなかみの産、仮名垣 魯文が高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)として書いて大当たり、芝居でも大当たりとなった。墓は南千住の小塚原、鼠小僧次郎吉の隣、また、谷中の墓地にも芝居で大当たりをとった礼として守田勘彌、尾上菊五郎らが寄付者となり建立。
この宮坂さんは成人して、そんな浮名の立つこととは全く無関係で、堅実な良妻賢母となられて、中学生の推察するような人生は歩まれなかった。
この1年D組に松本アッチチがいた。この人はアキユキという名で、小学生の頃、自分の名前がはっきり言えず、アッチチのあだ名になった。国語の時間、宇佐美先生が詩の解説をされ、「からたちの花」からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ、からたちのとげはいたいよ、青い青い針のとげだよ。
北原白秋のことを教えていただいた。福岡県柳川の人、早稲田大英文科に進学、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛を得た。この詩に曲をつけたのが山田耕筰、東京本郷の産、東京芸大卒、岩崎小弥太の支援でドイツに留学、日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。
この「からたちの花」も山田が作曲、この歌を唄える人がいますかと宇佐美先生がきいたとき、松本君が手を揚げて、しきりに恥ずかしいなを連発しながら唄ったのは、聞いたことのない歌。彼はこの歌を知らずに自作の曲をつけていた。歌が違うと批難の声が生徒から上がるも、「え、これに曲があったの?」とケロリ。松本君の無知を笑うより、その才に驚いた。どのように作曲しようとしたのかはわからないけど、詩をみて、これに曲があればもっといいと思ったのだろう。そして自作の曲を発表、だから恥ずかしかったのだ。
しかし、彼はその才を生かすような道には進まれず、福島県の飯坂温泉に居住されている。何故福島県に行かれたのかは知らない。片雲の風に誘われ流浪の旅の表現もあり、私も人のことを云々できず、青森県八戸の片田舎にいる。懐かしい東京世田谷に継続して居住の出来なかった人々にとって、三茶や駒沢は郷愁の地、長谷川伸の「瞼の母」、番場の忠太郎ではないけれど、遠くにいても瞼をとじれば、あの駒中の誇り臭い古い校舎、友の呼ぶ声が今も聞こえる。
高橋お伝は嘉永3年、群馬県みなかみの産、仮名垣 魯文が高橋阿伝夜叉譚(たかはしおでんやしゃものがたり)として書いて大当たり、芝居でも大当たりとなった。墓は南千住の小塚原、鼠小僧次郎吉の隣、また、谷中の墓地にも芝居で大当たりをとった礼として守田勘彌、尾上菊五郎らが寄付者となり建立。
この宮坂さんは成人して、そんな浮名の立つこととは全く無関係で、堅実な良妻賢母となられて、中学生の推察するような人生は歩まれなかった。
この1年D組に松本アッチチがいた。この人はアキユキという名で、小学生の頃、自分の名前がはっきり言えず、アッチチのあだ名になった。国語の時間、宇佐美先生が詩の解説をされ、「からたちの花」からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ、からたちのとげはいたいよ、青い青い針のとげだよ。
北原白秋のことを教えていただいた。福岡県柳川の人、早稲田大英文科に進学、新詩社に参加。与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合う。『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛を得た。この詩に曲をつけたのが山田耕筰、東京本郷の産、東京芸大卒、岩崎小弥太の支援でドイツに留学、日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。
この「からたちの花」も山田が作曲、この歌を唄える人がいますかと宇佐美先生がきいたとき、松本君が手を揚げて、しきりに恥ずかしいなを連発しながら唄ったのは、聞いたことのない歌。彼はこの歌を知らずに自作の曲をつけていた。歌が違うと批難の声が生徒から上がるも、「え、これに曲があったの?」とケロリ。松本君の無知を笑うより、その才に驚いた。どのように作曲しようとしたのかはわからないけど、詩をみて、これに曲があればもっといいと思ったのだろう。そして自作の曲を発表、だから恥ずかしかったのだ。
しかし、彼はその才を生かすような道には進まれず、福島県の飯坂温泉に居住されている。何故福島県に行かれたのかは知らない。片雲の風に誘われ流浪の旅の表現もあり、私も人のことを云々できず、青森県八戸の片田舎にいる。懐かしい東京世田谷に継続して居住の出来なかった人々にとって、三茶や駒沢は郷愁の地、長谷川伸の「瞼の母」、番場の忠太郎ではないけれど、遠くにいても瞼をとじれば、あの駒中の誇り臭い古い校舎、友の呼ぶ声が今も聞こえる。
2011-05-27
駒中の話1
駒中には立派な鉄製の門があった。その門に校章が飾られていた。中学生になったという実感とともに、その校門をくぐった。そして、その3年間はあっと言う間であったが実に楽しい時間であった。
校門の前は麦畑が広がっていた。陸稲が風にそよいでいたこともある。校門の横には広い下水が流れていた。校門から出ると右手にだらだら坂が上り勾配であり、そこを陸上部がダッシュをしていた。陸上競技というのも妙な競技で、ただ前に進み、ルールも規則もなにもない。ただひたすら足を回転させるだけ。フィールド競技になると高くとか遠くまでなどのアレンジもあるが、球技の面白さからは遠く離れて、かなり原始的な運動だ。
陸上カバというあだ名の先生が担任、うまいあだ名をつけたものだと関心、喋ると声が裏返って、その都度生徒が馬鹿にして笑った。身体がごつく、顔はまさにカバそっくり、それが突然、女のような声になるから奇妙奇天烈、生徒の失笑をかうが、ご本人は至極まじめ。面白味のない先生だったが、授業は熱心に展開。生物部を受け持っておられた。そこには千田君がいた。千田君の家は玉電通りの上馬、中里寄りでデカシさんの前側にあたった。お父さんが歯科医、千田君もそれを継いだ。同期会にも熱心に顔を出されたが先年亡くなられた。特徴のある笑い方をする人で、いつも、この人は本当のことを言っているのだろうかと、眼の底がキラリと光る癖があった。飯川君と中が良かった。
三年生の時、クラブ対抗リレーがあり、生物部は昆虫採集の長い網をバトン替わりに使った。1メートル半もある長いものだけに、もたもた走っていてもバトンを渡すたびに先に出る。うまいことを考えたものだ。
駒中はタンチ山の裾を校庭にしただけにあって、校庭はかなり広かった。運動会は熱心だったが、学芸会はなかった。生徒が湧くように中学に押し寄せ、校舎を増設した。もとの校舎は二階建てだが、オンボロだった。中庭に二面のテニスコートがあり、横溝さん、宮崎君、山口淳子さんたちが白球を追っていた。宮崎君はかなり達者な球あしらいの出来る人だった。平賀先生がテニスの指導をされていた。少々キザな感じの人、テニスの巧拙は知らないが、よくコートの隅に立っておられた。その中庭の端に小屋があり、そこが卓球部の練習場になっていた。錦織君が練習をしているのを覚えている。どの子もキラキラと光っていた。中学生になったことを自覚し、精一杯好きな運動をしようとの意気込みに溢れていたのだろう。
弾むような声があちらこちらから聞こえた。バスケットは大賀志君や綿貫君が上手で、指導の木村先生のホィッスルが鋭く聞こえた。この先生のあだ名は雷魚、釣堀で雷魚を釣った話を楽しそうに語って、雷魚の名が定まった。この先生は国立金沢大学を出てきた。若くて先生に成り立て、谷、小林などの先生も大学を出たばかり、若い先生が多く、指導者の側もはりきっていた。校長は林という音楽教師、眼鏡をかけたおじいさんのおうに見えたが、今の我々よりずっと若い。小林先生は青山学院の英文科、勿論英語の教師だが、あだ名を茶々若丸、これは小林ヒロシゲ君がつけた、なんでも漫画の主人公だという。
校門の前は麦畑が広がっていた。陸稲が風にそよいでいたこともある。校門の横には広い下水が流れていた。校門から出ると右手にだらだら坂が上り勾配であり、そこを陸上部がダッシュをしていた。陸上競技というのも妙な競技で、ただ前に進み、ルールも規則もなにもない。ただひたすら足を回転させるだけ。フィールド競技になると高くとか遠くまでなどのアレンジもあるが、球技の面白さからは遠く離れて、かなり原始的な運動だ。
陸上カバというあだ名の先生が担任、うまいあだ名をつけたものだと関心、喋ると声が裏返って、その都度生徒が馬鹿にして笑った。身体がごつく、顔はまさにカバそっくり、それが突然、女のような声になるから奇妙奇天烈、生徒の失笑をかうが、ご本人は至極まじめ。面白味のない先生だったが、授業は熱心に展開。生物部を受け持っておられた。そこには千田君がいた。千田君の家は玉電通りの上馬、中里寄りでデカシさんの前側にあたった。お父さんが歯科医、千田君もそれを継いだ。同期会にも熱心に顔を出されたが先年亡くなられた。特徴のある笑い方をする人で、いつも、この人は本当のことを言っているのだろうかと、眼の底がキラリと光る癖があった。飯川君と中が良かった。
三年生の時、クラブ対抗リレーがあり、生物部は昆虫採集の長い網をバトン替わりに使った。1メートル半もある長いものだけに、もたもた走っていてもバトンを渡すたびに先に出る。うまいことを考えたものだ。
駒中はタンチ山の裾を校庭にしただけにあって、校庭はかなり広かった。運動会は熱心だったが、学芸会はなかった。生徒が湧くように中学に押し寄せ、校舎を増設した。もとの校舎は二階建てだが、オンボロだった。中庭に二面のテニスコートがあり、横溝さん、宮崎君、山口淳子さんたちが白球を追っていた。宮崎君はかなり達者な球あしらいの出来る人だった。平賀先生がテニスの指導をされていた。少々キザな感じの人、テニスの巧拙は知らないが、よくコートの隅に立っておられた。その中庭の端に小屋があり、そこが卓球部の練習場になっていた。錦織君が練習をしているのを覚えている。どの子もキラキラと光っていた。中学生になったことを自覚し、精一杯好きな運動をしようとの意気込みに溢れていたのだろう。
弾むような声があちらこちらから聞こえた。バスケットは大賀志君や綿貫君が上手で、指導の木村先生のホィッスルが鋭く聞こえた。この先生のあだ名は雷魚、釣堀で雷魚を釣った話を楽しそうに語って、雷魚の名が定まった。この先生は国立金沢大学を出てきた。若くて先生に成り立て、谷、小林などの先生も大学を出たばかり、若い先生が多く、指導者の側もはりきっていた。校長は林という音楽教師、眼鏡をかけたおじいさんのおうに見えたが、今の我々よりずっと若い。小林先生は青山学院の英文科、勿論英語の教師だが、あだ名を茶々若丸、これは小林ヒロシゲ君がつけた、なんでも漫画の主人公だという。
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